第七話 束の間の休息
第七話 束の間の休息
第七話 束の間の休息
人間界。
山あいを流れる川のほとりに、大きな岩がひとつあった。
その岩の上では、太公望が釣り糸を垂らしている。
「ニョホホホホ。釣れた釣れた。にじますだのう!」
釣り上げた魚を手に、太公望は満足そうに笑った。
大きな岩の下にある小さな岩には、普賢が腰をかけている。足を水につけ、川の流れを眺めながら、のんびりとした時間を過ごしていた。
一方、少し離れた場所では、花鈴が水浴びを楽しんでいた。
太公望の釣りの邪魔にならないようにと、川の中でぱしゃぱしゃと水をはねさせている。
「ふふっ、気持ちいい!」
猫耳をぴくぴくと動かしながら、花鈴は楽しそうに笑った。
その頃、太公望の釣り上げた魚を見ていた普賢が、呆れたように口を開いた。
「望ちゃん……そんなことをするために人間界に来たの? 食べられないのに魚釣りなんて、いけないよ」
「わかっておるわ。この偽聖人め! ほい。キャッチ・アンド・リリース!」
太公望はむっとした顔で言い返すと、釣り上げた魚を川へと戻した。
魚が水の中へ消えていくのを見届けてから、再び釣り糸を垂らす。
「まったく、細かいことを気にしおって……」
「細かいことかなあ?」
普賢はそう言いながら、小さな岩から身軽に立ち上がった。
そして、たっと太公望のいる大きな岩へ飛び乗る。
「望様〜! 普賢様〜!」
ちょうど水浴びを終えた花鈴も、二人の声が聞こえるところまで戻ってきた。
濡れた髪を手で整えながら、大きな岩へと近づいてくる。
「おや、鈴。もう水浴びは終わったのか?」
「うん! すっごく気持ちよかったよ!」
花鈴は嬉しそうに答えると、太公望のそばへやってきた。
その隣で、普賢が何かを思いついたように微笑んだ。
「ねえ、いい物をあげるよ。僕お手製の釣り針だよ!」
そう言って、普賢が太公望に差し出したのは、縫い針のように真っ直ぐな釣り針だった。
花鈴はそれを覗き込み、不思議そうに首を傾げる。
「……これが、釣り針?」
どう見ても、魚を引っかけるための形には見えない。
太公望もそれを見た途端、顔を赤くした。
「……おい、それでは釣れんぞ!」
ぷりぷりと怒りながら、普賢を睨みつける。
「ふふっ。そうかな?」
普賢は相変わらず穏やかな顔をしていた。
「望ちゃんは考え事をするために釣りをしてるんでしょ? わかってるよ。でも、そのために魚が痛い目を見るのは感じ悪くない?」
太公望は、ぷいっと横へ目線を逸らした。
「お主は徹底して争い事が嫌いなのだのう」
普賢は太公望の横顔を見つめ、少しだけ表情を和らげる。
「でも、望ちゃんだって実はそうじゃないの。鈴ちゃんも」
そう言って、普賢は花鈴へと視線を向けた。
「だからこうして、気があっている」
「えっ? 私も?」
突然話を振られ、花鈴はぱちぱちと瞬きをした。
争い事が嫌い。
そう言われれば、確かにそうだ。
誰かが喧嘩をしていれば仲直りしてほしいと思うし、困っている人がいれば助けてあげたい。
花鈴は小さく頷いた。
「うん。私も、喧嘩は好きじゃないよ」
「そうだよね」
普賢は微笑んだ。
けれど、その笑顔はほんの少しだけ曇った。
「でも……」
言葉を探すように、普賢は一度口を閉じた。
そして、太公望へと目を向ける。
「望ちゃんは、いつか戦いに身を投じる気がする。心の奥に、ギラギラ光る刃があるもの」
太公望は何も答えなかった。
ただ、静かに釣り竿を握っている。
花鈴は二人の顔を交互に見つめた。
戦い。
その言葉が何を意味するのか、花鈴にはまだ分からないことが多かった。
けれど、普賢の声がいつもより真剣なことは分かった。
そして、太公望がこれからどんな道を進むことになっても、自分はそばにいたい。
花鈴にとって、それはずっと変わらない気持ちだった。
普賢は太公望の隣に座り、まっすぐに前を見つめた。
「その時には、僕もキミの横にいるよ。それぐらいの力はあるから……」
穏やかな声だった。
けれど、その言葉には確かな決意が込められていた。
太公望は、ゆっくりと普賢へ視線を向けた。
花鈴はそんな二人を見て、ぎゅっと両手を握った。
「私も!」
二人が花鈴を見る。
「私も、そばにいる!」
花鈴の猫耳が、ぴんとまっすぐに立った。
「望様がどこへ行っても、私も一緒に行くよ! 望様も、普賢様も、私が守るから!」
その言葉には、迷いなど少しもなかった。
戦いがどれほど大変なものなのか、花鈴はまだ知らない。
自分に何ができるのかだって、分からないことばかりだ。
それでも、大切な二人のそばにいたい。
その気持ちだけは、誰にも負けないつもりだった。
太公望は一瞬目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「……鈴は、相変わらずじゃのう」
「えへへ。そうかな?」
花鈴は照れくさそうに笑った。尻尾は嬉しそうにゆらゆらと揺れている。
普賢も、そんな花鈴を見て微笑んだ。
「ふふっ。頼もしいね、鈴ちゃん」
「本当だよ!」
花鈴は胸を張った。
太公望は小さく息をつくと、再び釣り糸を川へ垂らした。
「まったく……おぬしらといると、静かに考え事もできんのう」
「えーっ! 私、邪魔してないよ?」
「わかっておる、わかっておる」
太公望はそう言いながら、どこか楽しそうに笑っていた。
普賢も穏やかに微笑んでいる。
花鈴は二人のそばに腰を下ろし、川の流れに目を向けた。
木々の間から差し込む光が、水面できらきらと揺れている。
三人で過ごす、穏やかなひととき。
今はまだ、この時間がいつまでも続くように思えた。
川のせせらぎが、三人の声を優しく包み込む。
この先、何が待ち受けているのか。
まだ誰にも分からない。
それでも、このひととき、三人は大きな岩の上に並んで座っていた。
そして花鈴は、いつか訪れるかもしれない戦いのことなど深く考えず、ただ大切な二人のそばにいられることを嬉しく思っていた。