番外編 雨音の教室 前編
番外編 雨音の教室 前編
放課後の教室は、生徒たちが帰った後の静けさに包まれていた。
乱馬は机に向かい、ドリルのページを睨んでいる。授業中に居眠りをした罰で、漢字の書き取りをやらされているのだ。
乱馬のペンを走らせるカリカリとした音だけが、だだっ広い教室に響いていた。
「ったくもー、転校してまだひと月でしょ?よく授業中寝れるわね。それも寝ぼけて大声あげるんだから」
呆れ顔であかねが呟く。
「しょーがねーだろ。夜中に親父のいびきがうるさくて寝れなかったんだよ」
あかねはふと窓辺に立つと、薄暗くなった空を見上げる。
どんよりとした灰色の雲が重く垂れ下がるように流れている。
さすがに6月ともなれば、毎日のように、しとしとと雨が降り続いていた。
どことなく雨の匂いが漂ってくる。
まもなくひと雨きそうな気配がした。
「なんだよ、あかね。帰らねーのかよ」
外の様子を気にするあかねに気がついて、
乱馬は言った。
「一人じゃサボるでしょ?」
あかねはそう言うと、乱馬の隣の自分の席に腰をおろした。
そして、宿題のノートをカバンから取り出して広げる。
あかねの動きとともに、長い髪がさらっと柔らかく流れた。
乱馬はその様子を、なぜか息を止めて見入ってしまった。
「さ、さぼらねーよ!」
なんだか急に胸に息苦しさを感じて、それを振り払うかのように乱馬は語気を強めて返した。
ぽつ、ぽつ。
窓ガラスを叩く音に、ふたりは顔をあげた。
やはり、しとしとと細い雨が降り始めたのだ。
「やっぱり、降ってきちゃったわね」
あかねはふぅと軽いため息をもらした。
「あ、やべ」
乱馬は小さく呟いた。
今朝、傘を持ってこなかったことを思い出したのだ。
「どうしたの?」
あかねが尋ねる。
「いや...別になんでも」
(どうせ雨に濡れたところで女の姿になるだけで、どうってことねぇや)
「なんで帰らねぇんだよ。雨ひどくなる前に帰れよ」
乱馬は再びペンを走らせながら、ぶっきらぼうにあかねに言った。
「大丈夫よ。それに今宿題やってるし」
あかねはそう言って、自分のノートに再び目を落とす。
乱馬はさっさとドリルを終わらせたいのだが、気がつくとあかねに目がいってしまう。
どうにも落ち着かない。
ロングヘアから覗くスッとした横顔、白い肌、意志の強そうな深い瞳、長い睫毛。ほのかに赤い唇。
ペンを持つ手が時々止まって、ふいに遠くを見るような目で考え事をしている。
そんな時、あかねの横顔が雨の光に照らされて、柔らかく映る。
(東風先生のことでも考えてるのか...)
乱馬は小さく息をついた。
あかねが東風先生に憧れていることは知っている。
幼い頃から、天道一家が世話になっている接骨院の若先生だ。
爽やかで穏やかで、武道の心得も有り、頭もいい。
(こいつ、男なんか大嫌いとか言いながら、あの先生の前でだけは女になるんだよな)
それがなぜか、胸の奥でもやもやした。
(なんか面白くねぇ)
ちらり、とあかねを盗み見る。
あかねがそれに気がついてこちらを見返すよりも一瞬早く、また視線をドリルに戻す。
その結果…ドリルは、ほとんど進んでいなかった。
廊下を歩く気配が近づいてきて、ガラッと扉が開く。
担任の教師が顔を覗かせた。
「おや、天道。まだいたのか」
「はい、宿題やってました」
あかねが言うと、うむ、と軽く頷いて先生は乱馬にちらりと視線を向けた。
「早乙女、サボらないでちゃんとやれよ」
「やってるって!」
「まあ、天道がいるから大丈夫か」
先生はガハハと笑って、あかねに向き直った。
「天道、ちょうど良かった。明日の朝、資料を各クラスに配ってもらえるか? 職員室まで取りに来てくれ。いつも悪いな」
「いいえ、大丈夫です」
あかねが即座に答えると、先生は満足そうに教室を出ていった。