第一話 名もなき猫
第一話 名もなき猫
第一話 名もなき猫
――その猫には、まだ名前がなかった。
山あいに広がるその場所には、朝になると鳥の声が響き、昼には子供たちの笑い声が聞こえた。
羌族の集落の片隅で、一匹の黒猫が今日も元気に走り回っていた。
「こら、待て!」
後ろから少年の声が追いかけてくる。
「にゃ」
「待てって言ってるだろ!」
黒猫は振り返り、楽しそうに尻尾を揺らした。
少年の手には、小さな桃がひとつ握られている。
「これをやるって言ってるだろ!」
「にゃあ」
「……分からないのか?」
「にゃ」
「じゃあ、僕が食べるぞ」
少年――呂望は、わざと桃を口元まで持っていった。
すると猫が慌てて駆け寄ってくる。
「ほら、やっぱり欲しいんじゃないか」
呂望は得意そうに笑った。
猫は彼の足元に座り、尻尾を揺らす。
「まったく。お前は食い意地が張ってるな」
「にゃ」
「何だ、その顔は」
呂望はしゃがみ込み、桃を少しだけ割ってやった。
猫は夢中になって食べ始める。
「うまいか?」
「……にゃ」
「そうかそうか」
呂望は満足そうに笑った。
この猫は、いつからここにいるのか誰も知らない。
気がつけば集落に住み着いていた。
そして、いつの頃からか、呂望の後をついて歩くようになった。
呂望が川へ行けばついてくる。
山へ行けばついてくる。
昼寝をすれば隣で丸くなる。
食事をすれば足元で待っている。
まるで最初から、そうすることが決まっていたかのように。
昼下がり。
呂望は草原に寝転がっていた。
頭の下には腕を組んで枕代わりにし、もう片方の手には、さっき摘んだばかりの小さな花を一輪。
その隣では、いつもの猫が丸くなっている。
「……暇だなぁ」
「にゃ」
「お前も暇か?」
「にゃあ」
呂望は花をくるくる回しながら、隣の猫を眺めた。
「そういえば……」
ふと思いついたように身体を起こす。
「お前、名前がないのは不便だな」
「にゃ?」
「……何がいいかな」
呂望は猫の顔をじっと見る。
「黒……じゃあつまらない」
「にゃ」
「猫……ではそのまますぎる」
「にゃあ」
「うん。却下」
「……にゃ」
「そんな顔をするなよ」
呂望は笑いながら、猫の頭を撫でた。
「うーん……」
呂望は再び草の上に寝転がった。
そして、手に持っていた花を目の前に掲げる。
「花……」
青い空を背景に、花びらが風に揺れる。
「花、か……」
そのまま何気なく視線を隣へ向ける。
猫が首を傾げた。
その首元で――
小さな鈴が、ちりん、と鳴った。
「……あ」
その音を聞いた瞬間、呂望の顔がぱっと明るくなった。
「そうだ!」
勢いよく起き上がった。
「花鈴だ!」
「にゃ?」
「花と鈴!」
呂望は嬉しそうに笑った。
「花鈴はどうだ?」
猫は意味が分からないまま、尻尾を揺らす。
「……にゃ」
「よし! 決まりだな!」
呂望は猫を抱き上げる。
「今日からお前は花鈴だ!」
「にゃあ」
「嫌か?」
猫は呂望の顔を見つめる。
そして。
ちりん。
小さく鈴を鳴らした。
「……ふふ」
呂望は笑った。
「気に入ったようだな」
猫は呂望の腕の中で目を細めた。
「花鈴……」
呂望が名前を呼ぶ。
猫が顔を上げる。
「そうか」
嬉しそうに笑って、もう一度呼ぶ。
「花鈴」
「にゃ」
「うん。いい名前だ!」
風が吹く。
草原の花が揺れる。
猫の首元の鈴が、また小さく鳴った。
――ちりん。
まるで返事をするように。
*
それから、しばらくして。
平穏だった日々は、突然終わった。
人狩り。
集落を襲った人々によって、呂望の家族は失われた。
まだ十二歳だった呂望には、何が起きたのかすぐには理解できなかった。
ただ、昨日まで当たり前にあったものが、もう二度と戻ってこない。
そのことだけは、分かった。
*
やがて呂望は、元始天尊に連れられ、崑崙山へと向かうことになる。
そのとき、彼の後ろには一匹の黒猫がいた。
「……花鈴も来るのか?」
「にゃ」
「そうか」
呂望は少しだけ笑った。
「じゃあ、一緒に行こう」
それだけだった。
特別な約束をしたわけでもない。
けれど、花鈴にとっては、それで十分だった。
*
崑崙山。
仙人界での生活が始まった。
初めの頃の呂望は、まだ少年らしさを残していた。
「僕は本当に仙人になるの?」
「そうじゃ」
元始天尊の言葉を聞きながら、呂望は隣にいる花鈴を見る。
「花鈴も?」
「おぬしが修行するなら、あの猫もいずれ妖怪となろう」
「へえ……」
呂望は少し驚いた顔をした。
「じゃあ、ずっと一緒にいられるんだ」
花鈴は尻尾を揺らす。
「にゃ」
「よかった」
呂望は笑った。
まだ、この頃の彼は「わし」などとは言わない。
「僕は――」
そう言って、自分の未来を語る。
その横には、いつも花鈴がいた。
一匹の名もなき猫は――
初めて、自分だけの名前をもらった。
そして。
花鈴は、これからもずっと――
太公望の隣にいることになる。