3、不器用なひと
3、不器用なひと
数日後の朝のことである。グレンは登城するするとすぐ、いつものようにリシェルノアの執務室へ向かおうと、王城の奥に位置する庭を足早に横切っていた。 広大な庭園には色とりどりの花が咲き誇っている。噴水の水音が心地よく響き、木々の間を小鳥たちが飛び交っていた。 ふと、光に透ける銀髪が目に入った。リシェルノアだ。朝から庭を散策とは、珍しいこともあるものだ、と、グレンは立ち止ってしばらく王子のほうへと視線を向けていた。 リシェルノアは、もちろんというべきか、ひとりである。いくら王城の奥まった場所で危険は少ないとはいえ、自分が傍にいないときは、護衛の兵卒くらい伴ってほしい。そう小言を告げに行こうかと、そちらへと足を踏み出しかけたときだった。 グレンははっと息を呑んでいた。 リシェルノアは薔薇の咲く一角で足を止めた。ひらひらと蝶が舞っている。可憐なその虫を指先にとまらせ、王子は、ふわり、と、微笑んでいた。 うそだろう、と、グレンは思った。 こちらの存在に気付いていないリシェルノアは、次は、木陰のベンチのほうへと歩いていく。その背もたれに止まった一羽の小鳥のほうへ、彼はゆっくりと手を伸べた。小鳥は逃げることなく、その指先に軽やかに飛び移る。するとまた、リシェルノアは静かに笑った。「殿下……?」 グレンは目を 瞠 ( みは ) り、思わず呟いていた。 それは、リシェルノアがこれまで一度も見せたことのない、穏やかで優しい笑顔だった。蝶を愛で、小鳥を見つめる蒼灰色の眸は、柔らかく細められている。それまで冷たい印象しかなかった相手の顔が、まるで別人のように温かみを帯びていた。 グレンがあまりにもまじまじと見詰め過ぎたためだろうか、やがて、リシェルノアがこちらの存在に気付いた。はっとした様子を見せ、その次の刹那にはもう、王子の顔はもとの無愛想に戻ってしまっている。「あんな顔もできるんじゃないですか」 グレンはリシェルノアに歩み寄ると、思わずそう言っていた。リシェルノアは不愉快そうに眉を顰める。グレンは、ふう、と、嘆息した。「先程拝見した笑顔、俺、すごく良いと思うなぁ。皆にあれを見せるべきでは? そしたら、あなたの傍にもちょっとは人が集まるでしょうに」 別に彼の護衛官から解任されたところで痛くも痒くもないグレンは、率直に言ってみる。「……人が集まって、それが何だというんだ?」 リシェルノアは眉を寄せたまま、ふい、と、視線を逸らして言う。「何って……でも、損はないでしょ」 グレンは思わぬ問いに虚空を仰ぎつつ、頬を掻いた。「集まっても、散らされるだけだ」「え?」「それでなくとも、私は誰かと長く関係を持たせてはもらえない」 リシェルノアの声は低く、どこか諦めを含んでいた。彼は目を細めて、遠くの木々を見つめる。その口許には寂しげな笑みが浮かんでいた。「私に仕える者は、みな、長続きしない。それはおまえも聞いているだろう?」「ええ、まあ」「知ってのとおり、私は厄介な立場だ。第一王子でありながら側妃腹で、皇位継承順位は高くはないが、決して低いわけでもない。だから……」 リシェルノアはそこで言葉を切った。 グレンは影のあるその横顔を見つめて、続く言葉を待った。「王位を望むつもりなど、私には 欠片 ( かけら ) もない。だが、そう思ってはくれない者もいるんだ。そうした者は、私が派閥めいたものをつくることを警戒している」「それは……」 そうかもしれない、と、思う。爵位の低い側妃の子とはいえ、リシェルノアは第一王子なのだ。万一にも、彼を担ごうとする勢力が現れれば、困る者たちは多いだろう。「私に仕える者は、長く私の傍にはいない。いつの間にか、遠ざけられているんだ。頻繁に配置換えがある。子供のころからずっと……」 リシェルノアの声は淡々としていた。だがその奥には、深い寂しさが滲んでいるように思えた。グレンは言葉に詰まっていた。「親しんでしまえば、 別離 ( わかれ ) がつらくなるだろう? だから……」 だから必要以上に感情を見せないようにしている。そういうことか、と、グレンは奥歯を噛んで己の前髪を掻き混ぜた。 あの無愛想は、敢えて、感情を抑えているがゆえのものだったのだ。それはひどく憐れなことのように思えた。「それに……」 一度話し出してしまうと、これまで堪えていた感情が、堰を切ってしまったのかもしれない。リシェルノアはさらに言葉を継いだ。「厄介な立場の私に心を尽くしてみたところで、私に仕える者にとってのうまみも少ないしな。引き立ててやれるわけでもない。私は、私に仕えてくれる者に、報いてやるすべがないんだ。ならば、せめて……」 リシェルノアはうつむいた。何かを言いかけて、躊躇うように、王子は黙りこんでしまう。その蒼灰色の眸には、深い孤独と諦念とか、奥に滲んで揺れているように見えた。「せめて……?」 グレンはたまらず、先を促した。 リシェルノアははっとしたように顔を上げる。薄い唇が、きゅ、と、引き結ばれた。「せめても……仕えるに足る威厳ある主人の姿くらいは、見せてやるべきだろうと思って……」 なんということだ、と、グレンは思った。ただ冷たく無愛想だと思っていた彼の態度には、彼なりの思いやりが籠もっていたのだ。それにしても、何と不器用なのだろうか。「――殿下」 グレンは深呼吸をしてから、王子を呼んだ。 こほん、と、ひとつ咳払いをする。「さっきも言いましたけど、あんたの笑顔、俺はいいと思う」 グレンは笑って、真っ直ぐにリシェルノアを見た。 相手は驚いたように、はたはた、と、長い睫の縁どる眸を瞬いた。「グレン卿……?」「ん。いや、なんていうか……あんたが笑ってくれたら、それだけで、俺は報われたって思いますよってこと。あんた、報いてやることが出来ないとか、言ってましたけど」「おまえはいったい……何を言っているんだ?」 リシェルノアが、どこか、戸惑う表情を見せた。「俺は……」 グレンは言いかけて、言葉に詰まる。確かに自分も、この配属を外れ籤だと思ったではないか。心のどこかで、たとえばもっと将来性のある主人とか、たとえばもっと華やかで親しみやすい主人とか、そうした相手に仕えられれば良いのにと思っていなかったかといえば、嘘かもしれない。 だが、いまほんのわずかとはいえ、グレンに感情を吐露してくれたリシェルノアを前にすると、そうした打算的な気持ちが急激に薄れていた。むしろ、外れ籤だなどと思ってしまった己が、恥ずかしく、悔やまれる。「俺は……俺の前では、笑ってくれませんか。抑えずに。威厳ある姿より、せっかくなら、あんたの笑顔をたくさん見たいって、思ったんです。だから……俺があんたに仕えられる時間も、もしかしたら、短いのかもしれないですけど」 グレンがゆっくりと言うと、リシェルノアは驚いたように目を見開いた。「短い間なんだとしても、俺、あんたと親しくなりたい。さっきあんたの笑顔みて、そう、思いました。――それでさ、引き離されるときには、ふたりで思いっきりさびしがりませんか?」 グレンは、に、と、笑ってみせた。 リシェルノアはしばらく何も言わずに、蒼灰色の眸でじっとグレンを見つめていた。 やがて、その唇がわずかに動いた。「……うん……そう、だな」 声は、風にかき消されてしまいそうなほど小さい。それでも、その口許には、莟が綻ぶ時のような、ほんのりとやさしい笑みが浮かんでいた。 その顔を見た瞬間、グレンは我が胸が、きゅう、と、締め付けられたような気がした。