第八話 それぞれの明日
第八話 それぞれの明日
第八話 それぞれの明日
崑崙山での日々は、穏やかに過ぎていた。
太公望は相変わらず修行をサボっては昼寝をし、桃を食べ、釣り糸を垂らす毎日を送っている。
かつて三十年ものあいだ、猛然と修行に打ち込んでいた姿を知る者からすれば、呆れるような変わりようだった。
けれど、それはただ怠けているというだけではない。
長い修行を通して、太公望は仙人としての力を身につけただけでなく、世の理や人間界のあり方、そして仙人界に潜むさまざまな問題を知るようになった。そうした経験が、彼の考え方を少しずつ変えていったのだった。
一方、普賢真人は修行を終え、元始天尊の直弟子たちで構成される崑崙十二仙の一人となっていた。
太公望と同格の仙人として認められ、宝貝も授かっている。
それでも、太公望と普賢の関係は以前と変わらず、そして花鈴もまた、二人のそばで変わらぬ日々を過ごしていた。
そんな毎日が、これからもずっと続いていく。
花鈴は、どこかでそう思っていた。
けれど、その日々に終わりを告げる出来事が訪れる。
*
「鈴、少し話がある」
ある日のこと。
太公望に呼ばれた花鈴は、小首を傾げながら彼のもとへ駆け寄った。
「うん。何、望様?」
「うむ。実はな、元始天尊様から新たな任務を命じられたのじゃ」
「任務……?」
「封神計画という」
聞き慣れない言葉に、花鈴はぱちぱちと瞬きをした。
「封神計画……?」
「人間界を惑わす悪しき仙人たちを封神台に閉じ込める。それが、この計画の目的じゃ」
太公望は、いつもの気の抜けた様子とは違う、真剣な表情をしていた。
「わしはこの任務を通して、人間界を見て回ることになる。これは、わし自身の修行でもあるのだ」
「人間界……」
「うむ。じゃから、鈴を連れていくわけにはいかぬ」
「……え?」
花鈴の表情が、ぴたりと止まった。
「私……一緒には行けないの?」
「すまぬが、そういうことだ」
太公望は申し訳なさそうに答えた。
花鈴はしばらく彼を見つめていたが、やがて小さな手で太公望の袖をつかんだ。
「……私も、一緒に行きたい」
「鈴?」
「望様のそばにいたいの。私も、望様の力になりたい……!」
普段は元気いっぱいの花鈴が、今にも泣きそうな声で訴えた。
「鈴、これは遊びに行くのではないのじゃぞ」
「分かってる……。分かってるけど……」
花鈴の声が震えた。
「望様と離れるのは、嫌……」
こらえていた涙が、ぽろぽろと頬を伝い始めた。
「……鈴」
「……私も、連れていって……。望様のおそばにいたいの……」
声がかすれ、花鈴は太公望の袖をぎゅっと握りしめた。
「望様と離れるのは……嫌だよ……っ」
とうとう、花鈴はこらえきれずに泣き出してしまった。
「なっ……鈴!?」
太公望は目を見開いた。
花鈴が泣くところなど、これまで一度も見たことがなかった。
転んでも、失敗しても、悔しそうに唇を尖らせることはあっても、最後には「もう一度お願いします!」と立ち上がる子だった。
その花鈴が、声を上げて泣いている。
「お、おい、鈴。泣くでない。のう、鈴……」
太公望は頭を掻き、どうしたものかと困り果てた。
そんな二人の声を聞きつけて、一人の仙人がやってきた。
「……どうしたの?」
普賢だった。
泣きじゃくる花鈴と、途方に暮れた様子の太公望を見比べ、不思議そうに首を傾げる。
「望ちゃん、何かあったの?」
「おお、普賢か。実はな……」
太公望は、元始天尊から封神計画を命じられたこと、そして花鈴を連れていくことはできないと伝えた。
話を聞き終えた普賢は、静かに花鈴へ視線を向けた。
「そっか……。望ちゃん、封神計画に行くんだね」
「うむ。これはわしが引き受けた任務じゃ」
「そう……」
普賢はそれ以上、太公望を引き止めるようなことは言わなかった。
太公望が自分で決めたことなら、その決意を尊重する。
普賢は、太公望の選択だけを信じているのではなかった。彼がどんな人間で、何を考え、何を背負っているのか。その人としての価値を信じていた。
だからこそ、太公望が歩もうとする道を理解し、支えようとしていた。
普賢は花鈴のそばに腰を下ろした。
「鈴ちゃん」
「うぅ……っ、普賢様……」
花鈴は涙で濡れた顔を上げた。
「望ちゃんと離れるのは、寂しいよね」
「……うん。私も一緒に行きたい……。望様のそばにいたいの……」
花鈴の声が、また震えた。
「望様と離れるのは、嫌……」
普賢は、花鈴をじっと見つめた。
「うん。鈴ちゃんが望ちゃんを大切に思っているのは、僕もよく知ってるよ」
「だったら……」
「でもね、鈴ちゃん」
普賢の声が、ほんの少しだけ厳しくなった。
「望ちゃんは、自分で行くと決めたんだよ」
花鈴の肩が、ぴくりと揺れた。
「……ぐすっ」
「望ちゃんには、望ちゃんが果たさなきゃいけないことがある。だから、その決意を受け入れてあげなくちゃ」
「でも……」
花鈴は涙を拭いながら、言葉を探した。
「……分かってる。望様が行かなきゃいけないことも、私がついていけないことも……。でも、すぐには気持ちを切り替えられないよ……」
「うん。無理に切り替えなくてもいいよ」
普賢は穏やかに答えた。
「寂しいと思うことまで、我慢しなくていい。でも、寂しいからって、望ちゃんの決意を否定してはいけないよ」
花鈴は、はっと顔を上げた。
「鈴ちゃんは、望ちゃんのことを信じているんでしょう?」
「……うん」
「だったら、望ちゃんが自分で決めたことも信じてあげよう。望ちゃんがどんな人なのか、鈴ちゃんは知っているはずだよ」
普賢の言葉には、穏やかさの中にも揺るぎない強さがあった。
「望ちゃんは、誰かに言われたから行くんじゃない。自分が果たすべきことだと分かっているから、引き受けたんだよ」
花鈴は唇をきゅっと結んだ。
「……望様が、自分で決めたから……」
「うん。だから、鈴ちゃんも自分で決めなくちゃいけない」
「私が……?」
「望ちゃんを引き止めるのか。それとも、望ちゃんの決意を受け入れて、自分にできることをするのか」
普賢は花鈴の目をまっすぐに見た。
「泣いているだけでは、何も変わらないよ。望ちゃんを大切に思っているなら、望ちゃんが進もうとしている道を信じてあげよう」
花鈴は俯いた。
普賢は、ただ優しい言葉で慰めてくれるだけの人ではなかった。
花鈴が悲しんでいることも、太公望と離れたくないことも分かっている。それでも、今は伝えなければならないと思ったのだ。
太公望が決意したことを、花鈴にも受け止めてほしい。
大切な人を想う気持ちがあるのなら、その人の決意もまた、大切にしてほしい。
それが普賢の願いだった。
「……ぐすっ。望様は、自分で決めたんだよね……?」
「うむ」
太公望が静かに頷いた。
「鈴には寂しい思いをさせるが、わしは行かねばならぬ」
花鈴は、しばらく黙っていた。
涙はまだ頬を伝っていたけれど、先ほどのように声を上げて泣くことはなくなっていた。
「……分かった」
小さな声だった。
「私……望様が決めたことを、受け入れる」
「鈴……」
太公望の表情が、わずかに和らいだ。
花鈴は目元を拭い、もう一度、太公望を見上げた。
「……寂しいよ。でも、望様を困らせたいわけじゃない」
「うむ。分かっておる」
「望様が戻ってくるまで、私も頑張る」
「そうか」
太公望は花鈴の頭に手を置いた。
「わしが戻ったら、また一緒に過ごせばよい」
それがいつになるのか、どのような旅になるのか。今はまだ、誰にも分からない。
それでも、花鈴は太公望の決意を信じようと思った。
*
「それでね、鈴ちゃん」
少し落ち着いた花鈴に、普賢が声をかけた。
「望ちゃんがいなくなったら、ここで一人で過ごすことになるでしょ?」
「……うん」
「よかったら、僕の洞府に来る?」
「えっ?」
花鈴は顔を上げた。
「僕のところには木吒もいるし、鈴ちゃんが来たら喜ぶと思うよ。もちろん、無理にとは言わないけどね」
「普賢様の洞府に……?」
「うん。望ちゃんがいない間、ずっと一人でいるのも寂しいだろうし。僕も、鈴ちゃんがそばにいてくれたら嬉しいよ」
花鈴は、普賢の顔をじっと見つめた。
太公望と離れる寂しさは、すぐには消えないだろう。
けれど、太公望がいない間も、自分を気にかけてくれる人がいる。
それは、今の花鈴にとって、とても心強いことだった。
「……ありがとう、普賢様」
花鈴は涙の残る顔で、小さく笑った。
「私、普賢様のところに行く」
「うん。じゃあ、これからよろしくね、鈴ちゃん」
「うん。よろしく!」
花鈴が答えると、普賢はほっとしたように微笑んだ。
太公望もまた、安堵したように息をついた。
「普賢、すまぬな。鈴のこと、よろしく頼む」
「ううん。僕がそうしたいと思ったんだよ」
普賢は穏やかに答えた。
「望ちゃんは、望ちゃんのやるべきことを。鈴ちゃんは、鈴ちゃんにできることを。それぞれ頑張ればいいんだと思う」
花鈴は、その言葉を胸の中で繰り返した。
自分にできること。
今の自分にできることは、何だろう。
太公望についていくことはできない。けれど、だからといって何もできないわけではない。
花鈴には、まだ学ぶべきことがたくさんある。
もっと強くなりたい。
いつか、望様の力になれるくらいに。
その思いは、少しずつ花鈴の胸の中で形になっていった。
*
そして、太公望が旅立つ日がやってきた。
朝から、花鈴は自分の部屋でじっと座っていた。
今日は太公望が崑崙山を発つ日。
見送りに行こうと思えば、行くことはできる。
けれど、顔を見たら、きっとまた泣いてしまう。最後まで笑顔で送り出せないかもしれない。
「……望様」
花鈴は、小さく呟いた。
本当は、行ってほしくない。
ずっと一緒にいたい。
けれど、太公望には果たすべき役目がある。
それを自分の寂しさだけで引き止めることは、もうしたくなかった。
花鈴は、ぎゅっと両手を握った。
「……私、頑張る」
誰に聞かせるでもなく、そう口にした。
「もっと修行して、もっと強くなる。いつか、望様の力になれるように……!」
太公望が帰ってきたとき、今より少しでも成長した自分でいられるように。
離れていても、太公望を想う気持ちは変わらない。
だからこそ、今は自分にできることをしよう。
花鈴は、太公望を見送りには行かなかった。
泣いてしまいそうだったから。
けれど、それは太公望の決意から目を背けたかったからではない。
涙をこらえながら、彼の旅立ちを受け入れようとしていたのだ。
こうして花鈴は、普賢の洞府で過ごすことを決めた。
そして、いつか太公望の力になれる日を信じて、修行を続けていく。
大切な人と離れる寂しさを胸に抱きながら。
花鈴は、自分自身の道を歩き始めた。