LNCrawler

第7話 木曜日3

春の洗礼を受けて僕は — fujossy.jp · All chapters

第7話 木曜日3

しょぼくれたまま家を出てバスに乗り込み、空いていた座席に腰を下ろした。 いつもより早い時間の車内は、やや空いている。 イヤホンをつけて音楽を聴き、睡眠不足と春の陽気にあてられて、ついついうとうとしてしまった。 高校の最寄りのバス停の放送が聞こえてきて、ハッと覚醒する。 寝過ごすところだった、危ない…と思い、ふと横を見ると。 つり革を持った若い女性が、自分の顔を覗き込んでいた。その後ろに中年男性も。 自分の横に座っていた同校の学生は、他人が自分にかぶさるように立つのを怒るでもなく、睦月に体を摺り寄せて、熱い息を放つ。「すごい…いい匂い」 学生が睦月にささやく。背中が、鉄板が入ったかのようにガチリと固まった。 学生の手が、睦月の足に添えられる。内股を撫で上げられる。生唾を飲み込む音。「君、K高の子だよね…? 連絡先教えてよ…」 熱に浮かされたようなうるんだ眼をした女性が、スマホを持って話しかけてくる。 バスが正門近くに停車すると同時に、滑り落ちるように下車した。 誰かついてきたらどうしよう。どうしよう。どうしよう…! 下駄箱で靴を履き替えるのもそこそこに、バタバタと図書館に逃げ込む。 まだ誰もいないみたいだ、よかった…。 一番奥の棚まで走って、ぎゅっと小さくなって息をひそめた。「はあ…」 ひとまず、バッグの中に入れていた水をつかむ。ぽちゃぽちゃとせわしなく音が鳴る。 水。水、水… 香月の青いボトルを思い出した。 そう、朝のあれはいったい何だったんだろう。 夢かと思いたかったけど、残念なことに夢ではなさそうだった。 香月は普通だったけど… そういえば香月は、なんでみんなみたいにおかしくならなかったんだろう。 明日… 明日は金曜日…「学校……やだな……」「学校嫌なの?」 !!? その声に飛び起きて、まさしく夢を見ていたことを理解した。「母さん!?」 声のした方を振り向くと、ダイニングでノートPCに目を落としながら母が手を振った。「ただいま。もう夜だよー。夕飯は牛肉ピラフとサラダでいい?」「……あ、和風のやつ? しぐれ煮は食べちゃった」「今日はサーロインを買ってきたのよ」 んっふっふ、と悪い笑みを浮かべて親指を立てる。「おれが作る。母さん疲れてるでしょ、出張お疲れ様」「ありがと。でも今日は私が作るよ。それより、留守にしちゃってさみしかったでしょ?」「それはない」 にべもなく言い放つと、ハハハと笑って返された。 常温に戻しておいて一枚肉に、塩コショウを振って、しっかりと熱したフライパンに置く。 ジャッといい音を立てて、キッチン付近に香ばしく甘い香りが放たれた。 ポテトとブロッコリー、トマトのコンソメスープが、くつくつと音を立てる。「ミディアムでいいでしょ」 母は答えを待たずに肉を裏返す。 肉の横で冷凍のイタリアンミックスを炒めて、シーズニングで味を付ける。 睦月は、ミックスリーフのサラダにクルトンを載せて、ひとまず冷蔵庫に入れた。 フライパンから引き揚げられたステーキは、余熱を入れられながら、切られる時を待っている。 イタリアンミックスを大皿の端に盛り、フライパンを軽く拭いてから、サラダ油、ガーリックチップ少々、白飯、塩コショウ。「睦月、テーブル拭いてー」「うん」 濡らしたクロスを絞ってテーブルに行き、テーブルの上にあった本を手に取ったところで、母がこちらを見たような気がした。 カトラリーを並べ、サラダを出して、ドレッシングをかけ、スープを取り分ける。 ガーリックライスを盛り、カットしたステーキ肉を載せ、ステーキ用ソースを用意する。 いただきます。「ここのところ、よく眠れた?」「え、まあ」 今朝のことを思い出し、少しだけ食事をする手が止まる。「そっか、あっちは強風でうるさくて眠れなかったよ」 出張先は天気がすぐれなかった、外食するにも仕事がなかなか終わらなくて、終わる頃にはお店が閉まっててね…と、この数日間の苦労話が続く。「高校から、早退したって連絡メールが来てたから、心配したよ」 昼食のうどんのあとを見たのだろう。でも、ご飯は食べてたみたいで良かったよ、と笑う。 うん、と答えることしかできない。 今日のことを説明するとしたって、どう表現すればいいのかまったくわからない。 ステーキを噛みしめてから、母が指を指した。「その本」 テーブルの端に寄せた本。「できることはあると思う。私から積極的に聞くのは止めておくけど、もし相談したいことがあったら、話そう」 母は言うやいなや、ビールのもーと立ち上がった。「あ、うん…」 生返事をして、スープに口をつける。 なじみのない本だ。もしかして昼間、香月が出してきたのか。 歯に物が挟まったような感覚に陥ったが、とりあえず夕飯を食べることにした。