319 恐怖と我が儘
319 恐怖と我が儘
アルノルトの手が、リーシェの頬に添えられる。
「お前は」
親指で、まなじりをなぞるように撫でられた。
「肉親に対して心を曇らせることすら、自分の罪科だと捉えるだろう」
「……そのような、ことは……」
リーシェは答えようとして、最後まで言い切れず口を閉ざす。
(お父さまとお母さまに傷付くなんて、悪いことだと。……そんな風に感じてしまう事実を、否定できない)
十六歳の誕生日の前に、この国でディートリヒと再会したことで、故国を捨てた罪悪感があることを自覚した。
けれどもリーシェの中に眠っていたのは、国に対する感情だけではなかったのだ。
(両親の信念に奉仕することをやめて、自分の人生を生きることを選んだわ。……それでも、ふたりに不幸になってほしいとは、思わない)
むしろ、その反対のことを願い続けているのだ。
(お父さまとお母さまにも、遠くで幸せに過ごしてほしい)
たとえ、相容れることが難しいのだとしても。
(……だから私は、『自分の幸せが両親のそれと重ならない』可能性があることが、まだ少し怖い……)
リーシェ自身よりも先に、アルノルトがその心情を見抜いていた。
だからこそ、リーシェの悲しみをすぐには指摘せず、見守ってくれていたのだろう。
「リーシェ」
「?」
アルノルトが隣に腰を下ろし、リーシェの頭を撫でてくれる。
珊瑚色の横髪をそっと指で梳き、リーシェの耳に掛けながら、穏やかな声音が紡いだ。
「お前はもっと、我が儘を言っていい」
「――――……」
リーシェはひとつ、瞬きをする。
「……私」
アルノルトの瞳を真っ直ぐに見上げて、きょとんとしたままこう返した。
「いつも殿下に、たくさんおねだりをしています。これ以上は無いくらいに」
するとアルノルトは、リーシェの髪をまた撫でて、言い聞かせるように続ける。
「足りるものか」
「……アルノルト殿下……?」
深い青色をした双眸には、リーシェの姿が淡く映り込んでいた。それはまるで、透き通った海のおもてのように。
「俺に対してだけではない。……あらゆるものに、いくらでも願って構わない」
「…………っ」
とても真摯な言葉だった。
アルノルトが何かに祈るように話すなんて、本当に珍しいことである。リーシェは返事をしようとして、けれども少し躊躇った。
「私、は……」
すると、そのときだ。
「!!」
かあん、と。
美しく澄んだひとつの音が、カーテンの向こうから聴こえてくる。
「……また、塔の鐘が……?」
「…………」
ガーデンパーティのときに打たれた音色が、再び宵闇に響き渡った。
長らく鳴っていなかったはずの鐘が、どうしてこんな夜に歌うのだろう。リーシェが首を傾げると、アルノルトがリーシェの前に立ち、手を差し伸べてくれる。
「こちらへ」
「……はい。アルノルト殿下」
右手をそうっと彼に重ね、ドレスの裾をふわりと揺らして立ち上がった。
そうして連れ出されたのは、アルノルトの部屋から続くバルコニーだ。
「ひょっとして、先ほど『見せたいものがある』と仰っていた件ですか?」
「……ああ。そうだ」
(何かしら。このお部屋から見えるものといえば、思い出すのは……)
以前はこのバルコニーに立って、アルノルトと一緒に蛍を見た。
今は純然な暗闇に浸された場所を、盛夏の夜風が撫でてゆく。アルノルトが見遣った皇都の方を、リーシェも倣って眺めようとした、直後のことだ。
「――――!」
ひとつ、花火が上がる。
「これは……」
リーシェが名付けたその光が、細い月の浮かんだ星空に、大輪の花を咲かせたのだ。
「……こんな、大きな花火……!」
「…………」
金色の花、赤の花、それだけではない。ガルクハインの皇都の上に、いくつもの花火が上がってゆく。
とりどりの輝きを帯びた美しい花は、何かを祝福しているかのようだ。
「綺麗……! ご覧ください殿下、とっても素敵なお花があちらに……っ」
「ああ。見ている」
「私の顔ではなく、空をです! けれどどうして、皇都に花火が……? 作り方を知っているのは、私とミシェル先生以外に」
北からたくさんの荷馬車が来ていた、その理由のひとつに思い至る。
(まさか)
こんな花火を大量に用意できるのは、今はまだ雪の国コヨルだけだ。
その技術をコヨルに要請できる人物も、ガルクハインにただひとりしかいない。リーシェはバルコニーの手摺りから手を離して、もうすぐ夫になる人を見上げた。
「アルノルト殿下が、コヨル国を辿って、手配してくださったのですか?」
「…………」
「量産も、運搬も、この景色のために」
幾多の花火が、青の瞳に映り込んでいる。
アルノルトが見詰めてくれるリーシェの瞳にも、同じ光が揺れているだろうか。
そうして彼は、静かに言った。
「――そうだ」
「…………!」
淡々とした肯定を受け取って、リーシェの左胸に喜びが満ちる。
(……私が大好きな、美しい景色の贈り物を)
リーシェはアルノルトを見詰めながら、偉大なる事実を噛み締めた。
(他国と共に、築いた技術で……!)
そんな選択肢が、アルノルトの中に生まれたのだ。
「…………うれしい」
泣きたいほど幸せな気持ちになり、また開いた花火に視線を向けた。そうして再びアルノルトを見詰め、心から微笑む。
「ありがとうございます、殿下……」
リーシェが喜びを口にした、そのときだった。
「――――……」
(…………あ)
リーシェはひとつ、瞬きをする。
アルノルトの持つ美しい碧眼に、暗い光を見付けたからだ。月のない夜の海、冷たい冬を思わせる青色が、淡々とリーシェを見据えていた。
(……ちがう……)
そのことに気が付いて、息を呑む。
(たとえば私に、海を見せてくださったときの殿下は)
今のような無表情であろうとも、声音はとても優しかった。
(運河に流れるランタンを、見せてくださったときの殿下だって)
大きな手で、リーシェの頬に柔らかく触れてくれた。
(私に初めて指輪を嵌めてくださったとき。……誕生日の口付けをしてくださったときも。アルノルト殿下は絶対に、こんなまなざしをなさらなかった)
暗くて冷たい瞳の中に、リーシェの姿が沈んでいる。それが花火に照らされるさまは、どこか歪な宝石のようだ。
(――――きっと、この花火の役割は)
リーシェの中に、とある道筋が開かれる。
ずっと思考に引っ掛かってきたものの答えが、ようやく見付け出せたような気がした。だから、ゆっくりと両手を伸ばす。
「……リーシェ?」
アルノルトの頬を、そっと包んだ。
「どうか、そんなお顔をなさらないでください」
ここで蛍を見たときも、同じようにアルノルトへ触れたことを思い出す。
「この美しい手段をお選びになった理由は、私のことを考えてくださったからであるはずです」
リーシェは笑い、アルノルトに告げた。
「たとえ、『策略のために』上げられた花火であろうとも」
「――――……」
宵闇と同じ暗さを持った双眸が、とても静かにリーシェを見据える。
「……それが分かっていて、なぜ微笑む」
そんな風に問われた事実にこそ、リーシェはくすっと小さく笑った。
「他ならぬアルノルト殿下ご自身が、そのような目をなさっているからです」