第十一話 雲の向こうに
第十一話 雲の向こうに
第十一話 雲の向こうに
崑崙山。
雲海の彼方に浮かぶ、仙人たちの住まう場所。
その一角にある玉虚宮へ、一人の仙人が訪れていた。
太公望である。
下界で封神計画を進める中、疑問が生じたため、元始天尊に話を聞きに戻ってきたのだ。
元始天尊との話を終えた太公望は、玉虚宮を後にした。
「……さて、と」
太公望は、のんびりと伸びをする。
聞きたかったことは、ひとまず聞けた。
あとは下界へ戻り、再び封神計画を進めるだけじゃ。
そう考えながら歩き出したところで、ふと足が止まった。
「……そういえば」
鈴は、今どうしておるかのう?
普賢のもとで修行を続けているはずだ。
元気にしておるじゃろうか。
以前と変わらず、あちこち走り回っている姿が目に浮かぶ。
思わず、太公望の口元が緩んだ。
「……少しくらい、顔を見ていくかのう」
久しぶりに顔を見たい。
そう思った矢先、前回の別れ際の光景が脳裏によみがえった。
自分と離れたくないと、涙を浮かべていた花鈴。
『望様と離れるのは……嫌だよ……っ』
「…………」
太公望は、そっと目を伏せた。
今の自分には封神計画がある。顔を見せても、すぐに下界へ戻らなければならない。
「……また泣かせてしまうかもしれんのう」
小さく呟き、太公望は下界へ戻ろうとした。
そのとき――。
「望ちゃん、見つけた」
背後から、聞き慣れた声がした。
「……ん?」
振り返ると、そこには普賢が立っていた。
いつもと変わらない、穏やかな笑顔。
けれど、太公望はなぜか背筋にひやりとしたものを感じた。
「……普賢」
「久しぶりだね、望ちゃん」
「う、うむ。久しぶりじゃのう」
普賢はにこにこと笑っている。
あまりにも自然な笑顔だった。
それなのに、太公望はなぜか目を合わせづらい。
「それで?」
「……それで、とは?」
「望ちゃん、もう帰るの?」
「お、おお。そうじゃな。元始天尊様への用事も済んだことじゃし」
「ふうん」
普賢は笑顔のまま、首を傾げた。
「……望ちゃん」
「な、何じゃ」
「鈴ちゃんには会わないの?」
「…………」
太公望の動きが止まった。
普賢の笑顔は変わらない。
けれど、その奥にある感情を、太公望は何となく察していた。
「……いや、そのじゃな」
「うん?」
「鈴は修行中じゃろう?」
「今日はもう終わってるよ」
「……そうか」
「うん」
「…………」
「…………」
沈黙が落ちた。
普賢は相変わらず、にこにこと笑っている。
太公望は、そっと視線を逸らした。
「どうして鈴ちゃんに会わずに帰ろうとしてるの?」
声は穏やかだった。
けれど、だからこそ誤魔化せない。
太公望は小さく息を吐いた。
「……前に、鈴を泣かせてしまったじゃろう」
普賢の笑顔が、ほんのわずかに薄くなった。
「うん」
「わしが封神計画へ出るとき、あやつは一緒に行きたいと言っておった」
「そうだね」
「じゃが、連れていくことはできなんだ」
太公望は、遠くに広がる雲海へと目を向けた。
「今、顔を見せても……すぐに別れることになる。また悲しませるくらいなら、今は会わぬほうがよいかと思ってのう」
「……そっか」
普賢は静かに目を細めた。
「望ちゃんは、鈴ちゃんを悲しませたくないんだね」
「……うむ」
「それとも、鈴ちゃんに泣かれると、望ちゃん自身が困っちゃうのかな?」
「……普賢?」
太公望が顔を向ける。
普賢は微笑んでいた。
けれど、その笑顔には、先ほどまでとは違う厳しさがあった。
「ごめんね。意地悪な聞き方をしたかな」
「いや……」
「でも、僕には少し、都合のいい理由に聞こえるんだ」
静かな声だった。
責め立てるでもなく、感情をぶつけるでもない。
ただ、その言葉には確かな厳しさがあった。
「鈴ちゃんが泣くのは、それだけ望ちゃんのことが大切だからだよ。望ちゃんに困ってほしくて泣いているわけじゃない」
「…………」
「もちろん、望ちゃんにも事情があるのは分かってる。封神計画を放り出して、ここに残れなんて言うつもりはないよ」
普賢は一度、言葉を切った。
「でも、会える場所まで戻ってきたのに、鈴ちゃんが泣くかもしれないからって、何も言わずに帰っちゃうんだね」
太公望は何も答えなかった。
「鈴ちゃんがどう思うかも、少しは考えてあげてほしいな」
普賢の声は、最後まで静かだった。
「会えなくても頑張ろうって思っている子に、会わないことが優しさだとは、僕には言い切れないよ」
「…………」
太公望は俯いた。
花鈴が泣く姿を見たくない。
それは本当だ。
けれど、花鈴が自分に会いたいと思っていることも、分かっていた。
「……すまん。鈴を大切に思っておらぬわけではないのじゃ」
太公望は、小さく息を吐いた。
「ただ……どうすればよいのか、分からんのじゃ」
普賢は、しばらく太公望を見つめていた。
やがて、ふっと表情を和らげる。
「うん。望ちゃんの考えてたことは、分かったよ」
「……普賢」
「鈴ちゃんには、何も言わないでおくね」
太公望は顔を上げた。
「よいのか?」
「うん。約束する」
普賢は頷いた。
「ただ、次に鈴ちゃんに会うときは、ちゃんと元気な顔を見せてあげてね」
「……うむ」
「鈴ちゃんは、望ちゃんが思っているよりずっと頑張ってるよ。寂しくても、自分で前に進んでいるよ」
太公望は、静かにその言葉を聞いていた。
「……分かっておる」
普賢は太公望の顔を見つめた。
「本当に?」
「本当じゃ」
「……なら、いいよ」
そう言って、普賢はいつもの穏やかな笑顔に戻った。
けれど、太公望には分かっていた。
普賢は、まだ完全には納得していない。
「……すまんのう、普賢」
「ううん」
普賢は首を横に振った。
「僕は鈴ちゃんの味方だけど、望ちゃんの友達でもあるからね」
その言葉に、太公望は小さく笑った。
「……おぬしには、敵わんのう」
「そうかな?」
「そうじゃ」
二人の間に、ほんの少しだけ、いつもの空気が戻った。
太公望は下界へ続く道へと向き直る。
「……では、わしは行くぞ」
「うん。またね、望ちゃん」
「おぬしも、鈴を頼むぞ」
「もちろん」
普賢は穏やかに答えた。
太公望は一度だけ振り返り、それから下界へと向かっていった。
その背中が雲海の向こうへ消えるまで、普賢は静かに見送っていた。
*
太公望の姿が見えなくなると、普賢は小さく息を吐いた。
「……もう」
呟いた声には、まだ少しだけ不満が残っていた。
「鈴ちゃんが泣くと困る。だから会わない、か……」
気持ちは分かる。
花鈴を悲しませたくないのも、本当なのだろう。
けれど、花鈴がどれほど太公望に会いたがっているかを知っているからこそ、簡単には納得できなかった。
「……鈴ちゃん、きっと喜んだと思うんだけどな」
普賢は、雲の向こうに広がる地上を眺めた。
「……鈴ちゃんも、そろそろ封神計画のために下界へ行くことになるかもしれないな」
それは、まだ確かなことではない。
けれど、花鈴にもいつか、自分の足で下界へ向かう日が来るのかもしれない。
その日、花鈴は何を思うのだろう。
「……そのときは、ちゃんと送り出してあげないとね」
普賢は静かに微笑み、花鈴の待つ白鶴洞へと歩き出した。