第三話 邂逅する
第三話 邂逅する
第三話 邂逅する
少し時を遡り――。
これは、崑崙山での暮らしにもすっかり慣れてきた頃のお話。
太公望の修行についていったり、山の中を探検したり。
花鈴は毎日、忙しく過ごしていた。
もちろん、疲れたときには太公望の隣で昼寝をする。
今日も、二人はいつもの場所でのんびりしていた。
太公望は横になり、花鈴はその隣で丸くなっている。
「……鈴」
「にゃ?」
「ちょっと、静かにしてよ」
「にゃあ?」
「尻尾が顔に当たってるんだけど……」
花鈴の尻尾が、太公望の頬をぱたぱたと叩いていた。
「にゃっ」
花鈴は尻尾を引っ込めると、何事もなかったように丸くなった。
太公望は小さくため息をつく。
「まったく……」
そう言いながらも、花鈴を追い払うことはなかった。
すると――
「望ちゃん、いる?」
少し離れたところから、声が聞こえてきた。
太公望が顔を上げる。
「おお、普賢か」
やって来たのは、淡い水色の髪をした青年だった。
ミントグリーンのゆったりとした衣をまとい、頭上には光の輪が浮かんでいる
目の前に立つ青年は、穏やかな表情と柔らかな佇まい。
どこか不思議な雰囲気のある青年だったが、その表情には優しさがにじんでいて、少しも近寄りがたさを感じさせなかった。
普賢真人。
太公望と同じく、仙人界で修行を積む道士の一人である。
「また昼寝?」
普賢は、横になっている太公望を見て笑った。
「休憩してるんだよ」
「はいはい」
「その返事、絶対信じてないだろ」
普賢が笑いながら近づく。
そのとき、太公望の隣で丸くなっている黒い猫に気づいた。
「あれ? その子が前に話していた猫ちゃん?」
普賢が尋ねると、太公望は頷いた。
「そうだよ。この子の名前は花鈴。僕は鈴って呼んでるんだ」
「へえ、花鈴ちゃんっていうんだね」
普賢はそう言って、花鈴に目を向けた。
「じゃあ、僕も鈴ちゃんって呼ぼうかな?」
そう言って、普賢はしゃがみ込み、花鈴と目線を合わせた。
「よろしくね、鈴ちゃん」
花鈴は知らない相手の気配に気づき、耳をぴんと立てた。
見慣れない青年。
花鈴はじっと普賢を見つめる。
「こんにちは」
「……にゃ」
花鈴は少しだけ後ろに下がった。
「あはは、初めて会うから警戒されちゃったかな」
「まだ普賢に慣れてないだけだよ」
太公望がのんびりと言った。
「そっか。じゃあ、ゆっくり仲良くなろうね」
普賢は無理に触ろうとはせず、その場に座った。
しばらくして、懐から小さな桃を取り出す。
「望ちゃん、これ食べる?」
「食べる!」
返事だけは早かった。
「即答だね」
「当然だろ」
太公望は桃を受け取ると、さっそく食べ始めた。
その様子を見ていた花鈴が、桃に気づく。
「にゃっ」
花鈴は太公望の膝に前足をかけた。
「なんだ、鈴」
「にゃー!」
「鈴も欲しいのか?」
「にゃ!」
太公望が桃を少し分けてやると、花鈴は嬉しそうに食べ始めた。
普賢はその様子を見て、くすっと笑った。
「食いしん坊なんだね」
「食べ物には目がないんだよ」
「にゃっ!」
花鈴が抗議するように鳴く。
「なんだ、違うのか?」
「にゃあ!」
「はいはい、分かった分かった」
太公望は適当に返事をしながら、残りの桃を食べた。
普賢が花鈴に向かって微笑む。
「鈴ちゃん、また会おうね」
花鈴は首を傾げた。
そして、普賢の差し出した手の匂いを、くんくんと嗅いだ。
「おっ、近づいてくれた」
普賢が嬉しそうに言う。
花鈴は少し考えるようにしてから、その手に頭をすり寄せた。
「おお」
太公望が目を丸くする。
「もう懐いたのか?」
「にゃっ」
花鈴は得意げに尻尾を立てた。
「ははは。よろしくね、鈴ちゃん」
こうして、花鈴と普賢は知り合った。
*
それから、普賢は時々、太公望のもとを訪れるようになった。
最初のうち、花鈴は普賢が来るたびに少しだけ様子をうかがっていた。
けれど、普賢はいつも穏やかだった。
太公望と話をしたり、花鈴に声をかけたり。
無理に構おうとせず、花鈴が近づいてくれば優しく撫でてくれた。
何度か顔を合わせるうちに、花鈴もすっかり慣れていった。
普賢が来ると、少し離れたところから駆け寄ってくることもある。
「おや、鈴ちゃん。今日は自分から来てくれたね」
「にゃー!」
「元気だねえ」
普賢が頭を撫でると、花鈴は気持ちよさそうに目を細めた。
そのまま、普賢の膝に乗って丸くなる。
「鈴にずいぶん気に入られたみたいだね」
太公望が言う。
「そうみたいだね」
普賢は笑いながら、花鈴の背中をそっと撫でた。
「鈴ちゃんは可愛いから」
「にゃっ」
花鈴は満足そうに喉を鳴らした。
「……鈴、ずいぶん嬉しそうだな」
太公望がぼそりと呟く。
普賢は顔を上げた。
「望ちゃんも撫でてあげたら?」
「なんで僕が気を遣わなきゃいけないんだよ」
そう言いつつ、太公望が手を伸ばす。
すると花鈴は、普賢の膝から降りて太公望のそばへ移動した。
「……なんだよ」
「にゃあ」
「撫でてほしいのか?」
「にゃっ」
太公望は仕方なさそうに、花鈴の頭を撫でた。
花鈴は嬉しそうに目を細める。
「まったく、ちゃっかりした猫だな」
そう言いながらも、太公望の手は優しかった。
普賢は二人を見て、楽しそうに笑っていた。
*
崑崙山の澄んだ気を受けながら、花鈴の身体には少しずつ変化が現れ始めていた。
ただの猫だった頃よりも、身体が丈夫になった。
動きも速くなり、仙術の気配を感じ取れるようにもなった。
それでも、花鈴は相変わらず猫の姿で過ごしていた。
太公望のそばにいて、山を駆け回り、時には普賢に遊んでもらう。
そんな毎日が続いていた。
普賢が来ると、花鈴はすぐに気づく。
「鈴、普賢が来たぞ」
太公望が声をかけるより早く、花鈴は耳をぴんと立てて走り出す。
「にゃー!」
「おや、今日はお出迎えしてくれるの?」
普賢が笑うと、花鈴は足元にすり寄った。
「ははは、ありがとう」
普賢はしゃがんで、花鈴の頭を撫でた。
「今日は何をして遊ぼうか?」
「にゃっ!」
花鈴は元気よく鳴くと、山の方へ駆け出した。
「おっと、そっち?」
普賢が後を追う。
「おい、鈴! あまり遠くへ行くでないぞ!」
太公望の声が後ろから聞こえた。
けれど、花鈴は振り返って尻尾を揺らしただけだった。
「まったく……」
太公望は呆れたように息をつく。
その顔には、困ったような笑みが浮かんでいた。
*
ある日、花鈴は、とうとう人の姿になれるようになった。
黒い髪。
青い瞳。
頭の上には猫の耳があり、後ろには長い尻尾が揺れている。
初めて自分の姿を見たとき、花鈴は自分の手を何度もひっくり返して眺めた。
いつもと違う。
足元を見下ろす。
いつもの四本足ではない。
「すごい!」
花鈴は嬉しそうに飛び跳ねた。
猫耳がぴんと立ち、尻尾が勢いよく揺れる。
*
後日、普賢が太公望のもとを訪ねてきた。
「望ちゃん、いる?」
「おお、普賢か」
いつものように太公望が答える。
すると、奥から花鈴が顔を出した。
「こんにちは!」
普賢は、ぴたりと動きを止めた。
「……え?」
目の前にいるのは、黒髪に青い瞳の小さな女の子。
頭には猫の耳。
後ろには長い尻尾。
普賢は何度か瞬きをした。
「ええと……」
花鈴が首を傾げる。
「どうしたの?」
「……鈴ちゃん?」
「うん!」
「本当に鈴ちゃん?」
「そうだよ!」
花鈴は元気よく頷いた。
「人の姿になれるようになったの!」
「本当に?」
普賢が驚いた声を上げる。
その反応を見て、花鈴は楽しそうに笑った。
「びっくりした?」
「うん、すごくびっくりしたよ」
普賢は花鈴の周りを少しだけ見回した。
「そっか……。あの鈴ちゃんが、こんな姿になったんだね」
「こんな姿って、どんな姿?」
「ふふ、ちゃんと女の子になってるから、驚いちゃって」
「えへへ!」
花鈴は嬉しそうに笑った。
その頭の上で、猫耳がぴんと立っている。
「でも、耳と尻尾はそのままなんだね」
「うん! 私、猫だから!」
「なるほどね」
普賢は納得したように頷いた。
「改めて、よろしくね。鈴ちゃん」
「うん! こちらこそ!」
花鈴は元気よく返事をした。
太公望はその様子を見て、満足そうに頷いた。
「これで、普賢とも話ができるようになったのう」
「そうだね。これからはもっといろいろ話せそうだ」
普賢が笑う。
「私、普賢様に聞きたいことがいっぱいあるんだ!」
「おや、何かな?」
「宝貝のこととか、仙術のこととか、それから――」
花鈴は次々と言葉を並べ始めた。
普賢は一つずつ、丁寧に聞いてくれた。
「ははは。順番に聞いていこうね」
「うん!」
「鈴、普賢を困らせるでないぞ」
「困ってないよ、望ちゃん」
「ならよいが」
三人は顔を見合わせて笑った。
それから、普賢は以前と同じように太公望のもとを訪れるようになった。
ただ一つ変わったのは、花鈴が猫の鳴き声ではなく、自分の言葉で会話に加わるようになったこと。
仙術のことを聞いたり、崑崙山で見つけたものを見せたり。
太公望を交えて、三人で過ごす時間が少しずつ増えていった。
「また遊びに来てね、普賢様!」
帰り際、花鈴が手を振る。
「うん。また来るよ」
「約束だからね!」
「分かったよ」
普賢は笑いながら手を振り返し、帰っていった。
「……賑やかになったのう」
太公望がぽつりと言う。
「うん! 普賢様って、話しやすいね」
「そうじゃろう」
太公望は満足そうに頷いた。
花鈴は、次に普賢が来たら何を聞こうかと考えながら、太公望の隣を歩いていった。
崑崙山での毎日は、今日もいつもどおりに過ぎていく。
太公望の友である普賢と、これからも一緒に話したり、笑ったり。
花鈴の日常に、そんな時間が少しずつ増えていくのだった。