第二話 崑崙山の日々
第二話 崑崙山の日々
第二話 崑崙山の日々
崑崙山。
人間界とは隔てられた、仙人たちの住まう場所。
そこへ、一人の少年と一匹の猫がやって来た。
「……ここが、仙人界?」
呂望は目の前に広がる景色を見渡した。
雲の上に浮かぶ山々。
遠くには見たこともない建物が並び、空を飛んでいく仙人の姿まで見える。
「すごい……」
その隣では、花鈴が落ち着かない様子で、あちこちを見回していた。
「にゃ」
「花鈴、勝手に行くなよ」
「にゃあ」
「絶対だぞ」
そう言ったそばから、花鈴は興味を引かれたように駆け出した。
「って、おい!」
呂望が慌てて追いかける。
「花鈴!」
「にゃー!」
「待ってよ!」
こうして。
呂望と花鈴の、崑崙山での暮らしが始まった。
*
崑崙山へ来て、間もない頃。
呂望は元始天尊のもとへ呼ばれた。
「今日から、おぬしは太公望と名乗るがよい」
「太公望……?」
聞き慣れない名に、呂望は首を傾げた。
「それが、僕の新しい名前?」
「そうじゃ」
「呂望ではなく?」
「呂望という名は、人間界に置いてきたものと思え」
元始天尊は静かに告げた。
「これより先、おぬしは仙人となるための修行を始める。仙人界では、太公望と名乗るのじゃ」
呂望――太公望は、しばらく黙っていた。
家族を失った日から、彼の人生は大きく変わった。
そして今、名前まで変わる。
それは、これまでの自分と決別することのようにも思えた。
けれど。
隣にいた花鈴が、太公望の足元へ身体を寄せる。
「にゃ」
その声を聞いて、太公望は少しだけ笑った。
「……分かった」
そして、顔を上げる。
「今日から僕は、太公望だね」
「そうじゃ」
「花鈴にも、そう呼んでもらうの?」
「にゃ?」
花鈴は不思議そうに首を傾げた。
太公望はしゃがみ込み、花鈴の頭を撫でる。
「僕のこと、これからは太公望って呼ぶんだって」
「……にゃ」
「でも、花鈴が呼びやすいように呼んでいいよ」
花鈴は太公望の顔を見つめた。
そして、いつものように尻尾を揺らした。
その日から。
呂望は、仙人界で太公望と呼ばれるようになった。
*
最初の頃、太公望は何もかもが新鮮だった。
仙人になるための修行。
見たことのない術。
宝貝。
そして、長い年月を生きる仙人たち。
人間界とは、何もかもが違っていた。
「今日から毎日、修行じゃ」
元始天尊にそう言われた太公望は、目を丸くした。
「毎日?」
「そうじゃ」
「……休みは?」
「ない」
「…………」
太公望は隣にいる花鈴を見る。
花鈴は何も分からないまま、のんびり毛づくろいをしていた。
「花鈴は?」
「その猫はまだ修行など必要あるまい」
「そっか」
太公望は少し安心したように息を吐いた。
「じゃあ、僕だけ頑張るよ」
「おぬしが頑張らねば意味がないじゃろう」
「分かってるって」
まだ十二歳。
家族を失ったばかりの少年だった。
それでも太公望は、逃げなかった。
与えられた修行を、一つずつ覚えていった。
*
朝から修行。
昼も修行。
夜になれば、今日覚えたことを復習する。
太公望は思っていた以上に真面目だった。
疲れていても、次の日にはまた修行をする。
上手くできなければ、何度でもやり直す。
そんな日々が続いた。
花鈴は、そんな太公望の姿をいつも近くで見ていた。
修行が終われば太公望のそばへ行く。
疲れて眠ってしまえば、その隣で丸くなる。
時には太公望の膝の上に乗って、邪魔をすることもあった。
「花鈴……重いよ」
「にゃ」
「僕、勉強してるんだけど」
「にゃあ」
「……まあ、いいか」
太公望は笑って、花鈴の背中を撫でた。
そんな日々が、続いていった。
*
そして、花鈴にも少しずつ変化が現れ始めた。
最初は、ただの猫だった。
けれど、崑崙山の澄んだ気と、長い年月の中で、
少しずつ身体に変化が現れ始めた。
ある日。
花鈴の身体が、淡い光に包まれた。
「鈴?」
太公望が驚いて振り返る。
光が消えると――
そこには、小さな女の子の姿があった。
黒い髪。
大きな青い瞳。
そして頭の上には、猫の耳。
「……?」
花鈴自身も、何が起こったのか分からない。
自分の手を見つめ、
それから太公望を見る。
「……望様?」
初めて、人の言葉を口にした。
太公望は目を丸くした。
「……鈴?」
「望様」
「しゃべった……!」
太公望の顔が、一気に明るくなる。
「鈴がしゃべったぞ!」
花鈴はきょとんとしている。
けれど、太公望があまりにも嬉しそうなので、
花鈴も嬉しくなった。
頭の上の猫耳が、ぴんと立つ。
「……にゃ」
「いや、今は人の姿じゃろ」
「にゃ……」
「ふふ」
その日から、花鈴は少しずつ人の姿で過ごすようになった。
ただし、感情が強くなると耳が出る。
嬉しいと耳が立つ。
悲しいと耳が垂れる。
怒ると尻尾が膨らむ。
そして、すっかり安心して眠ると――
いつの間にか、普通の猫に戻っていた。
「……鈴」
「にゃ?」
「おぬし、本当に猫じゃな」
「にゃ!」
「褒めておらんぞ」
*
月日は流れた。
花鈴は少しずつ力を身につけていった。
そして、長い年月を生きる中で、少しずつ知性と力を得ていった。
それでも、花鈴の性格は変わらなかった。
明るく。
元気で。
好奇心旺盛。
動物たちともすぐに仲良くなった。
そして何より――
争うことが嫌いだった。
誰かが喧嘩をしていると、
「やめようよ」
と間に入る。
傷つけ合うくらいなら、
自分が守ればいい。
そんな考えを、花鈴はいつの間にか持つようになっていた。
*
一方の太公望は、
三十年間、ひたすら修行を続けた。
毎日、真面目に。
必死に。
何度失敗しても、繰り返し修行を続けた。
そして――
三十年後。
元始天尊は、太公望を見つめて言った。
「……よくここまで修行したのう」
太公望は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
その頃には、少年だった頃の面影も少しずつ変わっていた。
力もついた。
仙人としての実力も、十分なものになった。
けれど。
三十年の修行を終えた太公望は――
ある日、縁側で寝転がっていた。
「……今日は休もう」
「昨日も同じこと言ってたよ?」
花鈴が呆れたように言う。
「昨日は昨日じゃ」
「一昨日もだったよ?」
「それは……一昨日の話じゃ」
「同じじゃん!」
太公望は気にする様子もなく、空を見上げる。
「桃でも食べるかのう」
「また?」
「修行の後の栄養補給じゃ」
「今日、修行してないよ?」
「……明日からする」
「絶対しないやつだ」
花鈴の尻尾が、ぺしんと地面を叩いた。
「まったく……」
けれど、そんな太公望を嫌いにはなれなかった。
むしろ――
昔から変わらない、その姿が少し嬉しかった。
*
それからも、二人は変わらず一緒にいた。
長い年月を越えても。
季節が何度巡っても。
花鈴にとって太公望は、
ずっと「望様」だった。
そして太公望にとって花鈴は、
ずっと「鈴」だった。
「望様」
「なんじゃ、鈴」
「今日、何するの?」
太公望は少し考えてから、
「昼寝じゃ」
「……また?」
「うむ」
花鈴は呆れながらも、隣に腰を下ろした。
「じゃあ、私も寝る」
「そうするがよい」
二人は並んで空を見上げる。
昔と変わらない。
けれど、確かに少しずつ変わっていく。
そんな二人の時間は、
これからもまだまだ続いていくのだった。