(21)
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処置室の白いスライドドアが、スルスルと小さな音を立ててパタンと閉まった。潤はそれをただ眺めていた。 呆然としていた。 身体の奥から火照ってくるのは分かる。発情期が、すぐそこまでやってきている。身体がぞわぞわと違和感を訴える。 しかし、つい先程まで最大の関心事だったその事実さえ、潤の頭からするりと抜け落ち、もはやどうでもよい気さえしていた。「……尚紀の……新しい番って」 毛布から顔を見せて、颯真の背中に語りかける。「廉なの……?」 確かめずにはいられなかった。 恐る恐る、聞きたくもない答えを求めて、潤は片割れに問う。「そうだ」 颯真の返答は明快だった。 その、あまりにストレートな肯定に、潤は言葉を失う。 尚紀の番がいい人であってほしいと、心から願っていた。 尚紀の幸せを祈っていた。 それは決して嘘ではない。 だけど。 颯真の明快な程の即答は、疑いを挟む余地さえ与えてくれず、潤は息を飲んでなんとか衝撃をやりすごした。 ……どうやら、失恋したみたいだ。 失恋、なんだよな、と今更ながら反芻する。感情のスピードに脳の処理が追い付かないのだ。 半分発情期で役立たずな脳味噌が、この事実をなかなか飲み込んでくれない。 嚥下できないから、実感も湧かない。 でも、彼はもう、今ここに居ないのだ。残り香を漂わせるだけ漂わせて、行ってしまった。 最愛の番の元に。 それが、尚紀なのだ。 そう、彼から見て、何よりも最優先事項が尚紀のこと。番であれば当然だ。 しかし、これまで自分が見てきた、何気ない彼の表情が目の前に浮かんでは消える。……中学入学の出会いから今までの、約十六年。穏やかな笑顔や一緒に笑った顔、少し企んだような思惑ありげな顔。怒った顔や困った表情……そして真剣な眼差し。 諸々全てが愛おしかった。しかし、今は遠く感じる。 ようやく頭が働き出したが、どう足掻いても、自分は彼の一番大事な存在にはなり得ないのだ……と実感が徐々に湧いてくる。 自分にとって彼の存在は特別であっても、彼にとって自分はそうではない、一方通行の想い。 彼が、自分の隣を共に歩くことを許した相手は、尚紀だったのだ。残念ながら自分ではない。 潤の目前に二人が歩く後ろ姿が浮かぶ。 その長身の男の隣が羨ましくて。そこに並びたくて。 そのどうにもならない焦がれる気持ちが大きくなりすぎて。嫉妬に狂う……という訳ではなかった。 不思議と、尚紀への気持ちは穏やかだった。 尚紀に取られたというよりは、江上が自分を選んでくれなかったと思う方が納得できたのだ。 自分が誰かを好きになり、その相手も自分のことを好いてくれるというのは奇跡だ。その奇跡が、この恋には嵌まらなかったというだけのこと。 奇跡ではない……特別なものは何もなかった、単なる一方通行の恋であったのだ。 もっと早くにその気持に気が付いていれば? 素直になっていたら? 結果は変わった? 江上に見つけてもらえた? たくさんの疑問が浮かんでも、潤の中で答えは見つからずに消えていく。 衝撃と後悔で胸を抉られ、どうしようもないほどの喪失感が沸き上がる。 胸の中にぽっかり孔が空いていた。それをどのように手当てしたらいいのか分からない。庇うように毛布で身体を覆う。殻に閉じこもりたい気分だった。「あ……」 喉の奥から声が漏れた。「あ……あっ……」 漏れた声が、嗚咽になる。周りを気にする余裕などなかった。 初めて触れる自分の感情に、潤はすべてを持っていかれる。「ああーーーー!」 嗚咽が慟哭になる。いや、悲鳴に近いかもしれない。 毛布の中という限られた空間の中で身体を丸める。 何故だか涙があふれ出た。 胸が痛い。 叫ぶことで、身体の中に溜まった何かか悪いものを外に出したかった。「潤!」 突然毛布を剥がされ、視界が変わる。温かい何かに包みこまれた。 人……、颯真だった。「あ……あぁ……」 ぱりっとした白衣を、思わずぐっと握ったが、目を開いてみると自分の涙がそれに付着してシミを作っている。驚いて、顔を離そうとしたが、颯真の手は潤の後頭部をぐっと白衣に引き寄せた。「いいから泣け。ずっとこうしてやるから」 潤の涙は、再び颯真の白衣に染みを作った。 いいから。 その言葉に、潤は訳もなく安堵した。「っ……ひっく」 しゃくりを上げて颯真の胸のなかで涙を流して嗚咽を漏らす。颯真の手が、背中を優しく撫でてくれる。優しい手を持つ頼れる片割れ。双子の兄がいてよかったと思う。自分にはこんなに頼りになる兄がいる。絆も強い。 だけど。 廉に対して抱いていた恋心が破れるというのは、そういうもので埋めることができないのだ。 嗚咽としゃっくりで呼吸が巧くできない。息苦しい。涙と鼻水でぐしゃぐちゃの顔を白衣に埋めて、息を整えようとするが、巧くできない。 胸が痛い。これは失恋の痛みなのだろうか。それとも息苦しいから……? 思わずシャツの胸元を押さえる。 息を調えようとすると、浅い息が漏れる。 苦しい……。 その異常に颯真も気が付いた様子で、潤を引き離した。「どうした?」 肩を抱かれて問われるが、声も上げられないくらい息苦しい。 ドキドキと心臓が早鐘を打つ。 不安が急激にこみ上げてきて、汗が噴き出す。 目の前が暗くなってきた気がする……。「……あっ」 颯真が右腕で背中を支えてくれ、左手を腹部に当てた。「大丈夫だから。一度息を止めて」 耳元で颯真の声が聞こえる。怖い。こんなに息苦しいのだから、止めたら、死んでしまう……。 そんな焦りが分かるのだろう。颯真の左手が潤の手を握る。「俺を信じて、大丈夫だから」 穏やかな片割れの囁き。白衣の腕を掴む。そして息を止める。「息を吸って」 お腹に空気を入れるようにゆっくり、と言われ、潤は僅かに口を開く。腹部に当てられた颯真の手が温かくて少し安心する。「そう、上手」 落ち着いた颯真の声に促され、次は口許をすぼめて息を吐く。ふうっとお腹から空気を抜かれていくと同時に力も抜けていく。「もう一回、やろうか。息を吸って」 その言葉に、潤は口を開けて息をゆっくり吸い込む。「そうそう、お腹もちゃんと動いてる。そして吐いて……」 颯真の声に潤も安心して息を吐く。 そうして何度か深呼吸をすることで、身体も気持ちも少し落ち着いてきた。腹部から手を離した颯真が、潤の背中をさする。颯真が触ってくれるところ、すべてが温かい。「落ち着いてきたかな」 潤は颯真の胸のなかで小さく頷く。 涙と鼻水で酷い顔をしていると思うが、そう思えるということは、自分自身が少し気持が落ち着いたということなのだろう。 すると、颯真は潤のシャツのフロントボタンを片手で外し始めた。何をするのだろうと潤がぼんやり思っていると、左肩を露出させる。「いろいろ疲れたんだろう。薬を打つから少し休め」 え、注射? と頭が戸惑いながら判断したときには、もうすでにがっちりと颯真に身体を固定されていた。 脱脂綿を掴んだ颯真の右手が潤の左肩を滑る。いつもの手順に緊張が走る。 颯真の右腕が延び、ありがとうと背後の誰かに礼を言う。もしかしなくても、誰か看護師がずっといたのかもしれない。 猛烈に羞恥心がこみ上げてきて、身体が固まる。怖すぎて後ろを振り返ることができない。 そんな潤に構うことなく、颯真は着々と作業を進めている。「大丈夫だよ、ちょっとチクっとするだけだから」 いつの間にか右手には注射器が握られている。潤がそれを凝視していると、隠すように腕で視線を遮った。 左肩にチクリと痛みが走る。「ん…」 思わず声を上げると、颯真がすぐ終わるから、と窘める。痛みは薬液の注入と共に強くなる。潤は颯真の白衣に顔を埋めて、それの時を耐えた。思わず息を止めると、察しの良い颯真には、ちゃんと息を吸って、と宥められた。「終わったよ」 颯真が刺入部分をよく揉み込んでシャツを調えてくれた。そして潤が身体を横たえると、毛布を肩まで掛けてくれる。「ここで寝ていいから」 潤もそれに頷いた。ちょっとだけ、何も考えたくない気分なのだ。 颯真の言った通り、毛布の暖かさに包まれると眠気はすぐにやってきたのだった。