320 世界でひとり
320 世界でひとり
「…………」
アルノルトが眉根を寄せたので、ますます笑う。
リーシェにとっては、暗い炎を灯した無表情よりも、感情が示されたアルノルトの渋面の方が、どうしても愛おしいのだ。
「……北からやってきた荷馬車の中身は、ローヴァイン閣下による献上品。アルノルト殿下はその多くの馬車の中に、花火の材料や道具をお隠しになられたのでしょう?」
けれどもリーシェには、ちゃんと分かる。
「ですがきっと、その花火こそが、『本当の荷物』を隠すための帳です」
リーシェを見下ろすアルノルトが、たったひとつの秘密しか仕掛けないはずもない。
いつだって大局を把握して、物事に幾重もの意味を持たせる人物だ。
それがたとえば、自身の婚儀であろうとも。
「『花嫁を驚かせるための贈り物』だと知れば、積み荷を不自然に扱おうとも、違和感を持つ人は少ないでしょう。――人目に触れないように運び、何処かに隠すことへの協力を厭わず、慎重に遠ざけてくれるはずです」
花火は上がり続けている。
城下で空を眺める人々は、どんなに見惚れているだろうか。
「私を、それに利用すると決めた。……そんなご自身に、怒っていらっしゃいますね?」
「………………」
「ふふ」
反論のないことを確かめて、リーシェは目を細める。アルノルトは、いつも以上に淡々とした声音で言った。
「お前こそ、俺に憤るべきだろう」
「確かに、まずはお尋ねしなくてはならないことがあります」
アルノルトの頬に添えていた手を、そうっと外す。
その上で、大切なことを確かめた。
「お義父さまに仰っていましたよね。私たちの婚儀に支障をきたすことは、本意ではないと」
昨日の目通りで、そう言ってもらえたことが嬉しかった。
「予定通りの三日後に。――必ず私の旦那さまに、なってくださいますか?」
するとアルノルトは静かな声音で、約束を返してくれる。
「……ああ」
「よかった。あなたが私にそう言ってくださるのなら、婚儀が中断になるような事態は、絶対に起きませんよね」
リーシェは安堵に目を細めて、アルノルトの手をきゅっと握った。
「運ばれた荷は、この国を乱すものではないと確信できます。……それで十分」
「…………」
アルノルトはもちろん、知るよしもないだろう。
リーシェがこれを断言する重さが、どれほどのことであるかを。
どんなにアルノルトの約束を信じているか、説明できないことを少しだけ残念に思いつつも、言葉を編む。
「この花火を見たときに、私が幸せな気持ちになることを、見通してくださっていましたか?」
「――――……」
アルノルトが、緩やかに目を伏せて口にする。
「……分かっていた」
「!」
彼の指がリーシェの輪郭に触れて、おとがいを上げさせられる。
強引なやり方なんてしなくとも、リーシェはずっとアルノルトを見ていたのに。それでも尚、視線を逸らさせまいとするかのようにして、アルノルトは続ける。
「お前がどれほど喜ぶかを。――俺がお前のために選び、コヨルと調整を行った事実に、目を輝かせるであろうことも」
アルノルトの親指が、リーシェのくちびるを柔らかくなぞった。
「それを、俺の目的に利用した」
「…………」
リーシェの胸がきゅうっと疼き、苦しみに似た感覚を帯びる。
「婚礼に伴い、膨大な物流が生まれたこともそうだ。妃のためだと覆い隠せば、多くの人間の目が曇る」
(……やっぱり。それでは)
「お前がコヨル国と築き上げた関係性も、お前を祝福しに訪れた国賓の動きも、すべてが『使える』ものだった」
そうしてアルノルトが、身を屈める。
リーシェの額に、自身の額をこつりと合わせたのだ。柔らかく目を瞑り、淡々とした声で言った。
「――お前の夫は、お前が 見出 ( みいだ ) す幸福の全てを、平気で踏み躙る」
「……殿下……」
アルノルトの手に、自身の手を重ねる。
「先ほどのお話の、続きです」
「続き?」
「アルノルト殿下は、『あらゆるものに我が儘を言え』と、私に仰いました」
小さな子供がするように、アルノルトの指を柔らかく握った。
「けれども今の私には、自分の力で何かを叶えること、そのものがとっても楽しいのです。――どうしても叶わなかった欲すらも、糧に出来る」
「…………」
小さな頃、海というものが見てみたくて、何度も図鑑をなぞったときとは違った。
誕生日に抱っこをしてほしくて、両親を見上げたときとも違う。触れたい人に手を伸ばして、こうして繋ぐことも出来るのだから。
「あらゆるお方への願いなんて、口にする必要すらありません。私が我が儘をおねだりしたいのは、たったのおひとりだけ」
恋慕う人を真っ直ぐに見上げ、透き通った気持ちでリーシェは告げる。
「世界で唯一、アルノルト殿下だけなのです」
「――――……」
他の誰にも、自らの人生にまつわることを望んだりはしない。
リーシェは微笑みを浮かべたまま、そっと目を閉じる。
「私は充分に我が儘で、貪欲です。アルノルト殿下から欲しいものが、たくさんあって……」
アルノルトの手を自身の頬に押し当てて、ゆっくりと目を開けた。
「だからこそどうか、覚えていてください」
こちらを見下ろすアルノルトの瞳の中に、美しく散る花火が映っている。
「あなたの妻は、あなたから贈り物をいただくと、泣きたくなるほどに嬉しいのだと」
「……リーシェ」
「たとえ殿下に、幾多もの目的がおありでも。――あなたが立てた戦略の中に、私が少しでも喜ぶものをと、そう考えてくださったのが分かりますから」
他の誰に見抜けなくとも、リーシェだけは気付けるはずだ。きっとこれも、世界で唯一だと自負している。
「あなたは、それを確かに見付け出すことの出来る者を、妻にとお選びになったのです」
「――――……」
アルノルトの瞳が、ほんの僅かに見開かれた。