全世界防衛戦⑭ それぞれの防衛戦 終下
全世界防衛戦⑭ それぞれの防衛戦 終下
26,000字以上あるので読了時間や目の健康にご注意ください。
混乱著しいロンドンにて、都心から郊外に向けて一台の車がひた走っていた。
大通りを避けて可能な限り裏道から裏道を渡るようにして走り、場合によっては歩道や街中のちょっとした公園を突っ切ったり、大渋滞や立ち往生を避けるルート選びは秀逸の一言。
とはいえ、だ。
「ね、ねぇ!? 流石に建物の中を突っ切るのはどうなの!?」
前方の道路が大量の自動車で詰まっている。歩道もダメだ。通り抜けようとしてた車同士がパズルのように道を塞ぎ合って完全に立ち往生している。
それを見るやハンドルを切り、ビルのエントランスを突き破って中に入ったのは、表向きは保安局の分析官、本当の姿はJ・D機関の非合法エージェントにしてマグダネス局長の懐刀――アレン・パーカーだ。
幸いなことに閑散としているロビーを通り抜け、そのまま反対側の壁面ガラスをぶっ壊して反対の道路に出るという交通ルールに真っ向から喧嘩を売る運転をしながらも、アレンは「いやぁ~」と気の抜けた返事をする。
「すみませんねぇ、グラント博士。乱暴な運転しちゃって」
バックミラーをチラッと見やれば、そこには引き攣り顔で身を固くしているエミリーの姿が。バックミラー越しにアレンと目が合うや、エミリーは悲鳴混じりの声を上げた。
「乱暴な運転ってレベルじゃないと思うけど!?」
「いや、ほんとすみません。貴女の護送とか、いろんな意味で、私もう気が気じゃなくて……」
「気が気じゃないのは私の方――いやぁああああっ前! 前ぇ!」
キキキーーッとタイヤに悲鳴を上げさせながら車のケツを振らせるアレン。前方の交差点に信号無視の大型車が出現したのだ。
それを見事なハンドル捌きで回避しつつ右折し、次の交差点で自分も信号無視して左折。目的地の方角へ進路を戻す。
「こんなんじゃリシー姉を迎えに行く前に、私達にお迎えが来るわよ!?」
遠心力で窓に額をぶつけたのか、涙目でさすりながら抗議の声を上げるエミリー。
そう、エミリーがこんな場所でスタントさながらのドライブをしているのは、彼女の大事な大事な姉的存在――リシー・アシュトンを迎えに行くためだ。
今の時期、英国の大学は長期休暇中だ。それもあって、ちょうどリシーはロンドンに来ていたのだ。将来の就職先であるAlpha製薬の系列研究施設でのアルバイトのようなものである。
エミリーが緊急連絡を取った際、ちょうどロンドン郊外にある研究施設から地下鉄で都心部に戻ってきている途中だったらしい。今回の騒動で電車が止まってしまい他の乗客と一緒に徒歩で地上に向かっているところだったのだ。
今はその向かっているという地上出口に向けて車を走らせているところだ。
「そうは言いましても一刻を争う事態ですし、貴女が外にいるのも危険ですし……」
「危険……〝無神〟だけが理由じゃなくって意味よね?」
言わずもがな、アレンの本来の任務は要人の護衛ではなく崇拝者や魔術師の類いを捕獲、尋問、必要とあらば暗殺することだ。
グラント邸から保安局へ転移(ヴァネッサの通勤経路)してきたエミリーの護送を、そんな彼が請け負っているのは、もちろん、ロンドン中に出現している〝無神〟も理由ではあるが、一番は別の理由。彼の対人戦闘能力が必要と判断されたためだ。
「崇拝者達は、既に〝黒い怪人〟の正体に気が付きつつあります」
「く、黒い怪人……」
黒い怪人――今、ネット上で話題になっている存在だ。一見、怪物同士の争いに見えるが、黒い怪人の方は、もしかして人間を守ってくれているのでは? と気が付き始めた者達が多数いるのだ。
ネット上では「深淵卿って言うらしい」「は? 何それ笑える」「厨二病かよ」「ソースどこ?」「いや、本人が名乗ってる」「俺も聞いた。アビスゲートとも言うらしい」「ふざけてる?」「言葉、通じるの?」「いや、ある意味、通じない」「世界中に湧いてる」「何それこわい」等々、事実と憶測と率直な感想が飛び交っているようだ。
恋人に対するなんとも言えない噂に、なんとも言えない表情になるエミリー。
「なら、〝無神〟を援護するためにアビィさんの大切な人を狙ってくるだろうことは想像に難くなく、その大切な人である貴女を確保するため、貴女が大切に思っている者達――ご家族や〝グラント邸の者達〟を狙うだろうことも容易に想像できます」
もちろん、そうさせないために我々J・D機関のエージェントが総出で動いているわけですが、と言いながら片腕を窓から突き出し、その手に持つ拳銃で、いつの間にか併走していた猫モドキの額を正確無比に撃ち抜くアレン。
「本来なら、グラント博士だけでも真っ先に南雲家へ避難してほしいところなんですけどねぇ」
「うっ、それを言われると何も言い返せない……」
シートベルトをギュッと握り締めながら目を伏せるエミリー。急ハンドル! ゴンッと良い音が鳴った。ついでに「キャンッ」と子犬が鳴いたような悲鳴も。
またも窓に頭をぶつけたらしい。 窓上の取っ手 ( アシストグリップ ) に両手でしがみつくようにして二度とぶつけるものかと踏ん張る。
「あ、いえ、嫌みじゃないですよ? お気持ちは察します。それに、懸念がある以上いずれにしろ保護は必要ですし、なら貴女が動いた方が圧倒的に早く、かつ効率的なのも事実ですから。なので、嫌みを言われたとかチクったりしないでくださいね? お願いします」
「いえ、別にそんなこと言わないけど……」
凄腕のエージェントのくせに、どうしてこうも情けなさを感じるのか。本気でビクビクしながらエミリーのご機嫌を窺う姿からは、とても保安局局長の懐刀とは思えない。
「私のわがままなのも事実よ……。でも、どうしても譲れないことなの。だから、手間を取らせて申し訳ないけれど、よろしくお願いします。アレン さ ( ・ ) ん ( ・ ) 」
アレンの言う通りではあった。
エミリーの名は〝南雲家の避難者リスト〟の最上位に載っている。非戦闘者である彼女は、浩介が後顧の憂いなく戦うために最も安全を確保されなければならない存在の一人だからだ。
もちろん、エミリーの家族と姉同然のリシー・アシュトン、そしてグラント邸の子供達の名も載っている。
だが本来、グラント邸に居候しているような者達――教会から派遣された神父やシスター、それに被保護者である〝覚醒者〟達が、このリストに載ることはない。
南雲家の奥深くに迎え入れるには、あまりにも関係性が間接的に過ぎるからだ。
どこでどんな影響を受けているか、その家族をどこまで保護するか。他の〝覚醒者〟達はどうするのか。グラント邸の〝覚醒者〟だけ特別扱いするのか……
保護対象の際限がなくなる、というわけだ。
だからこそ、〝覚醒者〟を保護する施設――主に教会だが――には堅牢で超常的な防備が施されているわけだが……
ともあれ、確かに浩介にとってエミリーがどういう存在かを考えれば、彼女だけでも真っ先に避難すべきだったというのは紛うことなき正論であった。
それを認めて殊勝な態度を取るエミリーに、アレンは少し慌てたように首を振った。
「よしてください、貴女に丁寧な対応をされるのは困ります。迷惑という意味では特大の迷惑をかましたのは私の方ですからねぇ。償いというには軽いかもしれませんが、貴女が家族を守りたいというなら、協力しないわけにはいきません」
そう、家族。家族だ。両親や祖母だけではない。今やエミリーには守ると心に誓った新しい家族がいる。
浩介やラナ達は言わずもがな。グラント邸で保護している子供達が、まさにその家族だ。ただの居候でも、ただの被保護者でもない。家族になると誓った子達なのだ。
「事態が事態です。グラント邸の防備でも万が一はある。なら、避難させてあげたいという気持ちは分かります」
「……ええ。南雲家への直接転移が許されていて、現状、手が空いているのは私だけだから。一人だけ安全圏に逃げるなんて……できなかったの」
エミリーの実家は言わずもがな、任意の場所からグラント邸へ転移できるのも、グラント邸から南雲家に繋ぐのも、今、それができるのはエミリーだけだ。魂魄魔法による認証式なので他者ではゲートを開けない。
対象者のもとへ辿り着けさえすれば、エミリーなら片道の移動だけで済むのだ。
加えて言えば、転移能力を持つ悪魔や妖魔でも今の防衛レベルMAXの南雲家へは直接転移できない。それが許されているのは七大罪の魔王と一握りの最上位悪魔だけ。
故に、やるべきことは山積みで、それにはどうしても優先順位を付けなければならない。真っ先に覚醒者の子供達の保護に動くことはできなかった。
だから、片道こそ物理的な移動が必要とはいえ専用ゲートキーを持つエミリーは、じっと安全圏で自分だけ待っていることができなかったのだ。
「……こうすけ達と一緒にやろうって決めた〝家〟だから。どんな時でも、あの子達の傍にいたい。傍にいるって決めた。私がかつて、先生にそうしてもらったように」
かつての恩師がそうしてくれたように、助けを求める子達に手を差し伸べる。どんな時でも彼等が帰ってこられる、安心できる〝家〟を作る。
その想いで始めた、覚醒者の子供達を保護し新しい家族として迎えるためのグラント邸。
有事の際に、その中心人物が真っ先に別の場所に避難しては、確かに心にも、決意にも、そして信頼にも反することかもしれない。
たとえ、自分の身の安全を最優先に確保することが合理的で最適解だったとしても。
たとえ、どれだけ最悪の事態が想定されても。
決して譲れない一線なのだろう。エミリーにとって、そして、きっと浩介にとっても。
こうしたいとエミリーが言った時、浩介はとびっきり優しい表情でエミリーを抱き締めたくらいだから。
ハジメが避難者リストに覚醒者の例外としてグラント邸の子等を載せたのも、その想いや信念を認めたからに違いない。
「一応、強い悪魔の護衛をつけてもらってるし、お守りのアーティファクトも全部身につけてるから、なんとかニャッ!?」
「おっと、すみません。歩道に乗り上げました。それはそれとして、魔神殿も〝グラント博士〟はお気に入りのようですねぇ。羨ましい限りです。私にも何か良い感じのアイテム、頂けませんかね?」
ちょっとシリアスな空気になったのを嫌ってか、アレンはおどけた様子でバックミラーを見やる。
エミリーちゃん、かなり深く舌を噛んだらしい。両膝を抱えるようにしてめちゃくちゃプルプルしている。相当痛かったらしい。答える余裕はなさそうだ。
そして、アレンの方にも余裕がなくなる事態が。
「ん? げっ、どうやってこちらの場所を!? ああもうっ、グラント博士! 少し乱暴な運転になりますよ! 舌を噛まないようにご注意を!」
「わざろぉいっひぇる!?」
と思わず抗議の声を上げるが、バックミラーを見やるアレンの目が非合法エージェントのそれになっていることに気が付いて息を呑む。
視線に釣られてエミリーも肩越しに背後を見やれば、みるみるうちに距離を詰めてくるSUVが二台。
そのうちの一台から灰色の煙の塊のようなものが飛び出した。砲弾のような速度だ。
それを、間一髪、車体を横滑りによって一回転させることで回避するアレン。
減速したことで猛追してきていたSUVと横並びになる。と同時に、窓から腕を出す。
その手には先程とは異なる、しかし、一見すると普通の大型オートマチック拳銃が握られていた。
引き金が引かれる。なのに火薬の炸裂音はせず、かつ薬莢も排出されなかった。
放たれた弾丸は正確無比に燃料タンクとタイヤの中間位置に着弾。しかし、車体に穴を開けたり弾かれたりすることもなく、まるで磁石の如く張り付いた。
そして、よく見れば薬莢部分もそのまま付いている。炸裂により飛ばしたのではなく、拳銃本体のなんらかの機構により飛ばしたのだろう。
明らかに威力・射程共に普通の拳銃に比べれば激減する特異な弾丸は、直後、その意味を敵へ知らしめた。
凄まじい爆発が生じ、ケツを蹴り上げられたかのようにSUVの後部が浮き上がった。そのまま背負い投げでもされたみたいに回転して上下逆さまになり、慣性に従って滑っていく。
そして、爆発炎上した。燃料タンクに引火したらしい。
もう一台のSUVが、その爆炎を突き抜けるようにして突破してくる。
「今のなに!? 弾が爆発した!?」
「ええ、うちの開発局ご自慢の――そう、いわゆるスパイグッズというやつです」
「……もしかして、この車にも仕掛けがあったりして……」
「すみませんねぇ、前の任務で既に使い果たしてまして……」
「ほんと映画の世界じゃない……」
「うちの開発主任と南雲氏は大変気が合うようで、盛り上がってましたねぇ。そのうち私にも支給されませんかね? ブリーゼにシュタイフでしたか? あれ、欲しいなぁ」
なんだかのんびり世間話でもしているような空気だが、猛追してくるSUVからは普通に銃撃を受けている。エミリーを狙う魔術師の類いだろうにアサルトライフルをフルオートでぶっ放してくるのだ。防弾仕様の車なので窓すら割れていないが。
「後部ミサイルが残っていれば楽だったんですけどね……」
「え、あ、大丈夫かも……?」
「はい?」
引き攣り顔のエミリーの言葉に、アレンが小首を傾げつつバックミラーを見やった直後だった。
SUVのボンネットに、大人の身長ほどの長さ、かつ腕ほどの太さの巨大矢がズドンッと突き立ったのは。
天から降った巨大矢はエンジンを貫通したどころか、そのまま道路に杭の如く埋まり、SUVを完全に縫い止めてしまった。もちろん、猛スピードの運動エネルギーが反動として車体と車内を襲う。
半ばまでぐしゃぐしゃに潰れた車体を見れば、中の者達がどうなったかはお察し。
次の瞬間、ズドンッと二度目の衝撃が。ビクッとしつつアレンとエミリーが同時に真横を見れば、そこには大弓を持った勇壮な人馬が着地し、並走する姿があった。
「あ、ブエルさん、です。悪魔の」
「あ、そうですか。初めまして……」
ん、と頷きスゥッと半透明になって消えていく偉大なる地獄の総裁。自然哲学や道徳のほか薬学や医療に詳しく、また癒やしの力も持っている大悪魔……大悪魔(?)さんは、薬学に天賦の才を持っているからか、以前からエミリーちゃんが大のお気に入りだ。
今回も護衛を自ら買って出たくらいには。というか、普段から何かに付けて助力しようとするくらいには。
ちな、本性を出すとライオンの頭部から五本の山羊の足が五芒星の如く生えているという、なかなかにショッキングな正気度を削ってくる姿なので、エミリー的には薬学の先生として敬意を持ちつつも、ちょっと苦手意識もある。
閑話休題 ( それはそれとして ) 。
「ともあれ、追っ手はいないようですね……もう少しで指定の場所ですよ。アシュトンさんと合流したら直ぐにグラント邸へ転移してください」
「うん、分かってる」
アレンの指示を聞いている間にも、目的地が見えてきた。
逃げ惑う人々が大勢いて混沌としてはいるが、それでも都心部からはある程度離れているせいか〝無神〟の姿はなく比較的マシな状況だ。
地下鉄の出入り口付近に視線を巡らせる。
「いた! あそこよ!」
道路を一本挟んで向こう側の大きな建物の柱の陰に、身を寄せるようにしてしゃがみ込んでいる赤毛の女性が見えた。
車が幾つも乗り捨てられていて動きづらい。それがもどかしいとエミリーがアレンに視線を向ければ、アレンは頷き、銃を取り出しながら先に車から降りた。
鋭い眼差しを周囲に配り、頷く。
直ぐに車を降りたエミリーは「リシー姉!!」と声を張り上げながら駆け出した。アレンも周囲を警戒しながら後に続く。
「エミリー!」
リシーも気が付いたようで、不安そうだった表情が一気に晴れた。柱の陰から飛び出し駆け寄ってくる。
そのまま二人は抱き締め合い、互いの無事を温もりで感じ合った。
「無事で良かった。リシー姉、怪我はしてない?」
「ええ、大丈夫よ。地下鉄を徒歩で進むなんて貴重な体験が出来て、むしろご機嫌なくらいね?」
明らかに強がりだと分かる顔色だ。妹の前であるが故に気丈に振る舞っているのだろう。
「いったい何が起きてるの? エミリー」
「詳しい話は後で。とにかく、今から転移で家に帰るから。それから日本の南雲家に避難するわ」
「子供達は?」
「大丈夫よ。リシー姉が最後だから」
子供達より自分を優先したと聞いたら怒るでしょ? とウインクしながら言う妹分に、リシーは苦笑交じりに頷いた。
同時に、どうやら子供達は既に全員グラント邸にいるらしいと分かり少し肩の力が抜ける。
「皆のご家族も今、グラント邸の方に向かってる。チャールズ神父がしばらく残ってくださるそうだから、到着次第、改めてゲートを開いて迎えに行くわ」
「まずは子供達だけでも避難させるってことね」
「お二人共! お話は避難後にお願いできますかね?」
アレンの声にハッとする二人。エミリーは直ぐに専用ゲートキーを取り出した。可愛らしい何かのアニメキャラのキーホルダーが付いた至って現代的な幾つかのカギのうちの一つを選ぶ。
「え、ここでやるの?」
「うん。秘匿は二の次でいいって言われてるから」
「この事態です。何を見ても今更ですよ」
驚くリシーを尻目に、エミリーはカギを前方に突き出した。
「Hi! アビィ! グラント邸への扉を開いて!」
『フハハハッ、認証! エミリー・グラント!! いざ、通るがいい! 我が深淵の扉を!』
リシーとアレンがなんとも言えない表情になっているのは言うまでもなく。エミリーも少し恥ずかしそう。
もちろん、こんな起動ワードと、わざわざアビスゲートにセリフを録音させてまで某お馴染みの音声アシスタントを真似た認証ワードを設定した犯人は某魔神である。断じてエミリーではない。
何はともあれ、カギを中心に空間が渦巻き光り輝いていく。問題なくゲートが展開していく。
エミリーが振り返り、アレンに視線を向けた。
「ここまで送ってくれてありがとう」
「いえいえ、どうぞお気を付けて。と言っても、後は絶対安全圏に転移するだけでしょうけども」
「あはは、そうね。……貴方も、気を付けて」
「望外のお言葉が身に染みますねぇ」
かつての事件を思えば、本当に望外の気遣いだと苦笑するアレン。
エミリーはそれに肩を竦め、リシーに手を伸ばした。
そうして、
「さ、行きましょ、リシーね――」
その手は空を切った。
自らも伸ばしたリシーの手がエミリーの手と重なる前に、エミリーの手が遠ざかったから。
そう、ゲートの奥から飛び出した肉の塊とも言うべき何か。〝不定形の怪物〟の質感を血肉に代えたような吐き気を催すそれが刹那のうちに広がり、エミリーを一息に呑み込んだのだ。
そのままゲートの向こう側へ潮が引くように消えていく不定形の肉塊。
悲鳴を上げる暇もなかった。
リシーは当然、アレンですら身動きできない一瞬の出来事。
ゲートが不自然に歪み、ねじ切れるようにして霧散する。
後に残ったのは周囲の喧噪と、
「……………………エミ、リー?」
大事な妹を奪われた姉の空虚で無意味な声音だけだった。
ドォンッと衝撃が走った。その直後、
「いやぁああああああっ!!?」
と絶叫を上げながら地面を転がったのは当のエミリーだった。全身を包んでいた半透明の輝く球体――自動で発動したアーティファクトによる結界がスウッと消えていく。
心臓を鷲掴みにされたような恐怖と焦燥により、はっはっはっはっと短い呼吸が高速で繰り返される。
無理もない。先程のあれは間違いなく〝捕食〟だった。本能が理解したのだ。喰われた、と。あまりにおぞましく恐ろしい感覚に、結界に守られていると認識できるほどの余裕もなかった。
蠢く肉の塊が閉じていく光景が目に焼き付いて離れない。視界が閉ざされていくのと同時に走馬灯まで見えた。
それでも一般人にはない数多の特異な経験が、ギリギリのところでパニックになることだけは防いでくれた。
四つん這いのままだが、どうにか顔を上げる。
その目の前にドスンッと馬の足が。
「いやぁあああああああっ――って、ブエルさんッ」
大弓を背負った人馬がこちらを見下ろしている。たっぷりのヒゲに覆われた獅子を思わせる逆立った髪と顔立ちという異形の姿だが、その瞳は気遣わしげだ。
「あ、ありがとう。助けてくれたのね」
頷きが返ってくる。普段から割と寡黙なタイプなのだ。変わらぬ態度と、エミリーの無事を確認するや直ぐに周囲を警戒する姿を見て少し心が落ち着く。
と、同時に気が付いた。
「ッ、みんなは!?」
エミリーの専用ゲートキーは確かに起動した。ということは、グラント邸へ繋がったはずなのだ。
そのゲートの奥から肉塊は飛び出してきた。なら、普通に考えれば、グラント邸の内部からやって来たということになる。
落ち着きかけた心が再び荒れた。焦燥と恐怖が頭を真っ白にする。
力が上手く入らない足腰を叱咤し、どうにか立ち上がりながらエミリーもまた周囲を見回した。
「え……ここは……」
見えたのは道路、立ち並ぶ家屋、歩道に木々……
どう見てもグラント邸ではない。明らかに屋外だ。だが、全く見覚えがないわけでもなかった。
「家の近く、よね?」
知っている道だ。あと五、六キロほど進んだ先に家があるはず。
だが、確信は持てなかった。確かに見覚えはあるが、あまりに違いすぎる点があったから。
「なんなのよ……この空……」
マーブル色とでもいうべきか。まるでシャボン玉の内側にでも入り込んでしまったかのよう。一瞬一瞬で色が変わり、その色が複雑に混じり合う、そんな空模様。
端的に言って、見れば見るほど視覚がおかしくなり吐き気が込み上げてくる色合いだ。
『クラス0相当の結界だ』
耳に心地よいバリトンボイスが響いた。ブエルが厳しい視線を空の一点に向けている。エミリーには何も見えないが何かあるのだろう。
おもむろに矢を番えるブエル。水銀のような質感と色合いの魔力が凄まじい勢いで渦巻き、矢に集束していく。一拍、美しいフォームから砲撃のような一矢が空に向かって放たれた。
十キロ以上先の空を狙ったようで、魔力の尾を引いて天に昇るそれは、まるでレーザーの如く。
だが、光の矢が想定した効果を生むことはなかった。エミリーには遠すぎてはっきりとは分からなかったが、なんとなく天頂に当たったと思った直後、フッと消えてしまったように見えた。
それに目を細め、低い唸り声を上げるブエル。
『脱出は至難』
どうやらブエルの力を以てしても容易に脱出はできないらしい。何か考えている様子のブエルに、エミリーが自分なりに咀嚼した現状を確認する。
「っ、転移を邪魔されたってこと? 私が狙われた? ここは似ているだけの別世界?」
『現実の町だ。町を丸ごと取り込まれたのだ。転移のズレは分からぬ。意図的か偶然か……いずれにしろ、最上位の空間干渉と言えよう』
地獄の総裁でも脱出できず、ハジメのアーティファクトが干渉されて転移場所がずれたという事実。
そして、町一つ、あるいは都市一つを呑み込む規模の空間遮断系の結界。このマーブル色の空を見れば、他にも何かあるのではないだろうか。
なるほど、並の〝無神〟ではない。クラス0相当と考えても過剰ではない。
「そんなの……おかしいわよ! だって、私達の町は大都市ってわけじゃないわ! 人が一番集まる大学だって、長期休暇中の今はほとんど人がいない。住宅街だって、この時間なら仕事で町にいない人がたくさんいるわ!」
クラス0相当の〝無神〟がわざわざ狙うような町ではない。少しでも効率よく魂を狩り取るために奴等は人口密集地に出現するのだから。
というエミリーの考えは確かに合っている。少なくとも今までは。
そう、一部の〝無神〟の行動パターンが変化したのだ。
大都市を狙っても尽く阻まれ打倒される。ならば、もう贅沢は言っていられない。少しずつでも力を蓄えるために喰えそうなところから喰う。簡単に言ってしまえば、そういうことだ。
人類の防衛力の高さこそがもたらした変化は、ほんの一瞬、ライラや司令部の意表を突いた。僅かな探知の遅れは対応の遅れに繋がり、卿の転移を遅らせた。
結果、町を覆う結界の展開を許してしまったのだ。
ちょうど今、外では卿が送り込まれたところだ。そして、外から見れば巨大な蠢く肉が町一つをドーム状に覆っている世にもおぞましい光景と、その肉の壁がどこの町を覆っているのか理解し、かつ内部に直接転移させることができないとライラから連絡を受け愕然としたところでもある。
グラント邸があるこの町が狙われたのは偶然か、それとも何者かの意図があってのことか。
ライラの転移が阻まれ、にもかかわらずエミリーの専用ゲートキーが干渉はされど繋がったのは? 単なる結界が完全展開する寸前だったというタイミングの問題か?
分からない。エミリーは直ぐに外へ通信を繋ごうと試み、同じく卿もエミリーに連絡を取ろうとしたがアーティファクトの通信機は機能せず。
けれど、
「こう、すけ……?」
エミリーは空を見上げ呟いた。内臓の奥から冷えていくような寒気と恐怖に襲われていた心が不思議と落ち着く。
見えず、聞こえず、話せず。けれど、なんとなく分かる。浩介が、否、卿が、いつもの高笑いもなく全力で〝結界の無神〟と戦い始めたことが。彼の焦燥と猛りが。
直ぐそこにいると、いてくれていると、理由も原因も分からないけれど分かったのだ。
それだけで、エミリーの心は平静を取り戻した。入り込もうとしてくる冷気を退ける温かな火が灯ったみたいに。
パァンッと頬を叩いて気合いを入れ直す。
「とにかく家に戻りましょう。みんなの安否を確かめないと。それに、南雲家とグラント邸を繋ぐゲートは特別製だって聞いたわ。もしかしたら脱出できるかも」
『承知。乗れ』
と言うや否や念動力だろうか。ふわりっとエミリーの体が浮き、そのままブエルの馬の部分の背に乗せられた。鞍もないのに吸着でもしたみたいに体が安定する。
直後、景色が流線型に変化した。
「は、はやい、はやいぃ……」
六キロ程度、一分もかからないのでは? と思うほどの速度。とんでもない急加速だったのに体への負担はなく、空気抵抗も感じない。多少上下に跳ねる感覚はあれど振動すらもほとんど感じず、静止状態で乗っているみたいに体は安定したままだ。
落ち着け、私! と自分に言い聞かせた直後、
『むっ』
「ひぇ!?」
ブエルが跳躍した。それは聞いてないと思わず目を閉じつつ伏せるようにして馬体にしがみつく。
その耳にズドンッと大砲の如き音が伝わった。目を開ければ、伏せていたが故に眼下の景色がよく見えて……
「え……?」
愕然とした。
まず目に入ったのは巨大矢に串刺しにされ地面に縫い止められている巨大な獣。
体長四~五メートルはあるだろうか。フォルムは狼に見える。だが、皮がない。筋肉と血管、骨が剥き出しで、あちこちに瘤があり、そこから黄緑色の膿が絶えず噴き出し、あるいは流れ落ちている。
先程のブエルの跳躍は緊急回避だったのだろう。超速力で走るブエルを横合いから正確に狙ってきたのを避け、かつ上から射貫いたのだ。
だが、真にエミリーに衝撃を与えた光景は、その皮なしの巨狼の異様で惨たらしい姿ではなかった。
「あ、あぁっ」
重力に引かれ高度が落ちていく最中、エミリーの視界には映っていた。
皮なしの巨狼が慣れ親しんだ町のあちこちで暴れている光景を。家が破壊され、走る自動車が潰され、あるいは引き裂かれる光景を。
そして、その中から……
「うっ」
ズンッと軽い衝撃と共にブエルが着地する。思わず口元を押さえるエミリー。
浮遊感のせいで酔ったわけではない。見てしまったからだ。吐き気を催す悪夢の如き光景を。
それが夢でないことは直ぐに、目の前で証明された。
悲鳴が聞こえた。断末魔の絶叫だ。
と同時に、直ぐ近くの民家が内側から破裂したみたいに吹き飛び、そこから住民が跳ね飛ばされてくるのが見えた。
既に下半身が千切れている。ぼろ雑巾のように道路を転がりピクリッとも動かない。
壁に空いた穴から皮なしの巨狼が姿を見せる。口元は真っ赤に塗れていて、誰かの 腕 ( ・ ) が牙の隙間に挟まっていた。別の住人が喰われたのだ。
唖然として声も出ない。目を見開いたまま硬直する。
ブエルがレーザーの如き巨大矢を放ち即座に仕留めるが……
「なん……なのよ……」
目に入らない。
当然だろう。その瞬間にもあちこちで家屋が吹き飛び、あるいは異変に気が付いて外へ出てきた人々や逃げようと車を走らせる人々が、
「やめて……やめてよっ」
どこからともなく溢れ出した皮なし巨狼に襲われている光景が広がっているのだから。
家や自動車を襲う巨狼のそれは、まるで卵の殻を割って中身をすするような捕食行動だった。
死が、溢れていた。それはまさに阿鼻叫喚の地獄絵図であった。
事態は更に悪化する。
喉を締め上げられた者の悲鳴のような咆哮が無数に轟いた。空を見上げれば、マーブル色の空の上から産み落とされるようにして翼竜らしき怪物が出現した。
やはり皮がない。瘤と膿に覆われ、肉と骨が剥き出しの怖気を震う姿の翼竜だ。
自由落下の途中で翼を広げ、町中へ飛翔していく。
そのうち数十体が最初からそのために産み落とされたみたいに、一直線にこちらへ向かってくる。四方八方から咆哮も轟いた。皮なしの巨狼が集まってきているらしい。
『ゆくぞ』
「っ、で、でもっ」
『汝の安全を確保できなければ、我も十全に動けん』
「……」
再び走り出したブエルに、エミリーはそれ以上の言葉を返せなかった。周囲の住民を見捨てるという選択に異議を唱えられなかった。
(堪えろ、私。感情に流されるな……私は弱い。ならせめて、戦える人の邪魔をするなっ)
エミリーは、ラナ達が己を高めるために奮闘していた姿を知っている。けれど、同じように訓練するようなことはなかった。
自分如きが強くなろうとしたところで、たかが知れているというのは分かっていたし、何より役目が違うと理解していたからだ。
エミリー・グラントの才能は、平和な時にこそ輝く。
浩介の〝魔法の世界で魔法を使わない医療を発展させたい〟という夢に、誰よりも役立てる。尊敬すべき願いに添うことができる。
その夢にこそ全力を捧げるべきだと、それこそがエミリー・グラントの戦いだと理解し、納得し、決意していた。
だが、それでも、この地獄を見ると己の無力が呪わしかった。
ここにいたのが自分でなければ誰かが救われたのではないかと思うと、血が流れ落ちるほどに唇を噛み締めてしまう。
『ここは狩り場だ。あるいは、体内か』
ブエルの言葉にハッと我に返るエミリー。
本体は言わずもがな、この肉の結界を展開している存在。あるいは、この結界そのもの。
おそらく、この〝無神〟は取り込んだ内側の獲物を、己の内に飼っている皮なしの怪物共に捕食させることで、自らの捕食とするタイプなのだろう。言い換えれば、皮なしの怪物は胃液のようなものなのかもしれない。
『我が身は大層な美食に見えているらしい』
恐るべき皮なしの怪物共は、どうやらこちらの動きが正確に分かるらしい。的確に連携し、最大効率で進路を妨害せんとしてくる。
襲い来る皮なしの翼竜を一度に七本もの巨大矢を放って撃墜し、本物の狼が群れで獲物を襲うように並走しながら包囲してくる皮なしの巨狼には虚空から波濤を喚び出して妨害しつつ、高速回転する車輪のようなものを飛ばして輪切りにしていく。
皮なしの怪物共を寄せ付けない強さは、流石、地獄の総裁である。
だが、速力は確実に落ちていた。
単純に数が多いのだ。倒しても倒しても巨狼はどころからともなく現れ、翼竜もまたマーブル色の空から産み落とされてくる。明らかにこちらを狙っている。なんとしても喰らわんと躍起になっているようにさえ感じる。
『食事の邪魔をする脅威とも見なされたか』
「え……?」
そう言われて気が付いた。
再び上がった悲鳴。今まさに老夫婦を喰らわんとしていた皮なしの巨狼が輝く巨大矢に貫かれ、自転車で必死に家に帰ろうとしたのだろう少年達の頭上で翼竜が吹き飛んだ。
「町の人達を守って、る……?」
『我が矢の届く範囲だけだ』
その範囲はいかほどか。今やブエルを中心にシャワーが噴き上がっているかの如く、凄まじい速度で魔法の巨大矢が放たれている。
その矢の目標は、なるほど。確かに、こちらを標的にする怪物達だけではなかった。周囲一帯の一般市民を襲っている怪物共もまとめて射殺しているのだ。
悪魔の人助け。その理由の一端が、己の無力を呪う少女にあるだろうことは明白だ。地獄の総裁は、やはり随分とエミリーを気に入っているらしい。
だが、その気遣いとブエル自身の膨大な力が、本人の言葉通り余計に敵を呼び込んでいる、否、本気にさせたようで。
数の暴力が本格化した。一般人を襲っていた皮なし共まで捕食を中断してこちらに向かってくる。
『グラント邸から戦闘音が聞こえる』
マンホールを吹き飛ばして地面から溢れ出た肉の大波を回避するため、再び跳躍するブエル。数キロ先にグラント邸が見えた。
「ああっ、良かった!」
健在だ。皮なしの怪物共の大群に襲われているが、屋敷のあちこちに出現しているガトリングやミサイル砲台が次々と怪物共を消し飛ばし、それを潜り抜けても超重力場で飛ぶことも許さず地面に叩き落としている。
エミリーを襲った肉の塊もいるのだが、大波のように広がって屋敷ごと呑み込もうとしても、空間破砕だろうか。空気が歪んだように見えた直後、塵の如く砕け散って四散してしまう。
空には多数のドローンが飛び交い、肉片に容赦なくタールと火炎を放って焼却まで。
もちろん、屋敷自体も多重結界により守られていて、傷一つどころか肉片の欠片も付着していない。
その上で、だ。
屋敷を挟んで向こう側から中型の飛行機が飛んできた。近未来的なデザインで、ドローンのように自由な動きをしている。グラント邸の物理的な緊急脱出用飛空挺だ。
それが屋敷の上で滞空すると飛空挺の底部と屋根の一部が光の柱で接続され、そこから次々と困惑と恐怖に満ちた表情の人々がスゥ~ッと降りていく。
「……誰か、シェルターから遠隔操作してるのね」
救助活動だ。少しでも人々を救おうと誰かが飛空挺を飛ばしているのだろう。あれを直接操縦できるのは浩介とラナ、それにヴァネッサくらいだが、ドローンと同じく遠隔操作も可能で、それならシェルターに入れる者になら動かせる。
みんな、出来ることをしている。グラント邸の健在と相まって、まるで心に光が差したような気分だ。エミリーの口元に微笑が浮かぶ。
『我は離れる』
「え……?」
地面に大質量・大瀑布の如き激流を放って肉の塊を吹き飛ばしつつ、そう言うブエルにエミリーは一瞬困惑するも直ぐに理解した。
目の前に肉の壁がせり上がっていく。大質量の蠢く肉が地面を割り、家屋や街路樹を薙ぎ倒し、もしかしたら屋内にいたであろう人々を呑み込みながら城壁の如き規模で進路を塞いでくる。
更に、まるで液状化現象の如く刻一刻と地面にも血肉が溢れてくる。それに呼応するように今までの数倍の規模で皮なしの怪物共も続々と集まってきていた。
何が何でもここで仕留める……そんな怪物共の、否、この〝結界の無神〟の敵意と殺意が感じられる布陣と物量だった。
もはや、ブエルの傍こそが最も危険な場所と言わざるを得ないことは明らかだ。なら、このままではブエルを狙う怪物共をグラント邸にトレインすることにもなるだろう。それは救助活動の妨げにもなるに違いない。
『多少は囮にもなろう』
ブエルが近くを通れば人間を襲っている怪物共も標的を変える。グラント邸との関係性を誤魔化し敵戦力を分散させることにもなる――という考えらしい。
『ゆけるか?』
着地しつつ、その身に魔力の光を纏い練り上げていくブエル。
グラント邸までは後二キロもない。一般人を放置して己に標的を変更したことを思えば、エミリーをわざわざ狙うとも思えない。ならば、一人で行くのが最善。
だが、それも当人の気概次第だ。怯えて蹲るくらいなら、どれだけ傍にいることが却って危険でも離れるべきではない。
そんな言外に決断を委ねるブエルの言葉に、エミリーは不格好ながら不敵な笑みで応えた。
「大丈夫」
ブエルの背から飛び降り、専用〝宝物庫〟を起動する。
エミリーの肩にストラップで吊されたショットガンが、腰と太ももにショットシェルを収めた弾帯と手榴弾らしきものが幾つか、そして、頭の上にはガスマスクが出現し、最後にアメリカンタイプのバイクが出現した。
エミリーの護身用武装であり、バイクは最近、某ウサミミライダーの布教もあって、とある新エナドリの対価としてハジメに貰った移動用アーティファクトだ。
それに飛び乗って、手慣れた様子でエンジンを吹かす。
そびえ立つ肉壁が遂に左右を囲むように、そして頭上を覆うようにして増殖し始めた。壁というより内側に閉じ込めて圧殺するつもりなのかもしれない。結界の中に結界を作ろうとしているというべきか。背後には数えるのも面倒な数の怪物共がいて逃がすまいと唸り声を上げている。
『我のことは気にするな。何があっても捨て置け』
「……分かった。ありがとう」
度々思うことだが、この地獄の総裁様は本当に大悪魔の一角なのだろうかと思う。有する権能は癒やしがメインで、その知識は道徳に沿い、他者を救い得るものばかり。
本性を表わした姿は確かに強烈だが……その在り方だけを見ると、医療と薬学の神様と言われても納得してしまう。
だから、片腕を掲げ、その先に水銀の如き色合いと質感の巨大魔力球を四つも創り上げ、まるで天体のように周回させているブエルを、エミリーは最大限の敬意を込めて呼んだ。
「でも、まだまだ教わりたいことが山ほどあります。絶対に死なないでください、 先 ( ・ ) 生 ( ・ ) 」
『……承知』
かけられた言葉にブエルは一瞬キョトンとし、次いでフッと口元を緩めて返事をした。
『ゆけ』
アクセルを回す。一気に加速するエミリーのバイク。蠢く肉壁に突貫する。
直後、ブエルの水銀モドキの巨大球体も四方へ放たれた。
エミリーを一瞬で追い抜いた巨大球体の一つが肉壁に直撃する。膨大な魔力が弾け、強烈極まりない閃光と衝撃を解放した。
ブエルの加護だろうか。エミリーには一切の影響がなく、しかし、標的には甚大な被害を与えるブエルの権能。
爆心地を中心に肉の壁が綺麗さっぱり消え去り、更に周囲の肉壁や地面の血肉も自壊でもしているみたいに崩壊が広がっていく。
ミラー越しに背後を見れば、怪物共も数百メートルに渡って吹き飛び、あるいは粉砕されてしまっていた。
少し息を荒げているように見えるブエルとミラー越しに目が合う。問題ないというように軽く頷き、そのまま別方向へ跳躍していく。
狙い通り、攻撃範囲外にいた怪物共は釣り餌に惹かれる魚群の如くブエルを追いかけ、余っていた肉の壁も自ら溶けるようにして崩れながら地面の下に消えていった。
「落ち着いて、私。大丈夫。問題ない。バイクには自動で攻撃する武器がついてるし、私は結界で守られてる。二、三キロの道のりくらい目と鼻の先」
肉の壁があった場所を一瞬で通り過ぎ、更に加速する。ブエルの速力とは比べるべくもないが、それでも中々の速度でバイクを走らせる。
不敵な笑みは既になく、顔は緊張で強張っていた。自分は大丈夫だと、敢えて言葉に出して言い聞かせる。
グラント邸とブエルに引き寄せられているのだろう。道中、幸いなことに怪物共は姿を見せなかった。
後は、どうグラント邸に入るか。
「屋敷の兵器は私を識別して攻撃しないはず。後は噴煙でも張って……ドローンの援護があれば更に助かる――」
何度も何度も頭の中でシミュレートする。へまをしないよう、不測の事態でも慌てないよう、自分ならできると声に力を込めて――
そして、
「!!?」
気が付けば意識が落ちていた。キィンッという硬質な、ガラスを引っ掻いたような音でハッと目を覚ます。
ぐらぐらっとブレる車体。何が起きたのか分からず呆然としてしまう。
声にならぬ悲鳴を上げながらも必死に車体を制御しようとして、しかし、その試みは予想外の、けれど予想してしかるべきだった存在が飛び込んできたことで失敗した。
「あ――」
横道から大型の白いワンボックスカーが突っ込んできたのだ。
それを回避するほどの運転技術をエミリーは持ち合わせていなかった。ワンボックスカーのフロントがバイクの後輪を横殴りにした衝撃で吹き飛ぶエミリー。
激しいブレーキ音を響かせドリフトでもしているみたいに一回転して停車するワンボックスカーと、転倒して横滑りしながら往来に停車していた車に激突してめり込む愛車の姿が、やけにスローモーションで見えた。
一拍、地面を跳ね飛ぶようにして転がり、近くの街路樹に激突して止まるエミリー。
「うぐっ」
普通なら死んでいてもおかしくない交通事故だが、エミリーは足と手を軽く擦り剥いた程度で済んだ。衝撃で少しむせているが、それだけ。結界が明滅していることから、どうやら守ってくれたらしいと分かる。
「なん……なのよっ」
キィッと再びブレーキ音が耳を突いた。四つん這いのまま顔を上げる。
中型のトラックが後からやって来て少し離れた場所に停車した。よく見れば車体の横には食料品の移動販売会社であることを示すロゴと社名、そして広告がデザインされている。ワンボックスカーの方は電気整備の会社のようだ。
だが、それらが業者の社用車でないことは直ぐに分かった。
突っ込んできた方の車の運転席から作業着を着た癖毛の強い男が勢いよく降りてくる。血走った目で、息が荒く、酷く興奮しているようだ。
その目にエミリーを心配する色は皆無。スライド式の後部座席のドアを開くや否や、中から荷物のように 子 ( ・ ) 供 ( ・ ) を引っ張り出した。
「エミリー・グラントォッ!! 今すぐ我々をグラント邸に入れろ!!」
怒声なのに、悲鳴にも聞こえる声音だった。
背中から引き抜いた鉈のような刃物を、手にも足にも手錠をかけられ、猿ぐつわをはめられた子供の首に突きつける。ブロンドの髪の六、七歳くらい少年だ。
ワンボックスカーの中には更に三人の少年少女がいて、いずれも拘束されている。もう一人、作業着を着て、白髪の目立つ髪を乱している年配の女がハンドガンを突きつけていた。
いずれも面識のない子供達だった。だが、その恐怖に引き攣り、泣きじゃくった顔を見れば、否、子供である時点で知らないふりなんてできるわけもなくて。
「誰、なのよ。あなた達……うっ」
立ち上がろうとして思わず膝を突く。腹部を押さえながら蹲るエミリー。事故のダメージが内臓に響いているのか……
「誰でもいいだろうっ!! とにかく、家に入れろ!!」
鉈の刃は鋭いらしい。少年の首に押し当てただけで軽く切れた。男の子が引き攣ったような悲鳴を上げ泣きじゃくる。
年配の女の方も銃口を一番近くにいた少女の頭に押しつけ、金切り声を上げる。中型トラックの、まだ二十代に見える青年の運転手も同じだ。短い黒髪を掻き毟るようにして怒声を上げている。
切羽詰まったような、逆に追い詰められているような、故に何をしてもおかしくない雰囲気で、揃ってグラント邸への避難を要求してくる。
自分よりパニックになっている人を見ると落ち着く心理というべきか。その様子が逆にエミリーに冷静さをもたらした。
(テンパりすぎよ、私! 起きうることとして警戒するべきだったのに!)
察する。連中は無神崇拝者の類いだと。
グラント邸に入りたいなら入ればいい。住人が鍵を開ければ入れる。救助をしているのだ。避難者が来れば受け入れるに決まっている。この状況だ。いちいち相手の素性を警戒して問答をするようなこともないだろう。彼等が一般人を演じればなおさら。
なのに、彼等はエミリーに要求している。つまり、入れなかったのだ。十中八九、住民に接触する以前に結界に弾かれて近づけなかったに違いない。
グラント邸の結界や兵器は、魂魄魔法により悪意や敵意を含めた相手の内心をも判別することができるから。
(たぶん、私を狙ってた。浩介に対する人質として。この無神と関係あるのかないのかは分からない。でも、少なくとも彼等にとっても不測の事態なのね)
〝結界の無神〟に切り捨てられたのか。あるいは、別の無神の崇拝者で、たまたま巻き込まれたのか。いずれにしろ、彼等は怯えている。迫る死の気配から逃れるべく必死なのだ。
無神のために命を捨てるタイプではない。あのリチャード警部と同じ、最終的には世界の破滅から生き延びることを目的としているタイプだ。
先程、一瞬だけ意識が落ちたのも何かの魔術に違いない。アーティファクトが守ってくれていなければ、そのまま意識を奪われて良いように使われていたか……
いずれにしろ、もっと警戒すべきだった。あまりの状況に意識が全て無神に向かってしまっていた。人間の悪意と敵意を失念してしまっていたことに歯がみする。
「何を黙っている!! さっさと立て! さもないとガキを殺すぞ!!」
エミリーのことは調べているのだろう。子供を保護している家の家主でもある。どこの誰であれ子供は見捨てられないに違いないと考え誘拐してきのだろう。
後は、どうやって家の中のエミリーと話すか。という問題に頭を抱えていたところ、まさかエミリーが家中におらず帰宅の道中だったというのは、彼等にとって、まさに地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸だったに違いない。
「分かった! 分かったから! その子達を傷つけないで」
なだめるように落ち着いた声音で返答しつつ、両手を挙げるエミリー。
従順な様子に少し心の余裕ができたのか、癖毛の男は口元に笑みを浮かべた。
そして、
「よし、下手なことはするなよ。あの悪魔を呼ぼうとしても、魔具を使おうとしても、その代償はガキ共が払うことになる。お前が、ガキを殺すんだ」
「大丈夫だから、ね? お姉ちゃんに任せて。絶対に助けるから」
男の言葉に頷きつつ子供達に言葉をかけるエミリー。子供達の縋る目がエミリーに集う。
「勝手にしゃべるな! 武装を解除しろ! 全部だ! 服も全部脱げ! 貴様等は何を隠し持っているか分からないっ」
「流石に服は勘弁しなさいよ。何も仕込んでないわよ」
「口答えするな!!」
肩を竦めて、まずは背負っているショットガンのストラップを外し、相手に警戒させないように殊更ゆっくりと地面に置く。
それから、またゆっくりと立ち上がり、更にスローペースで弾帯や手榴弾を収めたベルトを外そうとする。
「何をもたもたしている!」
「無駄に警戒させないようゆっくり動いてるだけでしょ!」
「ええいっ、もういい! 早く――あ?」
と、その時、癖毛の男に異変が起きた。ぐらりっと揺れたかと思えば、そのまま腰でも抜けたみたいにストンッと尻餅を突いたのだ。
その異変はエミリーを除く全員に起きた。子供達の目がトロンッとし、年配の女も中型トラックの青年も揃って姿勢を保てずくずおれる。
「な、にが……」
「無色無臭の気化麻酔よ。異世界の素材が混じってるけどね」
よく見れば、エミリーの腰にある手榴弾モドキのピンが抜けていることに気が付いただろう。そこからずっと大量の気化麻酔が噴射され周囲一帯を覆っていたのだ。
先程、内臓を痛めて蹲ったように見えたあれはフェイク。ピンを抜きつつ、自分には無効化する薬品を小型の注射器で打ち込んでおいたのだ。
「そんなものっ」
「知ってる」
あくまで麻酔だ。異世界の素材と合わせて、むしろ地球のそれよりも安全性を高め、例え多量に吸い込んだところで致死の危険性はないよう調合したもの。
多数の負傷者がいるような現場での集団パニックや患者の苦悶をまとめて鎮めるためのものであり、武器としては、あくまで行動や思考阻害用として調整した非殺傷性ガスである。
大人では意識を失わせるのも難しく、気合い次第で動けるだろう。子供相手でも、せいぜい気持ちよく眠る程度。
だが、それで十分。
足で跳ね上げたショットガンを掴むや素早く二度、引き金を引く。炸裂音とは異なる気の抜けるような音が響く。
「がぁっ!?」
「ぎゃあ!?
血飛沫は上がらなかった。癖毛の男も車内の女も吹き飛ばされ車体に激突するが、明らかに本来のショットガンの威力・効果ではなかった。
だが、ゴム弾の類いでもなかった。圧縮魔力により放たれたのはショットシェルそのもの。ただし、
「これ、は……」
強制的に意識が落ちていく。全身の感覚すらもなくなっていく中、男は震える手で胸元に突き刺さっているショットシェルを引き抜いた。その先端には針が付いていた。
そう、実はショットシェル型の注射器だったのだ。中身は濃度を上げた麻酔薬。やはり多量摂取でも死には至らないが、ゾウが相手でも数秒で昏倒させるという安心安全凶悪なお薬を強制注入できる特殊弾である。
おまけに、
「ぐぁっ!!?」
このショットガン、魔力駆動であることからもお察し。〝魔力衝撃波〟を放つ機能もある。中型トラックのドアが吹き飛び、間髪を入れず撃たれたショットシェル型注射器が運転席の青年の腕に突き刺さる。
だが、ワンテンポ遅れたことで、青年の最後の抵抗は許してしまったらしい。
中型トラックという、偽装はしているが目立つ自動車でやって来ていた理由が判明した。
運転席の操作で後部の扉が開かれる。途端に、荷台から無数の唸り声が響いてきた。
「な、なに……?」
一難去ってまた一難。グラント邸に攻め入ることも念頭に置いていたのだろうか。荷台に詰め込まれていたのは二十体近い異形の怪物だった。
身長は揃って140cm台。子供サイズの人型。褐色の肉体を艶のない体毛がまばらに覆い、頭には角、足には蹄がある。口が耳元まで裂けていて鋭い牙が並んでいる。全員、白目を剥いていて、凄まじい体臭が漂ってくる。全員が癖毛の男と同じ鉈を持っていた。
青年が最後の力を振り絞って、何か酷く耳障りな発音の意味不明な言葉を発する。
直後、
「ああもうっ、やってやるわよ!」
ゴブリンモドキというべき怪物達が一斉にエミリーに視線を向けた。引き攣りながらも、エミリーはチラリッと酩酊状態の子供達を見やり、半ばやけくそ気味に叫ぶ。
だが、その動きは自棄でもなんでもなく、己の戦闘能力には見切りを付けたとはなんだったのかと思うほど洗練されていた。
片手でピンを抜き、催涙と煙幕の手榴弾を集団の中に投げつける。ブッシューッと一瞬で白い煙が周囲に充満すると同時に、エミリーはガスマスクを頭の上から引き下ろすようにして装着した。
ただのガスマスクではない。暗視も熱源感知も知覚拡大機能もある、かつて雫達にも支給された仮面のバージョンアップ版というべき多機能マスクだ。
催涙ガスはゴブリンモドキにも多少の効果はあったのか、煩わしそうに顔を振ったり、煙を手で払おうとしたりしている。
そこへ、容赦なくショットガンをぶっ放していく。
一発も外すことなく、正確にヒットするショットシェル型注射器。ハジメやハウリア達も花丸評価したうえ言い値で定期売買契約を結んだ非殺傷弾の傑作は、ゴブリンモドキにも十分通じたらしい。
次々と昏倒していく怪物達。ちょっと恍惚としているようにも見えるだらしのない顔が大変気持ち悪い。
もちろん、一方的には終わらない。銃声の方角を察して一気に突進していく。
鉈を持ったゴブリンモドキの集団が雄叫びを上げながら急迫する様は、一般的な女の子なら悲鳴を上げて蹲るだろう迫力があった。
だが、エミリーの動きは鈍らない。
ちょうど弾切れしたショットガンの 銃床 ( ストック ) 部分を肩に乗せつつ、装填口のある底部を真横に向ける。同時に、片手は腰の弾帯へ。縦横2×2、合計四発を一度に掴み、そのまま上下二発ずつをスライドさせるようにして装填口に滑り込ませる。
四発を装填するのにかかった時間は一秒と少し。
即座に発砲。四体のゴブリンモドキが突進の最中に意識を失いヘッドスライディングしながら倒れ込む。
装填の隙を埋めるように衝撃波で対応。だが、横に回り込んだ個体までは対応できず、
「こ、こわっ、くなんてないんだからぁっ」
恐怖に耐えてアーティファクトの結界に身を委ねる。
顔面から数十センチ先にガキンッと音を立てて突き立てられる鉈と、ヨダレを垂らす醜悪な怪物の顔に思わず しゃがみ込んで ( カリチュ○ ) 頭を抱え ( ガードし ) たくなるが、かつて浩介と出会ったばかりの自分ではないのだと、口元と緩みそうな小股を引き締めて、再装填。
バックステップで距離を取りつつ、引き撃ちの要領で四体を次々と昏倒させ、魔力衝撃波で吹き飛ばし、装填しながら時には股間を蹴り上げたり(一応、ゴブリンモドキにとっても急所だったらしい)、ストック部分でぶん殴ったり……
「はぁはぁっ、お、終わ……った?」
気が付けば、周囲に動いている怪物の姿はなかった。皆仲良くスヤスヤタイムに入っていた。
「あはは……やればできるもの、ね? ううん、強襲課の皆に感謝しないと……」
アビィというヒーローのヒロインが銃の一つも扱えないなんてダメだ! 護身術くらいは覚えておかないと! なんて一致団結して戦闘術を嬉々として教え込んできたバーナード達に、エミリーは苦笑しながらも感謝を捧げた。
エミリーは非戦闘員だ。限りなく一般人に近い女の子だ。加えて言えば、救い手だ。
その手を血で汚してほしくない。それは俺達の役目だと、浩介もラナも他の者達も揃って望まないというから、エミリーは殺傷可能な薬品や武器は所持していない。
にもかかわらず、人質を取った崇拝者とクラス5程度であっても二十体近い怪物を一人で相手取り無力化したという事実は、掛け値なしの称賛ものだ。
これには保安局の皆さんも、流石は深淵卿のヒロイン! とニッコリするに違いなく、浩介達もまた心配しつつも誇ってくれるに違いない。
今更ながらに噴き出す冷や汗を震える手で拭いながら、どうにか荒れる呼吸を整えようとするエミリー。
「はぁはぁ、浸っている場合じゃないわ。早く、あの子達を安全な場所に」
流石に、死ぬ確率が高いからといって崇拝者達まで連れて行くほどお人好しではない。
車内で気持ち良さそうに寝ている年配の女を引きずり出し、代わりに車外で倒れている男の子を抱き上げて車に乗せる。
「危険性はないはずだけれど……ちょっと薬が効きすぎてる?」
茫洋とした様子でぐったりとシートに身を預けている子供達。苦痛を感じている様子はなく、口を開くことこそないが視線はエミリーを向いていて、その瞳には安堵と感謝が見える。
「ここは危険だから直ぐに移動するわ。枷を外してあげられなくてごめんね? もう少しだけ頑張って」
できるだけ優しい声音で声をかける。
自分自身もクタクタだ。極度の緊張や恐怖で余計に体力を消耗したのか。今にも力が抜けて寝込んでしまいそう。
バイクでは子供達全員を運べないから、なんとか運転していくしかない。免許は持っていないが、これまた強襲課の皆さんにドライブテクを直伝してもらっているので問題はないだろう。
震える手足を叱咤し、スライド式ドアに手をかける。
そして、力を込めて閉めようとして、
「あ、れ……?」
ぐらっと視界が歪んだ。鈍い痛みが肩や肘から伝わってくる。気が付けば横倒しになっていた。
(なに、これ……)
声に出すのも億劫だった。思考も鈍い。一瞬、気化麻酔が自分にも効いてしまったのかと疑うが、全力疾走でフルマラソンでもした後のような極度の疲労感や、体の芯から冷えていくような感覚に違うと確信する。
「だ、め……逃げ、ないと……」
わけが分からない。けれど、視界に映る子供達のぐったりした様子が、やはり麻酔のせいではなく、エミリーの症状と同じ原因による衰弱の類いだとするなら、ここで倒れているわけにはいかない。
立て、立って逃げろ! この子達を救わないと!
そう心の中で叫びながら必死に手足に力を込める。
その視界に、ドボッと肉の塊が落ちてきた光景が映った。流石に暴れすぎたらしい。
「っ、冗談じゃ、ない、わよっ」
死に物狂いで距離を取る。子供達だけは守ろうと、どうにか縋り付きながらスライド式ドアだけは閉めた。
直後、肉の塊が飛び掛かってきた。それにショットガンの銃口を向ける。魔力衝撃波を放つべく引き金を引く。
「……え?」
ショットガンは沈黙したままだった。カチカチッと引き金を引く音だけが虚しく鳴り、そして、
「いやぁっ」
エミリーは肉の塊に押し倒された。スライムのように広がりながら覆い被さってくる肉の塊にパニックになる。
(なんでっ、結界が……発動しない!?)
そう、エミリーを守る絶対防壁のはずのアーティファクトまでもが沈黙していた。
必死に藻掻きながら、エミリーの聡明な頭脳は鈍ってなお真実を見い出す。
(まさか……この空間そのものが……エネルギーを吸収して……)
ブエルの言葉が蘇る。
――あるいは、体内か
その通りだったのだ。結界内に囚われた時点で捕食行為は始まっていたのだ。
囚われたが最後、一切のエネルギー――当然ながら、その源である魂までもが少しずつ吸収される。それこそが、この〝結界の無神〟の権能。怪物共は、あくまでそれを早めるための補助機能に過ぎなかったのだ。
だから、敵の精神作用系の魔術が、アーティファクトの守りを抜いて一瞬とはいえ効いた。
だから、バイクで転倒した際、エミリーは傷を負った。本来なら完璧に発動して転倒事故程度では無傷で済んだはずなのに、アーティファクトの内包魔力が干渉され吸収され続けたことで不安定になっていたから。
だから、崇拝者達はあれほどに焦り恐怖していた。魔術師のくせに、ろくに魔術を使わず武器に頼った。己の中の魔力が、もっと言えば魂が喰われていると気が付いたから。
ブエルが気が付かなかったのは、きっと膨大な魔力のせいだろう。いつもより消費していても誤差にしか感じなかったのだ。
そして、エミリーは魔力を感じ取ることができない。アーティファクト内の貯蔵魔力が吸い取られていても気が付けず、戦闘で遠慮なく貯蔵魔力を消費してしまった。
「こんなっ、ところ、で……っ」
体に力が入らない。〝宝物庫〟自体も起動しない。海で溺れるが如く、遂には片腕で庇っていた顔以外の全てが呑まれて……
埋没していく。視界が閉ざされていく。肉の塊によって物理的に、そして、意識を保つこと自体が限界に来て。
「いやっ、こう、すけっ!!」
最後の力を振り絞ってできたのは最愛の人の名前を呼ぶこと、そして、天に向けて手を伸ばすことだけ――
「……あ」
パァンッと空が弾けた。マーブル色の空がガラスのように割れる。陽の光が差し込む。
その中心に黒い人影が見えた。
(あはは……流石、こうすけ……みんな、を……たす、け……)
そこで、エミリーの意識は視界と一緒に閉ざされた。
「クソがぁっ!!」
クラス0相当を打ち破った卿は、しかし、喜びも決めポーズもなく、代わりにまったくもって卿らしからぬ悪態を吐き出していた。
巨大なマーブル色の結界が天頂より連鎖崩壊していく中、自由落下に任せてスカイダイビングをしながら眼下の光景を目に焼き付けるようにして見渡す。
新しい生活を始めていた町が、大事な家のある町が、見るも無惨な有様に成り果てていた。
死が溢れる地獄絵図。
幸いなことに皮なしの怪物も肉の塊も活動を停止している。やはり本体が死ねば怪物共も死ぬらしい。勝手に消えるということはないようだが醜悪なオブジェのように動きを止めていた。
「家は……無事かっ。ハッ、流石は魔神謹製の要塞! 一生付いてくぜ!!」
傷一つないグラント邸を見て、少しだけ忸怩たる想いが和らぐ。
と、その時だった。それは一種の奇跡だったのかもしれない。
――こうすけ
「っ、エミリー?」
聞こえた気がした。己を呼ぶ声が。
同時に氷塊を背筋に投げ込まれたような感覚を覚えた。まるで全てを察して別れを告げるような声音に感じたからだろうか。ゾワッと全身の毛が逆立つ。
これまたわけもなく、視線が吸い寄せられた。
グラント邸から、そう離れていない場所。見覚えのあるバイクが車に突っ込んで止まっている。近くには業者の車が二台と、その脇に死んだスライムのように広がる肉の塊。
「うそ、だろ……」
呆然としたのは一瞬。重力魔法を使って自由落下を超える速度で落ちる。
「あり得ないっ、そんなことあってたまるかっ」
到着は瞬く間だった。ドォンッと着弾じみた勢いで地上に降り立つ。
呼吸が自然と短くなり、心音がやたらと耳に響く中、浩介は肉の塊に駆け寄り、
「ふ、ふざけんなっ」
真っ青になりながら肉の塊をかき分けた。その中から血肉に塗れたエミリーが姿を見せる。一気に引き抜き、袖で顔を拭いながら抱きかかえる。
「エミリーッ! なぁっ、エミリー!! 嘘だろ!? 目を覚ませ!!」
蜘蛛型の再生と蘇生のアーティファクトを取り出し、癒やしの光を照射させる。無限魔力より精製された〝神水〟のアンプルも取り出し、口移しでエミリーに飲ませる。
けれど、分かっていた。頭では理解していた。
「なぁ、頼むよ……お願いだから目を覚ましてくれ……」
浩介は今や魂魄魔法の使い手であるが故に。大迷宮攻略を介さない継承方式で、かつ会得して日も浅いが、それでも分かるのだ。
魂魄の有無くらいは。
エミリーには既に魂魄がなかった。喰われてしまったのだ。
自らも必死に魂魄魔法による蘇生を試みているが、エミリーの体に魂が戻ってくる気配はない。
言わば、コーヒーに入れたミルクと同じだ。喰われ、吸収されてしまった魂は、ただ死んで霧散しかけている魂を集めて固定し直すのとはわけが違う。
それが分かるから、でも、心は決して認めようとしないから。
エミリーを胸元に掻き抱いて、きつくきつく抱き締めて、止めどなく涙を流し、瞳を絶望に染めて、
「なんでっ、なんでもっと早くっ。何が深淵卿だ!! 何がヒーローだよっ、くそったれっ!!」
慟哭を響かせるしかなくて。
そして、
「こんなこと絶対に認めな――」
『落ち着け、馬鹿者』
バチンッとビンタが炸裂した。「アバァッ!?」と悲鳴を上げてくずおれる浩介君。
何事!? と見てみれば、そこにはチビユエさんが。
「ユ、ユエさんっ。エミリーがっ、頼む! 助け――」
『だから落ち着けというに』
再びバチコンッとビンタが炸裂した。首が九十度以上曲がる威力。チビユエさん、情報端末としての機能以外はないんじゃなかったの? 一般人だったら首の骨、ゴキュッと逝っちゃう威力だよ? と戦慄する浩介。取り敢えず、落ち着きはした。
『……言ったはず。ある程度の犠牲は許容する。対策はしていると』
「っ、それは……えっと、つまり?」
犠牲の許容という言葉で一瞬、頭が沸騰しかけるが、チビユエさんが手を振り上げたのでスンッと落ち着く。
そして、確かに言っていたと思い出す。
『……ん、ようやく準備が整ったみたい。まったく』
と振り上げた手をそのままに、ピッと指先を伸ばすチビユエさん。思わず釣られて頭上を仰げば、
「な、なんだ?」
空に白金の如き煌めきが波紋のように広がっていく光景が。
純白と黄金が混じり合ったような輝く光が、昼間の空にもかかわらずオーロラの如き美しい絶景を作り出す。
月の避難所にいる者達は十全に観測できただろう。
地球全土が白金のオーロラに覆われていくという得も言われぬ神秘的な光景を。そして感嘆の吐息を漏らしているに違いない。
その直後だった。
町のあちこちから色とりどりの光の粒が溢れ出した。ホタルの光の如くふわふわと宙に湧き上がり、そのまま風にさらわれるように飛んでいく。
その光は近くの肉の塊からも。淡い光が溢れ出し、そのままエミリーへ流れ込んでいく。
『……敵の目的が魂を奪うことなら、当然、奪われた場合に取り戻す方策も考える』
「あ、あぁっ」
間違いなく絶技だ。混ざったミルクをコーヒーから分離するなんて。それも、星一つを丸ごとカバーするような超規模の魔法なんて。
『……最近はどうにも戦闘力が高すぎて忘れがちだけど、本来、うちのバカオリは回復役。私も愛子も、そして異世界の女神も協力しているんだから、このくらいはやってもらわないと、ね?』
ユエの言葉を上手く認識できない。ろくに入ってこない。
だが、無視とも言える浩介の態度をユエが咎めることはなかった。その眼差しには紛れもない安堵と優しさがあった。
「エミリーっ」
まだ意識は戻らない。けれど、抱き締める浩介には確かに伝わっていた。大事な女の子の力強い鼓動が。首筋を撫でるエミリーの吐息が。
それは種々の条件と多くの協力者がいて初めて成し得る、しかし、白崎香織にしかできない神の奇跡に匹敵する究極の癒やし。
地獄と化した町が、否、それどころか、どれだけ防衛力を高めようと実際にはどうしても出てしまっていた数多の犠牲者達が、今、その奇跡により救済されていく。
『……言っておくと、流石に無神が健在だと難しい。殺して奪い返すのがベスト』
「……」
『……聞け、馬鹿者』
「あだっ!?」
再び迸るチビユエ様のビンタ。それで、浩介はようやく意識をチビユエに戻した。
『……殺し尽くせ、深淵卿。後は聖女が奪い返す』
「は、はは……普通に聞いたら邪悪極まりない命令だなぁ」
流石は魔神の正妻様。意気を取り戻した浩介はエミリーを抱いたまま、しかし、力強い動きで立ち上がった。
そして、大事な少女を救ってくれた感謝と絶大な信頼を乗せて、
「仰せの通りに」
深々と一礼し、その場を後にしたのだった。
それを見送りつつ、チビユエはフッと虚空を見つめた。そして、
『……もっと精進して、バカオリ。流石にちょっと肝が冷えた』
なんて悪態を思わず吐いてしまう。そうすれば打てば響くように、
『うぐっ、すみませんね! 最強の吸血姫様ほど才能なくて! これでも限界突破して頑張ってるんですぅ! ユエのアホぉ~~』
なんて悪態が遠き異世界より響いてきたのだった。安堵もあって、思わず笑ってしまうチビユエだった。
いつもお読み頂きありがとうございます。
感想・意見・誤字脱字報告もありがとうございます。
非戦闘員のヒロインほど、ハジメ達なら圧倒的な保護を与えているはずでピンチにするのが難しいということに書き始めてから気が付いた馬鹿は私です。あまりに難産だったため二週間頂きました。
なのに、気が付けばエミリーサイドだけで26,000字以上。何が起きたのか分からない。やはり、初の本格番外編のヒロインなだけに思い入れがあったのかも。
何はともあれ、これにて地球サイドは終了です。長々とお付き合い頂き本当にありがとうございました!
皆さんの寛容のおかげで十分に満足と言えるほど書けましたし楽しめました。
次回からはメインキャラサイドに戻ります。引き続き、どうぞよろしくお願い致します!!
※ネタ紹介
・カリチュマガード
『東方Project』のレミリア・スカーレットより。
・ショットガンの装填描写
一応『ジョン・ウィック』からですが、youtubeでクアッドロードと検索した方が分かりやすいと思います。見ていてめちゃ気持ちいいのでショートとか良く見ます。