第五話 積小為大
第五話 積小為大
第五話 積小為大
朝の光が、崑崙山の山々を照らしていた。
花鈴は、いつもより早く目を覚ました。
今日から、玉鼎真人のもとで本格的な修行が始まる。
これまでも太公望と一緒に暮らしながら、仙人界でさまざまなことを見聞きしてきた。けれど、自分が何かを学ぶために師匠のもとへ通うのは、これが初めてだった。
「……よし」
花鈴は小さく息を吐き、両手をぎゅっと握った。
楽しみな気持ちはある。
けれど、それ以上に、少し緊張していた。
本当に自分にできるのだろうか。
この前の山道では、困っている人を助けようとして、かえって自分が危うくなってしまった。
あのときのことを思い出すと、胸の奥が少し痛む。
でも、いつまでも悔しがっているだけでは何も変わらない。
「……頑張ろう」
花鈴は顔を上げた。
猫耳が、決意を示すようにぴんと立つ。
今の自分にできることから、一つずつ覚えていけばいい。
そう心に決めて、花鈴は玉鼎真人のもとへ向かった。
⸻
「玉鼎様、おはようございます!」
修行場に着くと、花鈴は深々と頭を下げた。
「おはよう、花鈴。よく来たね」
玉鼎真人は穏やかに微笑んだ。
「今日から、よろしくお願いします!」
「うん。こちらこそ、よろしくね」
花鈴は顔を上げた。
優しい笑顔に、少しだけ緊張が和らぐ。
「では、さっそく始めようか。まずは、花鈴がどんな動きを得意としているのか、確かめてみたいんだ」
「分かりました!」
玉鼎真人は修行場の中央を指し示した。
そこには、いくつかの石が間隔を空けて置かれている。低い段差もあれば、少し足場の狭い場所もあった。
「この石を避けながら進んで、最後の段差を越えてみてくれるかな。速さは気にしなくていいから、いつもどおりに動いてみよう」
「はい!」
花鈴は姿勢を整え、目の前の道を見つめた。
一度、深呼吸をする。
それから、地面を蹴った。
石を避け、狭い足場を軽やかに進む。最後の段差も、ためらうことなく跳び越えた。
着地した花鈴は、すぐに玉鼎真人を振り返った。
「できました!」
尻尾が、少し誇らしげに揺れる。
「うん。身軽だね。周りを見ながら動けているし、体の使い方にも慣れているようだ」
「本当ですか?」
花鈴の耳が少し立った。
「ただ、最後の着地は改善できそうだね」
「えっ?」
花鈴は自分の足元を見た。
「着地したとき、体が少し前に傾いていたんだ。あのまま急に止まろうとしたら、転んでいたかもしれない」
玉鼎真人は、実際にゆっくりと動いて見せた。
「跳ぶ前に、着地する場所を確認する。そして、着地したあとも姿勢を保てるように意識するんだよ」
「なるほど……」
花鈴は真剣に頷いた。
猫だった頃は、高いところから飛び降りるのも得意だった。
けれど、人の姿になってからは、手足の長さも重心も違う。昔と同じ感覚だけでは、うまくいかないこともあるのだろう。
「もう一度、やってみます!」
花鈴は、再び石の前に立った。
今度は、着地する場所までしっかりと確認する。
跳んで、着地して――。
「あっ!」
足が少しずれ、体が傾いた。
花鈴は慌てて踏ん張ったものの、尻餅をついてしまった。
「大丈夫かい?」
玉鼎真人がすぐに声をかける。
「は、はい! 大丈夫です!」
花鈴は頬を少し赤くしながら立ち上がった。
猫耳が恥ずかしそうに横へ傾いている。
「今度は、着地したあとに足を踏ん張ることばかり考えてしまったね」
玉鼎真人は責めることなく、花鈴の動きを振り返った。
「一つのことを意識すると、ほかのことが難しくなる場合もある。だから、焦らずに、一つずつ体に覚えさせていこう」
「……はい」
花鈴は、もう一度足元を見た。
できると思っていたことが、思ったようにできない。
少し悔しい。
けれど、何がいけなかったのかを教えてもらえた。
それなら、次はそこに気をつければいい。
花鈴は顔を上げた。
「玉鼎様、もう一度お願いします!」
玉鼎真人は、優しく頷いた。
「もちろんだよ」
花鈴は何度も挑戦した。
一度目は、着地のときに体が傾いた。
二度目は、足元を気にしすぎて、次に進む方向を見失った。
三度目は、最後まで姿勢を保てたものの、動きがぎこちなくなってしまった。
それでも、花鈴は諦めなかった。
失敗するたびに、玉鼎真人の話を聞き、次に気をつけることを考える。
「今のは、さっきよりよかったよ」
その言葉に、花鈴の耳がぴくりと動いた。
「本当ですか?」
「うん。着地したあとの姿勢が、ずいぶん安定してきたね」
「やった……!」
思わず声が漏れた。
けれど、まだ完璧ではない。
花鈴は気を引き締め、もう一度挑戦した。
⸻
しばらくして、修行場に一人の青年が姿を現した。
「師匠、いらっしゃいますか?」
その声に、玉鼎真人が振り返る。
「楊戩。どうしたんだい?」
「ご報告したいことがあり、伺いました」
青年――楊戩は、玉鼎真人の前で丁寧に頭を下げた。
その姿を見た花鈴は、ぱっと顔を明るくした。
「あっ! 楊戩様!」
猫耳がぴんと立ち、尻尾が嬉しそうに揺れる。
楊戩も花鈴に気づき、穏やかに微笑んだ。
「花鈴。修行を始めたんだね」
「はい! 今日から玉鼎様に教えていただいているんです」
「そうなんだ。頑張っているね」
「まだ失敗ばかりですけど、少しずつできるようになってきました!」
花鈴は嬉しそうに答えた。
それから、改めて楊戩に向き直り、ぺこりと頭を下げる。
「この前は、本当にありがとうございました。あのときは助けていただいて、とても心強かったです」
「気にしなくていいよ。怪我がなかったなら、それでよかった」
楊戩はそう答えると、玉鼎真人に視線を戻した。
「師匠、花鈴のことは、もうお聞きになったんですね」
「うん。元始天尊様から話を聞いて、修行を引き受けることにしたんだ」
「そうでしたか」
楊戩は納得したように頷いた。
「花鈴、師匠は丁寧に教えてくださる方だから、分からないことがあったら遠慮せずに聞くといいよ」
「はい! 分かりました!」
花鈴は元気よく返事をした。
それから、少し考えるように首を傾げた。
「……あの、楊戩様」
「どうしたの?」
「楊戩様も、玉鼎様に修行を教えていただいたんですよね?」
「うん。僕は師匠の弟子だからね」
「そうなんですね!」
花鈴の耳がぴんと立った。
「それでは、私たちは兄弟弟子ということになるんでしょうか?」
楊戩は一瞬目を瞬かせ、それから微笑んだ。
「そうだね。これからは同じ師匠のもとで学ぶ仲間だね」
「仲間……!」
花鈴は、その言葉を嬉しそうに繰り返した。
「はい! よろしくお願いします、楊戩様!」
「こちらこそ、よろしくね、花鈴」
楊戩は穏やかに頷いた。
その様子を見ていた玉鼎真人も、どこか嬉しそうだった。
玉鼎真人は、花鈴と楊戩を交互に見て、ふと思いついたように口を開いた。
「楊戩、せっかくだから、花鈴の修行も少し見てやってくれないかい?」
「僕が、ですか?」
楊戩は少し驚いたように目を瞬かせた。
「うん。花鈴には、まだ教えていないことも多いからね。おまえの経験も、きっと役に立つと思うんだ」
「僕など、まだまだ修行中の身ですが……師匠のお役に立てるのでしたら、喜んで」
楊戩はそう言って、花鈴へと穏やかな視線を向けた。
「花鈴、僕でよければ、一緒に頑張ろう」
「本当ですか!? ありがとうございます、楊戩様!」
花鈴の猫耳が、ぱっと立ち上がった。尻尾も嬉しそうに揺れている。
「ふふ。そんなに喜んでもらえると、僕も嬉しいよ」
楊戩は優しく微笑んだ。
「ただ、僕もまだ学ぶことはたくさんあるからね。お互いに、少しずつ成長していこう」
「はい! よろしくお願いします!」
花鈴は元気いっぱいに頭を下げた。
その後、楊戩は玉鼎真人に報告を済ませ、しばらく修行の様子を見てから帰ることになった。
「花鈴、修行はまだ続くと思うけれど、無理はしないようにね」
「はい! ありがとうございます、楊戩様!」
花鈴は元気よく頭を下げた。
楊戩の姿が見えなくなるまで見送ると、花鈴は再び修行場へ向き直った。
兄弟弟子。
自分にも、同じ師匠のもとで学ぶ仲間ができた。
そう思うと、胸の奥が温かくなる。
けれど、嬉しい気持ちに浸ってばかりもいられない。
花鈴は、目の前の段差を見つめた。
「よし……!」
⸻
夕方が近づく頃には、花鈴の動きも朝より安定していた。
もちろん、すべてがうまくいくようになったわけではない。
それでも、着地のときに姿勢を保てることが増え、周囲を見ながら次の動きへ移る余裕も少しずつ生まれていた。
「では、最後にもう一度やってみようか」
玉鼎真人の言葉に、花鈴は頷いた。
石の位置を確認する。
足元を見る。
跳んだあとの動きも考える。
一つずつ、教わったことを思い出していく。
そして、花鈴は走り出した。
石を避け、狭い足場を進み、最後の段差を跳び越える。
着地。
体が少し揺れた。
けれど、今度は崩れない。
花鈴はしっかりと地面を踏みしめ、そのまま姿勢を保った。
「……できました!」
自分でも驚いたように、花鈴は目を丸くした。
次の瞬間、顔いっぱいに笑顔が広がる。
「やったー!」
猫耳がぴんと立ち、尻尾が大きく揺れた。
嬉しくて、何度もその場で跳ねそうになる。
「玉鼎様! 今の、できました!」
「うん。よくできたね、花鈴」
玉鼎真人は優しく微笑んだ。
「朝は難しかったことが、今はできるようになった。今日一日、しっかり頑張った成果だね」
「はい!」
花鈴は満面の笑みで頷いた。
「ありがとうございます! 私、明日も頑張ります!」
「うん。ただし、今日はしっかり休むこと。疲れを残さないのも大切だからね」
「分かりました!」
花鈴は素直に返事をした。
修行場を後にする頃、空は夕焼けに染まっていた。
朝は緊張でいっぱいだった。
何度も失敗して、悔しくなった。
それでも、諦めずに続けたことで、昨日までできなかったことが一つできるようになった。
たった一つ。
けれど、その一つが、花鈴にはとても大きく感じられた。
誰かを助けられるようになるまで、どれくらいの時間がかかるのかは分からない。
これからも、失敗することはきっとあるだろう。
思うようにいかず、悔しくなる日もあるかもしれない。
それでも、今日のように、一つずつ学んでいけばいい。
花鈴は夕空を見上げた。
「……明日も、頑張ろう」
小さく呟くと、猫耳が風を受けて揺れた。
その尻尾は、明日への決意を表すように、ゆっくりと左右に動いていた。
小さな努力を、一つずつ。
それがいつか、大きな力になることを信じて。
花鈴の修行の日々は、こうして始まった。