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少し長くなったので二つに分けました。今回と次回、少し短めです(しかも重いです…)୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧ 木曜日の夜。潤は再び誠心医科大学横浜病院を訪れた。 颯真によると、潤自身のフェロモン管理は順調とのこと。新しい抑制剤を使うたびに副作用には悩まされたものの、おおむね計画通りに進んでいるという。「正直言ってお前の反応を見てたら最初は大丈夫かなと思ったけど、ことのほかちゃんと病院に来て診察を受けてくれるから、俺も安心してる。本当、今回は頑張ってるよな」 珍しく颯真がそう褒めてくれた。最初の颯真の脅しが利いたのだと潤が苦笑すると、ならばこれからはそういう姿勢でいこうと颯真が物騒なことを言い出して、慌てた。 「帰る前に、尚紀さんのところに寄ってくる」 診察後、今日も兄と一緒に帰るつもりで、潤は病院の十二階に上る。 二度目ともなれば慣れたものだったが、夕食が終わった時刻、尚紀は病室に居なかった。 同室のオメガの男性に聞くと、デイルームと呼ばれる談話室にいるのではないかと教えてくれた。病棟の奥のそのスペースに尚紀はよくいるらしい。彼に礼を言って、潤はそちらに向かうと、すぐに見つかった。 この病院自体が白と木目調で統一された清潔感のある雰囲気だが、このアルファ・オメガ科病棟のデイルームには赤色や黄色、オレンジといった暖色系の色のソファやチェアが配置され、洒落た雰囲気が漂っている。 目の前には大きな窓が設置されていて、港湾エリアの眺望が望める。 尚紀は、メインライトを点けずに間接照明だけで照らされる薄暗いスペースで、たった一人でその赤いソファにちょこんと座り、ひざを抱えて、窓の外を見ていた。 視線の先は夜景だが、呼びかけることを躊躇うような表情だ。「尚紀さん」 潤が背後から静かに呼ぶと、尚紀は驚いたように振り返り、こちらを認める。そしてぱっと表情が明るくなった。いつもの雰囲気に潤は安堵した。「潤先輩」 いらしていたんですね、と嬉しそうな表情を浮かべる尚紀に、先ほどの表情はない。隣に腰掛けて良いかと聞くと、どうぞとニコニコしながら尚紀は応じた。 「こんなところで、どうしたの?」 潤の質問に、尚紀が窓の外に視線を流した。きれいでしょう、夜景を見ていたんです、と微笑む。 しかし、先程の雰囲気はとてもではないがそのようなのんびりとしたものではなかった。「……うん、確かに綺麗だね」「でしょう。僕ここからの風景が好きで。よくここで一人夜景鑑賞会をしているんです」 尚紀の表情はすっかりいつも通りだ。 潤は少し思案した。 今更切り出すことにすこし躊躇いを覚える。しかし颯真が過敏になっていると自分に伝えてきたのは、それなりに意味があるのだろうと思う。「……あのさ、尚紀さん。ちょっとナーバスになってたりする?」 潤が言葉を選んで、恐る恐る問うと、尚紀は膝を抱えたまま、潤に対して少し困ったような笑みを浮かべた。「……潤先輩、鋭いですね」 えへ、と尚紀は苦笑した。 その笑顔が逆に無理をしているように見えて、潤は切ない気持ちになる。僕の前で無理しなくていいと言うと、尚紀は眉を下げて、優しいなあと漏らした。「……たぶん、フェロモンの影響もあるんだと思うんですけど、ちょっと不安になっちゃって……」 尚紀が視線を逸らした。「それはペア・ボンド療法を行う日が近づいてきているから?」 間髪入れずに直球でそう聞くと、尚紀は驚いた表情を隠さなかった。「潤先輩、それをどこで?」「これでも僕だって薬屋だよ。会社で調べた」 あえて颯真の名前を出さなかった。しかし尚紀は、そっかと呟いて膝を抱えて顔を埋めた。「ちょっと難しい治療なんだね」「……はい」 潤は顔を見せずに頷く。「もし失敗したらと思うと、怖くて……」 わずかに声が震えている。 潤は膝を抱える尚紀の隣から腕を伸ばして、無言で肩を抱いた。 潤の鼻孔を、尚紀の香りがくすぐる。おそらくペア・ボンド療法のために潤以上に厳格なフェロモン管理をしているためだろう。 すると、尚紀が身体を起こし、潤の首にかじりつく。「怖いのは、モデルの仕事が出来なくなるかもしれないから?」 耳元でそう問うと、少し躊躇ったのか僅かに間があって、尚紀が首を横に振った。「……それもあるけど、違う……。あの人に申し訳ないなって」「あの人?」 誰のことを言っているのか。「僕のために、八方手を尽くして、それだけじゃなくて悩んで苦しんで…そして受け入れてくれる決心をしてくれたのに…僕のせいで失敗したら……」 潤は悟った。きっと番になるアルファのことを言っている。 この治療法は、番うアルファの側にも精神的な苦痛が伴うと聞く。もし、尚紀を受け入れる決心をして治療に臨んだのに、失敗したら……。そのアルファはなにを思うだろう。 尚紀が罵られるとか? 捨てられるとか? それっきりとか? いや、そんなに単純な話ではないはずだ。「でも、それで縁が切れるわけじゃないでしょ?」 潤が慰める。尚紀は無意識だろうか首を横に振った。「でも、僕はあの人を拒絶したことに……」「ならない」 潤は毅然として即答した。「潤さん……」「尚紀さんのその項の咬み跡は、もう単なる傷跡だ。大丈夫。そう思っているのだから、拒絶したことにはならない」「でも……」「でもじゃないよ。その人を信じてあげて?」 尚紀さんが選んだ人でしょう? そう諭しながら潤は考えた。尚紀はひょっとして颯真のことを言っているのではないかと。いや、颯真であってほしいと潤自身が願うようになっていた。颯真ならば、例え失敗したとしても、尚紀を見捨てるなんて、絶対にないからだ。「あの人は、もし失敗したとしても、番になれなくても、僕を捨てることはないと……、パートナーにしてくれると言ってくれていますが……」 それでも怖いんです、と尚紀が本音を吐露する。見れば、いつも明るく強い光を湛える尚紀の大きな目が潤んでいる。潤の腕を掴む手に力が入っている。 尚紀が俯く。そこからはらっと涙がこぼれたのを潤は見た。「…も、もし番になれなかったら。そうなったら、僕が重荷になってしまわないか……。もしそうなってしまったら。僕は自分を、責めても責めても……、きっと許せない…」 尚紀の絞り出すような感情の波に、潤は言葉を失う。 ぐっと腕を掴む手に力が入り、潤は我に返る。「そんなことない」 否定する声に力が篭もる。「重荷なんて、絶対にならない!」 なんでそんな風に言い切れるのか、オメガの自分が、と潤は思う。でも、相手のアルファが颯真ならば、絶対にないと言い切れる。「……そうかな……」 自信がなさそうに問うてくる尚紀に、潤は大きく何度も頷く。「うんうん。尚紀さんが自分を責める必要なんて、万に一つだってないんだよ」 潤は尚紀の肩を抱く。「大丈夫。根拠はないって言われるかもしれないけど、絶対うまくいく。僕も成功するのを祈ってる」 尚紀の背中をさする。大丈夫という安心の気持ちを乗せるようにして、とんとんと叩く。 尚紀が涙に濡れた目を潤に見せた。潤はそこから逸らすことなく、ただ頷いた。