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第四話 地に足をつける

花に鈴、君に風 — www.pixiv.net · All chapters

第四話 地に足をつける

第四話 地に足をつける

崑崙山での暮らしにもすっかり慣れた花鈴は、今日も元気いっぱいだった。

「望様、ちょっとお散歩してきますね!」

「うむ。あまり遠くへ行くでないぞ」

「はーい!」

元気よく返事をすると、花鈴は軽い足取りで駆け出していった。

その後ろ姿を見送りながら、太公望は小さく息をつく。

「まったく、相変わらずじっとしておらんのう……」

そう呟いたものの、花鈴が好奇心旺盛なのは今に始まったことではない。

知らない場所を見つければ覗いてみたくなるし、見慣れないものがあれば近くで確かめたくなる。

そんな性格を、太公望は誰よりもよく知っていた。

一方の花鈴は、いつもの散歩道を歩いているうちに、木々の向こうへ続く細い山道を見つけていた。

「あれ? こんなところに道があった!」

道の先を覗き込む。

少し険しそうではあるけれど、歩けないほどではなさそうだ。

「ちょっとだけなら、大丈夫かな?」

誰に聞くでもなく呟くと、花鈴は山道へ足を踏み入れた。

木々の間を抜ける風が、頬を優しく撫でていく。

草花の匂いを楽しみながら、花鈴は軽い足取りで進んでいった。

猫だった頃から、身軽さには自信がある。

細い場所を通り抜けたり、岩から岩へ飛び移ったりすることは得意だった。

けれど、人の姿になった今も、何もかも同じようにできるとは限らない。

そのことを、花鈴はまだ十分には知らなかった。

「……ん?」

ふと、花鈴の耳がぴくりと動いた。

少し先から、何かが転がるような音が聞こえたのだ。

続いて、困ったような声が響く。

「参ったな……。どうしたものか」

花鈴は声のする方へと急いだ。

そこは、崖に沿って続く細い山道だった。

道の端には小石が散らばり、ところどころ地面が崩れている。

その途中で、一人の道士が立ち往生していた。

道士の視線の先には、斜面の下に落ちた荷物がある。

取りに行こうにも足場が悪く、無理に動けば自分まで滑り落ちてしまいそうだった。

「大丈夫ですか?」

花鈴が声をかけると、道士は驚いたように振り返った。

「ああ……。荷物を落としてしまってね。どうにか取り戻したいんだが、足元が危なくて困っているんだ」

「そうなんですね……」

花鈴は崖の下を覗き込んだ。

荷物は少し離れた岩のそばに引っかかっている。

もう少し手を伸ばせば届きそうにも見えた。

「それなら、私が取ってきます!」

「えっ?」

道士は思わず声を漏らした。

花鈴は周囲を見回し、足場になりそうな岩を探し始めた。

そのとき、道士の視線が花鈴の頭で止まった。

髪の間から覗く、猫の耳。

そして、背後で揺れる長い尻尾。

――妖怪仙人。

そう気づいた瞬間、道士の表情がわずかに強張った。

妖怪と聞けば、恐ろしいもの。

人間とは違う姿を持ち、何を考えているのかも分からない。できることなら、あまり関わりたくない。

道士は、そんな思い込みを抱いていた。

けれど、目の前の少女はどうだろう。

自分の名前さえ知らないはずなのに、困っていると分かると、迷いなく助けようとしてくれている。

警戒すべき相手だと思っていたのに、その姿はあまりにも無邪気だった。

「ま、待ちなさい! そんなところへ行ったら危ない!」

道士は慌てて声を上げた。

花鈴は振り返り、不思議そうに首を傾げる。

「でも、荷物が落ちちゃったんですよね?」

「それはそうだが……」

「私、こういうところは得意なんです!」

花鈴はにこっと笑った。

道士は返す言葉を見つけられなかった。

妖怪仙人は恐ろしいものだと、ずっと思っていた。

なのに、この少女は自分を助けようとしている。

そのことが、どうにも不思議だった。

花鈴は岩に手をかけ、慎重に足を伸ばした。

あと少し。

もう少しで届きそうだった。

けれど、足元の小石が崩れた。

「わっ……!」

体がぐらりと傾く。

花鈴はとっさに近くの岩へしがみついた。

尻尾が大きく膨らみ、猫の耳がぴんと立つ。

「危ない!」

道士が思わず声を上げる。

花鈴は何とか体勢を立て直したものの、これ以上進むのは難しかった。

助けたい。

自分ならできると思った。

それなのに、思うようにいかない。

花鈴の耳が、悔しそうに少し伏せられた。

そのときだった。

「そこから動かないで」

落ち着いた声が、山道に響いた。

花鈴と道士が振り返ると、一人の青年がこちらへ歩いてくるところだった。

青年はまず、花鈴のいる場所と道士の足元、それから崖の下にある荷物を順番に確認した。

「二人とも、怪我はない?」

「わ、私は大丈夫です!」

花鈴が答える。

道士も小さく頷いた。

青年はほっとしたように表情を和らげると、崩れかけた足場へ視線を戻した。

「それなら、まずは安全な場所へ移動しよう。慌てなくていいよ」

穏やかな口調だったが、その言葉には迷いがなかった。

青年は道士が通れる場所を確認し、足場の安定した岩を指し示した。

「そこへ一歩ずつ。足元に気をつけて。僕が見ているから」

道士は言われたとおり、慎重に足を動かした。

やがて、無事に安全な場所へたどり着く。

「助かった……。ありがとうございます」

道士が安堵の息をつくと、青年は穏やかに微笑んだ。

「まだ荷物が残っているね」

青年は崖の下を確かめた。

荷物は、歩いて降りるには危険な場所にある。

青年は少し考えたあと、宝貝を呼び出した。

「哮天犬」

その声に応じるように、犬の姿をした宝貝、哮天犬が現れる。

花鈴は目を丸くした。

「わあ……! 犬さんです!」

哮天犬は青年のそばに寄り添い、静かに待っている。

青年は道士に声をかけた。

「大切な荷物なのかい?」

「はい。中に、師匠から預かっている物が入っているんです」

「分かった。取ってくるよ」

青年は哮天犬に乗り、崖の下へと向かった。

飛べる哮天犬は、崩れやすい足場を気にすることなく、荷物のある場所へたどり着く。

青年は荷物の状態を確かめ、落とさないようにしっかりと抱えると、道士のもとへ戻ってきた。

「はい。中身も無事みたいだよ」

「ありがとうございます。助かりました。」

道士は何度も頭を下げた。

青年はそれに頷くと、哮天犬を戻した。

花鈴は、その様子をじっと見つめていた。

すごい。

どうすれば安全に助けられるのか、ちゃんと考えている。

自分なら、あの岩から飛び移れば届くかもしれないと考えていた。

けれど、青年は荷物を取り戻すことだけでなく、道士が安全に帰れることまで考えて行動していた。

花鈴は、自分が先ほどまで立っていた場所を見下ろした。

「……私、助けようと思ったんですけど、うまくできなくて」

青年は花鈴に視線を向けた。

「助けようとしたんだね」

「はい……。困っているみたいだったから」

「でも、気持ちだけでは、かえって危険にしてしまうこともある。自分に何ができるのか、どうすれば相手を安全に助けられるのか。それを考えることも、助けるためには必要だよ」

花鈴は、青年の言葉をじっと聞いていた。

「……はい。私、もっと勉強します!」

悔しさは残っている。

けれど、それ以上に、今の自分に足りないものを知ることができた。

花鈴の耳が、少しずつぴんと立っていく。

青年は小さく微笑んだ。

「うん。その気持ちがあれば、きっと少しずつできることも増えていくよ」

「ありがとうございます!」

花鈴の尻尾が、嬉しそうに揺れた。

「あの、私は花鈴です。あなたのお名前は?」

「僕は楊戩」

「楊戩様ですね! 助けてくださって、ありがとうございました!」

花鈴はぺこりと頭を下げた。

楊戩は穏やかに頷いた。

「どういたしまして。花鈴も、あまり無理をしないようにね」

「はい!」

花鈴は元気よく返事をした。

楊戩は道士が安全に帰れることを見届けてから、花鈴にも帰り道を教えてくれた。

「この先は道が崩れやすくなっているから、散策するなら、もう少し広い道を選んだ方がいいよ」

「分かりました! 気をつけます!」

花鈴は素直に頷いた。

楊戩は最後まで穏やかな表情を崩さず、その場を後にした。

その背中を見送りながら、花鈴は思った。

落ち着いていて、優しくて、頼りになる人。

自分も、あんなふうに誰かを助けられるようになりたい。

そう思いながら、花鈴は崑崙山の道を帰っていった。

⸻

「――ということがあったんです」

その日の夕方。

花鈴は元始天尊のもとを訪れ、山道での出来事を話していた。

元始天尊は、花鈴の話を最後まで静かに聞いていた。

「なるほどのう。楊戩に助けてもらったのじゃな」

「はい。私、助けたいと思ったのに、うまくできなくて……」

花鈴の耳が、しゅんと垂れる。

「でも、楊戩様はすごかったんです。どこを通れば安全なのか、ちゃんと考えていて。それに、私のことも怒らずに、いろいろ教えてくれました」

「ふむ……」

元始天尊は、花鈴の様子を見つめながら、ゆっくりと頷いた。

「おぬしは昔から、困っている者を見過ごせぬ性分じゃからのう」

「だって、困っている人がいたら、助けたいです!」

「うむ。それは大切な心じゃ」

元始天尊は優しく微笑んだ。

「じゃが、その心を本当に誰かのために生かすには、知識も力も必要になる。おぬしも、今日の出来事でそれを感じたのじゃろう?」

花鈴はこくりと頷いた。

「……はい。私、もっといろいろなことを覚えたいです。ちゃんと助けられるようになりたいです!」

その言葉を聞くと、元始天尊は満足そうに目を細めた。

「ならば、よい師を紹介してやろう」

「本当ですか?」

花鈴の耳が、ぴんと立つ。

「うむ。玉鼎真人という者がおる。仙術や身のこなしについても学べるじゃろう。おぬしのことをよく見ながら、教えてくれるはずじゃ」

「玉鼎真人様……」

花鈴は、その名前を心の中で繰り返した。

楊戩の師匠でもある道士。

どんな方なのだろう。

自分に、きちんと修行ができるだろうか。

少しだけ不安もあった。けれど、それ以上に、新しいことを学べる期待が胸の中で膨らんでいく。

「私、頑張ります!」

花鈴が元気よく答えると、元始天尊は楽しそうに笑った。

「焦らずともよい。ひとつずつ覚えていけばよいのじゃ」

「ありがとう、おじいちゃん!」

言ってから、花鈴ははっと口元を押さえた。

「あっ……! ご、ごめんなさい。元始天尊様!」

慌てて言い直し、花鈴の耳が恥ずかしそうに伏せられる。

仙人界では、誰もが敬意を込めて「元始天尊様」と呼んでいる。

自分だけが親しげに呼んでしまったことに、花鈴は少し気まずくなっていた。

けれど、元始天尊は気にする様子もなく、目元を緩めた。

「よい、よい。おぬしは今までどおり、おじいちゃんと呼べばよい」

「……いいんですか?」

花鈴が顔を上げる。

「もちろんじゃ」

その瞬間、花鈴の耳がぴんと立ち、尻尾が嬉しそうに揺れた。

「ありがとう! おじいちゃん!」

満面の笑みを浮かべる花鈴を見て、元始天尊もどこか嬉しそうに笑った。

⸻

数日後。

花鈴は元始天尊に連れられ、玉鼎真人のもとを訪れた。

「玉鼎真人、少しよいかのう」

「元始天尊様。お待ちしておりました」

玉鼎真人は丁寧に頭を下げたあと、元始天尊の隣にいる少女へ目を向けた。

花鈴は少し緊張しながら、一歩前へ出る。

「はじめまして。花鈴です。よろしくお願いします!」

ぺこりと頭を下げると、頭の猫耳も一緒にぺこんと揺れた。

玉鼎真人は一瞬だけその耳に目を留めたが、驚いた様子もなく、穏やかに微笑んだ。

「よろしく、花鈴」

「はい!」

花鈴は顔を上げた。

元始天尊は二人を見ながら、ゆっくりと話し始めた。

「この子は、これからさまざまなことを学んでいくところじゃ。困っている者を見ると、つい放っておけぬ性分でな。じゃが、まだ知らぬことも多い。おぬしに力を貸してもらいたいのじゃ」

「承知しました、元始天尊様」

玉鼎真人は静かに頷いた。

そして、花鈴へと向き直る。

「花鈴。修行は、すぐに何でもできるようになるものではないよ。時には失敗することもあるだろう。だけど、ひとつずつ学んでいけばいいんだよ」

花鈴は真剣な表情で話を聞いていた。

「今日できなかったことが、明日できるようになる。そうした積み重ねを大切にしていこう」

「はい! 頑張ります!」

花鈴の尻尾が、期待に弾むように揺れた。

新しい師匠。

新しい修行。

これから、どんなことを学べるのだろう。

不安がまったくないわけではない。

それでも、花鈴の胸には、これから始まる日々への期待がいっぱいに広がっていた。

玉鼎真人は、そんな花鈴の様子を穏やかに見守っていた。

焦らなくていい。

失敗しても、そこから学んでいけばいい。

これから先、花鈴が迷ったり、悩んだりすることもあるだろう。

そのときには、師として、できる限り支えていこう。

玉鼎真人は、そう心に決めた。

こうして花鈴は、新しい一歩を踏み出した。

誰かを助けたいという気持ちを、きちんと誰かを助けられる力へ。

その道のりは、まだ始まったばかりだった。