第六話 長閑な時間
第六話 長閑な時間
第六話 長閑な時間
午後の崑崙山。
柔らかな日差しが差し込む一室で、太公望と普賢真人は、向かい合ってお茶を飲んでいた。
窓から差し込む光が、湯呑みの縁を淡く照らしている。穏やかな午後の空気の中、茶の香りが静かに漂っていた。
「そういえば、望ちゃん。鈴ちゃんの修行は、順調に進んでいるの?」
普賢が湯呑みを置きながら尋ねた。
「うむ。修行を始めてから、何日か経ったのう。鈴も毎日、玉鼎のもとへ通っておるようじゃ」
太公望はお茶を一口すすった。
「初めての修行じゃからのう。慣れぬことも多いじゃろうが、あやつなりに頑張っておるようじゃ」
「そっか。鈴ちゃんがどんなことを学んでいるのか、僕も気になるな」
普賢が微笑む。その表情には、花鈴の成長を楽しみにしている気持ちがにじんでいた。
そんな話をしていると、廊下の向こうから、ぱたぱたと軽い足音が聞こえてきた。
「望様〜!」
元気な声とともに、花鈴が顔を出した。
少し息を弾ませているものの、その顔には明るい笑みが浮かんでいる。修行を終えて戻ってきたのだろう。猫耳は嬉しそうにぴんと立ち、尻尾も軽やかに揺れていた。
「おや、鈴。ちょうどよいところに来たのう」
太公望が声をかけると、花鈴は部屋の中へ入ってきた。
そして、太公望の向かいに座る普賢に気づく。
「あっ! 普賢様も来てたんだね!」
花鈴の猫耳が、ぱっと立ち上がった。
「うん。お邪魔しているよ。鈴ちゃんも一緒にお茶を飲む?」
普賢が優しく尋ねる。
「わあ、嬉しい! ありがとう!」
花鈴の顔がぱっと明るくなる。修行で少し疲れていたはずなのに、普賢の姿を見た途端、その疲れも忘れたようだった。
「ほれ、こちらへ座るがよい」
太公望に促され、花鈴は二人のそばに腰を下ろした。
「ちょうど、鈴の修行の話をしておったところじゃ。どうじゃ、修行は?」
太公望に尋ねられ、花鈴は少しだけ姿勢を正した。
「うん! 玉鼎様に、いろいろなことを教えてもらってるよ!」
その声には、疲れよりも誇らしさが勝っていた。花鈴は胸を張るようにして、二人の顔を見回す。
「ほう。何を教わっておるのじゃ?」
「まずは、体の動かし方だよ。石を避けながら進んだり、段差を跳び越えたり……」
そこまで話して、花鈴は少し恥ずかしそうに笑った。
「でも、思っていたより難しいんだ。猫だった頃は、もっと簡単にできた気がするんだけど……」
「ふむ。今は人の姿じゃからのう。体の使い方も、以前とは違うということじゃな」
「うん。着地するときに転んじゃったり、足元を気にしすぎて次に進む方向が分からなくなったり……」
花鈴はそのときのことを思い出したのか、肩を小さくすくめた。転んだときの痛みや、思うように動けなかった悔しさが、まだ少し残っているようだった。
話しているうちに、花鈴の猫耳が少しずつ横へ傾いていった。
「何度も失敗しちゃった……」
「それで、嫌になってしまった?」
普賢が尋ねると、花鈴は慌てて首を横に振った。
「ううん! そんなことないよ!」
猫耳が、ぴんと立ち直る。
花鈴は両手を胸の前でぎゅっと握った。小さな手に力がこもり、その瞳には強い光が宿っていた。
「最初は、思うように体を動かせなくて、何度も失敗しちゃったんだ。でも、玉鼎様に教えてもらいながら繰り返し練習していたら、少しずつできるようになってきたんだよ!」
花鈴の声は、話しているうちにどんどん弾んでいった。失敗した記憶も、諦めずに練習した時間も、今ではすべて大切な経験になっている。
花鈴の尻尾が、嬉しそうに揺れ始めた。
「まだ失敗することもあるけど、前より上手に動けるようになったんだ! 玉鼎様にも、よくできたって褒めてもらったよ!」
「それはよかったね、鈴ちゃん」
普賢は目を細めて微笑んだ。
「頑張ってきたことが、ちゃんと身についているんだね」
その言葉を聞いた花鈴は、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。自分の努力を認めてもらえることが、こんなにも嬉しいものなのだと、改めて思う。
「うん! とっても嬉しかった!」
花鈴は満面の笑みで頷いた。
その様子を見ていた太公望が、ふっと笑った。
「鈴は昔から、そういうところが変わらぬのう」
「えっ? そうなの?」
「うむ。うまくいかぬことがあっても、少し休めば、またすぐに走り出す。昔からそうじゃった」
太公望の言葉に、花鈴は首を傾げた。
「そうだったっけ?」
「そうじゃ。わしが止めても、聞かぬことがあったくらいじゃからのう」
「そ、それは……!」
花鈴の耳がぴくりと動いた。思い当たることがあるのか、視線がわずかに泳ぐ。
「だって、気になることがあったんだもん!」
「ほれ、今も同じじゃろう?」
「もう、望様!」
花鈴は頬を膨らませた。
けれど、怒っているというより、昔のことを知られている気恥ずかしさを隠しているようだった。尻尾の先が、落ち着かなげに左右へ揺れている。
それを見て、普賢がくすくすと笑う。
「ふふっ。鈴ちゃんらしいね」
「普賢様まで……」
花鈴は少し困ったように笑いながら、差し出された湯呑みを両手で受け取った。
両手に伝わる温もりに、花鈴の指先から少しずつ力が抜けていく。修行中はずっと張りつめていた気持ちが、二人と一緒にいることでゆっくりほどけていった。
温かいお茶を一口飲む。
ほっと息をつくと、胸の奥まで温かさが広がった。
「でも……」
花鈴は湯呑みを見つめながら、小さく口を開いた。
先ほどまでの明るい表情が少し落ち着き、その瞳に真剣な色が浮かぶ。
「私、もっといろいろなことができるようになりたいんだ」
太公望と普賢が、静かに花鈴へ目を向けた。
花鈴は湯呑みをそっと机の上に置き、両手を膝の上で重ねた。胸の中にある思いを、ひとつずつ確かめるように言葉を続ける。
「この前みたいに、困っている人がいたとき、ちゃんと助けられるようになりたい。助けたいと思うだけじゃなくて、本当に助けられるように……」
その声には、いつもの明るさとは少し違う、真剣な響きがあった。
助けたいのに、何もできなかったらどうしよう。誰かの手を借りなければならないままだったらどうしよう。
そんな不安も、花鈴の胸の奥には残っている。
けれど、それ以上に強い思いがあった。
今度は、自分の力で誰かを助けたい。
そのためなら、何度失敗しても、何度でも立ち上がろう。
太公望は、しばらく花鈴を見つめていた。
その瞳に浮かぶ決意を見て、昔から変わらない花鈴の姿と、少しずつ成長していく今の花鈴の姿を重ねているようだった。
「……そうか」
短く答え、それから穏やかな声で続ける。
「ならば、今は玉鼎の教えをしっかり身につけることじゃな。焦る必要はない。一日で何もかもできるようになるわけではないからのう」
「うん!」
花鈴は力強く頷いた。
太公望の言葉が、胸の中にすっと入ってくる。焦らなくていい。今日できなかったことも、明日、明後日と続けていけばいい。
その言葉を、花鈴は心の中で何度も繰り返した。
「わしも、鈴が何を学んでいくのか、楽しみにしておるぞ」
その言葉に、花鈴の顔がぱっと明るくなった。
「本当?」
「嘘をついてどうする」
「えへへ……ありがとう、望様!」
花鈴は嬉しそうに笑った。胸の奥にあった不安が、太公望の言葉によって少し軽くなっている。
花鈴の尻尾が、隠しきれない嬉しさを表すように、ゆらゆらと揺れた。
「僕も楽しみにしているよ、鈴ちゃん」
普賢も微笑んだ。
「また修行の話を聞かせてほしいな。うまくいったこと。難しかったことも」
「うん! いっぱい聞いてね、普賢様!」
花鈴は元気よく返事をした。
その声を聞いて、普賢の表情もさらに柔らかくなる。花鈴は二人に見守られていることが嬉しくて、自然と背筋が伸びた。
三人の間に、穏やかな空気が流れる。
窓の外では、風が木々の葉を揺らしていた。
しばらくは修行の話から離れ、太公望が最近見つけた美味しい桃の話や、普賢が崑崙山で見かけた珍しい鳥の話で盛り上がった。
花鈴は興味津々で耳を傾け、ときには身を乗り出して質問する。珍しい鳥の話を聞けば猫耳がぴくぴく動き、桃の話になれば尻尾が楽しそうに揺れた。
太公望と普賢も、そんな花鈴の反応を見ては笑みを浮かべる。
気がつけば、湯呑みのお茶もすっかり少なくなっていた。
「……あっ、もうこんな時間!」
花鈴は窓の外を見て、慌てて立ち上がった。
夕方の気配が、いつの間にか山の景色に混じっている。楽しい時間は、いつもあっという間に過ぎてしまう。
「私、そろそろ行くね! 明日も修行があるから、今日は早めに休もうと思うんだ!」
「そうじゃな。あまり夜更かしするでないぞ、鈴」
「うん! 望様も、夜更かししないでね!」
「わしは大丈夫じゃ」
「本当?」
花鈴はじっと太公望を見つめた。
「この前も、遅くまで起きていたじゃない!」
「……さて、何のことかのう」
太公望は、すっと視線をそらした。
「もう、望様ったら!」
普賢が楽しそうに笑う。
「望ちゃん、鈴ちゃんに心配されているね」
「余計なことを言うでない、普賢」
そんなやり取りに、花鈴も思わず笑った。
さっきまで胸の中にあった真剣な思いも、今は二人との温かな時間に包まれて、優しい力へと変わっていた。
「じゃあ、普賢様。また遊びに来てね!」
「うん。またね、鈴ちゃん」
二人に手を振ると、花鈴は軽い足取りで部屋を後にした。
廊下を歩きながら、花鈴はそっと自分の手を握ってみた。
修行でできるようになったこと。
玉鼎真人から教えてもらったこと。
そして、太公望と普賢に話を聞いてもらえたこと。
どれも、花鈴にとって大切なものだった。
手のひらには、まだ湯呑みの温もりが残っているような気がした。その温かさが、太公望と普賢の言葉と一緒に、花鈴の胸の中に残っている。
明日もきっと、簡単にはいかないだろう。
また転ぶかもしれない。思うように動けず、悔しくなるかもしれない。
それでも、今日のように一つずつ覚えていけばいい。
失敗しても、立ち上がればいい。
花鈴は顔を上げた。
「よし! 明日も頑張ろう!」
その声には、先ほどよりもはっきりとした決意がこもっていた。
夕暮れの風が、猫耳と尻尾を優しく揺らした。
その足取りは、来たときよりも少しだけ軽くなっていた。