(9)
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尚紀がハンカチを貸してくれた。 それを有り難く受け取り、潤は涙を拭う。 それを見ていた江上が、潤の目の前にあった小皿を掴み、トングを手にする。「とりあず、サラダを食え」 江上が潤の目の前の取り分け皿にシーザーサラダを盛り付けてくれる。 「さっきの肉じゃがもさりげなく手をつけてないだろ。痩せた理由は発情期だけじゃないな」 江上の指摘は鋭い。「ずっと悩んで、正月なのに飲んだり食ったり出来たりしていないんだろう」 そのとおりだった。それより前も一週間はほとんど固形物を食べていなかったのだから胃も弱っている。「あのさ、お前は少し太れ。なんで仕事の交渉事はタフにこなすのに、こんなに腕が細いんだよ」 三十路の男の腕じゃないと江上が嘆く。 江上が空気を変えようとして大袈裟に言っているのが潤にも分かった。「そんなこと言われても……」 潤もそれに乗っかるように困惑する声を上げる。 「そうですよ、潤さん。入院していた僕より痩せちゃってます」 尚紀もシーザーサラダが盛られた上に、遠慮なく唐揚げを乗せていく。 このふたりの気遣いが嬉しい。「……ちょっと、待ってよ。僕こんなに食べられないよ……」 潤の言葉に気を取り直した尚紀が笑う。「あと、砂肝とねぎまと銀杏も来ます。あとは何食べます?」 そしてメニューを開く。「潤さん、ビールでいいですか? 廉さんは日本酒?」 尚紀の言葉に、江上が頷く。「そうだな。俺は日本酒に行こうかな」 江上がテーブルの脇に立てかけてある日本酒のメニューを手にする。 尚紀が砂肝とねぎまと銀杏を運んできた女将を捕まえて、あらたに料理と江上が選んだ日本酒を注文する。「まずは食べろ。食べられるだけでいいから。脳に栄養が行っていないと碌な思考にならないと俺は思う」 江上の言葉には力がある。潤も頷いた。「……それは言えてるね」 この年末からこちらの自分の言動を見れば明らかだった。……少し食べて栄養をつければ、もう少し前向きに考えることも可能か。 箸を手にしてサラダの上の唐揚げを口にする。からっと揚げられた衣を口に入れると、香ばしい香りとともにじゅわりと熱い肉汁が口の中を満たす。 衣は少し濃いめの味付け。「……美味しいね」 江上が笑みを浮かべる。「だろ。俺と颯真が通い込む店だからな」 颯真がずっとおまえを連れて行きたいって言ってたけど、なかなか機会がなかったから、かなって良かったよ、と江上が目を細めた。「……正直。なんで颯真が廉に話したのか……分からなかった」 確かに颯真も潤も江上を親友として信頼しているが、それでも話題としてはデリケートすぎるものだ。どう考えても颯真から話すような性質のものではない。 すると、江上が軽く笑った。「それは簡単だ。俺があの後すぐに、颯真に連絡入れた」 あいつが捕まったの元旦の夜だけどな、と江上が言う。「お前に聞くより早いと思ったから。だからあいつには直球で聞いた。お前、潤に何をした? って」 潤は納得した。江上の勘の良さを潤は改めて感じた。あの首筋の跡を江上に見られた時点で、彼は颯真の関与を含め、全てを悟ってもおかしくはなかったのだ。 颯真が、医師として潤を投げ出すことはないと知っているのだから。 潤が箸をテーブルに置いた。「そう。……僕は発情期から抜けるため、颯真に抱かれた。そして、颯真に告白されたんだ」 事実だけを口にする。 実際に音に出すと、その重さがずしんと潤の腹に落ちる。やっぱりアルコールの力を借りていて良かった。素面ではその衝撃に耐えられない気がする。「僕は、颯真が治療の一環として抱いてくれたと思ってたし、そう思おうとしていた。正気に戻るために彼の力を借りたと。でも、颯真はそうじゃなかった」 「……潤さん」 隣の尚紀の声が気遣う色を漂わせる。脚の上に置く手を、尚紀がそっと握る。 潤が尚紀を見た。心配そうに見つめる視線に、潤もまた弟を見るような慈しみの情をもって返した。「僕もまだ自分の中でどう気持ちを整理していいのか、分からないんだ……」 多分、さっきの僕の反応を見て分かったと思うけど、と付け加える。「……そうだろうな。今も苦しそうな顔をしている」 江上が潤を見つめ返してきた。「時間をかけてじっくり考えればいい。そのために颯真も距離を取ってるんだと思う」 最初は治療のためだと本気で思っていた。しかし、それは自分に都合が良い方向に考えていただけにすぎなかった。 潤はそう思いたかった。なのになぜ、颯真は兄弟関係が壊れかねない危険性を孕んだ自分の気持ちを、このタイミングで晒したのだろう。 潤は、最初は颯真が自分のフェロモンに惑わされて、おかしくなってしまったのかと考えた。兄弟同士、いや双子でも、フェロモンに当てられると、そのようなケースもあるのかもしれないと思ったのだ。 たとえそうでないとしたら、自分が佐賀にフェロモン誘発剤などを打たれ、コントロールのしようがない発情期に見舞われてしまったせいではないかと思った。 答えの見つからない疑問は、胸の中で徐々に後悔を伴って大きくなっていく。もし自分があの時、佐賀の手を止めることができていたら、こんな事態に陥ることはなかったのかもしれない。 そのようなことをぐるぐると考えれば考えるほど、兄弟間、さらには双子で事に及ぶという行為の意味が、僅かほども理解することができなかった。「なんで、颯真はあんなことを言い出したんだろう。いつからあんな気持を抱いていたんだろう……。 僕が、佐賀さんに誘発剤なんて打たれなければ、あのままでいられたのかな。コントロールが効かない発情期になんてならなければ、これまでどおりでいられたのかな……」 口から漏れたのは、絞り出すような後悔の念。もう言ってもどうにもならないと分かっているのに、口に出さないと澱のように身体に溜まってしまいそうだ。 それを口にして、そうだと肯定してもらい、責められたいのか。それとも、違うと否定してもらって、慰めてほしいのかは、潤にも分からなかった。 しかし、江上の言葉はどちらでもなかった。「潤、そういうことを深く考えるのはよせ。お前がそこに罪悪感を抱く必要はないんだ。お前の存在が、森生颯真という人間を変質させたわけじゃない。お前がいたから、颯真はああいう人間になったんだから」 江上の言葉はわかりにくい。「僕がいたから……」 江上は頷く。「そうだ。あいつの中には常にお前がいる。それは今に始まったことじゃない。颯真は、十分に耐えて頑張って、そして今がある。あいつはブレていない」 颯真の中には常に自分がいる、そう江上に断言されて、やはり嫌な気分にはならなかった。理解できない、受け入れられないと、颯真の言動をいくら詰っていても、潤の中では、完全に颯真を切り捨てることができないのだ。「お前からみると、颯真ががらっと変わったように見えるかも知れないけど、あいつは何も変わっていない。颯真にとって一番大事なのはお前で、それはずっと変わらない事実だ」 そして最後に江上は言った。「だから、颯真のことは真剣に考えてやってくれ」「……真剣に、か」 正直、兄弟であるという前提を前にして、どう真剣に考えればいいのか、今の潤には途方にくれてしまう。 潤は手のひらで顔を覆う。「考えてみれば、取り乱しているのは僕だけなんだよな。……情けないな」 周りを見ると、冷静ではないのが自分だけなのだ。颯真からすべてを聞いていたとはいえ、江上や尚紀も落ち着いている。 しかし、江上は、お前の反応は健全だろと、潤の言葉をたしなめた。「普通は、なぜ、どうして、ってなると思うぞ。でも、颯真だって、お前の感情がそこからスタートするものだと、ちゃんと分かっていると思う」 江上の言葉は終始優しく、尚紀の手はずっと潤の手を握っていて、こちらもとても温かかった。 潤は考える。 きっと江上が颯真が抱く自分への気持ちを知っていて、いつかはこうなるのだろうと予感していたに違いない。 颯真はいつから、恋愛感情を抱いていたのだろう。江上の口調からすると、最近の話ではなさそうだ。 まったく気が付かなかった自分は、無邪気な弟として振る舞って密かな想いを抱く颯真に余計な負担を与え、その颯真の行き場のないストレスを、きっと江上が受け止めていたのだろうと、潤は想像した。 正直なところ、このふたりには常々、自分には入り込めないアルファ同士の繋がりがあると、潤は読んでいた。きっと、そのような繋がりの何割かは、自分には到底言えない秘密だったのだろうと思う。 颯真が、一体いつから自分に対してこんな愛情を抱いていたのか。ここで江上に問えば教えてくれるかもしれない……。 しかし、潤はここで明快な答えを聞きたいとは思わなかった。颯真が抱く思ってきた時間が長ければ長いほど、こちらにのしかかる心の負担も重くなるような気がしたからだ。「これから二人で考えるといいと思う。でも、まずはお前がちゃんと真摯に颯真のことを考えてやってくれ」 颯真のことを真剣に、真摯に考えてほしいという江上の願いは、颯真への気遣いに溢れている。きっと、颯真が江上だけに晒してきたのであろう苦しみを、きっとずっと見てきたのだろう。「今の段階で、お前は颯真とどうなりたいんだ」 潤の答えは明快だ。「僕は……元通りになりたいよ。颯真は大事な片割れだ。決まっているじゃないか」 片割れだと言い合える、あの関係性にわずかでも戻れたらと思うが、……もう無理だろう。「颯真に告白までされて……僕にどうしろと」「……潤」 知らなかった頃には戻れないのだ。 それでも潤は、無理矢理に気持ちを括る。俯かず、振り返らず、前を向くしかないことはわかった。 考えて、悩んで、おそらくのたうち回った先に、何が見えてくるのだろう。 大晦日に颯真に言われた「お前は俺のオメガだ」という言葉に、潤は大きなショックを受けた。しかし、颯真にとっては、苦しみ悩み抜いて出した本音だったに違いない。真剣に、真摯に向き合わねばならないというのは、そういうことだ。「今日はありがとう。僕が前を向くしかないっていうことはよく分かった」 潤は、江上と尚紀を見据える。「少し落ち着いたら、ちゃんと考えるから……」 戸惑いと動揺を抱えつつも、それでも、潤はそう言うしかなかった。