第九話 小さな変化
第九話 小さな変化
第九話 小さな変化
太公望が封神計画へと旅立ってから、しばらくの時が流れた。
花鈴は今、普賢真人の住まう九功山・白鶴洞で暮らしている。
初めのうちは、何をしていても太公望のことを思い出してしまった。
いつも隣にいた人がいない。
朝起きても、食事をしていても、修行をしていても、ふとした瞬間に寂しさが込み上げてくる。
それでも、普賢や木吒と過ごす日々の中で、花鈴は少しずつ新しい生活に馴染んでいった。
*
「師匠、素振り終わりました!」
木吒が額の汗を拭いながら、修行場から戻ってきた。
「お疲れさま、木吒。今日も頑張ったね」
「ありがとうございます! いやあ、身体を動かすと腹が減りますね」
木吒は、からりと笑った。
「花鈴も、そろそろ休憩にしないか?」
「うん! ちょうど私も休もうと思ってたところ!」
花鈴は伸びをして、木吒のそばへ駆け寄った。
そのとき、少し離れた場所で本を読んでいた普賢が顔を上げる。
「二人とも、お茶にする?」
「する!」
「オレもいただきます!」
「ふふ。じゃあ、用意するね」
普賢は本を閉じ、穏やかに微笑んだ。
その様子を見ながら、花鈴はふと思った。
普賢様は、いつも優しい。
修行で失敗しても、決して頭ごなしに叱ったりはしない。
どうすれば上手くいくのか、一緒に考えてくれる。
分からないことを尋ねれば、何度でも丁寧に教えてくれる。
だから、花鈴は安心して修行に取り組むことができた。
――ここに来てよかった。
そう思えるようになっていた。
*
お茶を飲み終えたあと、花鈴は一人で洞府の外へ出た。
身体を動かしたあとは、少し散歩をするのが好きだった。
木々の間を歩き、風に揺れる葉を眺める。
時折、鳥の声が聞こえると、花鈴はそちらへ顔を向けた。
「今日はいい天気だなあ」
のんびりと歩いていた、そのとき。
「おい、そこの妖怪仙人!」
突然、背後から声をかけられた。
「……え?」
振り返ると、一人の道士が立っていた。
その目には、明らかな警戒心が浮かんでいる。
「お前、あの普賢真人様のところにいるという妖怪仙人か?」
「うん。そうだけど……何か用?」
「ふん。やはりそうか」
道士は花鈴を上から下まで眺めた。
「妖怪仙人など、何を考えているか分かったものではない。仙人の住まう場所に、そんなものがいるとはな」
「……そんなもの?」
花鈴は、少し困ったように眉を下げた。
「私、何もしてないよ?」
「口では何とでも言える!」
道士は声を荒らげた。
「妖怪仙人が人間に近づいて、何を企んでいる!」
「企んでなんかないよ。私はただ、ここで修行してるだけ」
「黙れ!」
道士が腕を振るう。
その手から放たれた攻撃が、花鈴へと迫った。
「わっ!」
花鈴はとっさに横へ跳び、攻撃をかわした。
地面に攻撃が当たり、乾いた音が響く。
「ちょっと! いきなり何するの!」
「やはり、化け物め!」
「だから、私は……!」
話をしようとしても、道士は聞く耳を持たなかった。
再び攻撃が飛んでくる。
花鈴は身をひねり、木の幹を蹴って距離を取った。
相手を傷つけたくはない。
だから、反撃はしない。
ただ、攻撃をかわしながら、何とか話を聞いてもらおうとしていた。
「お願いだから、やめてよ!」
「黙れ!」
道士はますます苛立ち、次々と攻撃を繰り出した。
花鈴は猫のように身軽に動き、そのたびに攻撃をかわしていく。
けれど、相手は一向に話を聞こうとしない。
どうすれば、分かってもらえるのだろう。
花鈴は困りながらも、必死に攻撃を避け続けた。
*
「……うーん、困ったね」
少し離れた場所で、普賢は静かに成り行きを見守っていた。
隣には弟子の木吒がいる。
「花鈴は、あの道士に何もしていないようですが」
「うん。鈴ちゃんは争いたくないんだろうね」
普賢は花鈴の動きを目で追った。
攻撃をかわしながらも、花鈴は何とか相手に分かってもらおうとしているようだった。
それでも、道士は聞く耳を持たない。
「妖怪仙人だからって、最初から悪いものだと決めつけるのはよくないよね」
「花鈴は、誰かを傷つけるような子じゃありません!」
木吒も、花鈴を心配そうに見つめながら声を上げた。
「うん。僕もそう思うよ」
普賢は穏やかに頷いた。
花鈴がどんな子なのか、少しでも知ってもらえたら。
誰かを傷つけることを望まない、優しい子なのだと分かってもらえたら。
きっと、妖怪仙人だというだけで拒絶することもなくなるはずだ。
できることなら、花鈴には戦わずに済んでほしい。
普賢は、どうすれば相手に花鈴の思いが伝わるのか、静かに考えていた。
しかし、道士の攻撃は次第に激しさを増していった。
*
「もう、やめようよ!」
花鈴が声を上げた、そのときだった。
道士が放った攻撃が、まっすぐ花鈴へと迫る。
花鈴は反射的に身をかわそうとした。
けれど、その先には普賢と木吒がいる。
今ここで避ければ、二人に攻撃が当たってしまう。
花鈴は一瞬、目を見開いた。
避けなきゃ。
そう思った。
けれど、どちらへ動いても二人を巻き込んでしまう。
ならば――。
花鈴は足を止めた。
自分が傷つくことよりも、二人を巻き込むことのほうが怖かった。
考えている時間はない。
自分が受ければいい。
そうすれば、二人は無事でいられる。
「木吒、危ないから下がって」
普賢は落ち着いた声で告げた。
「ヘイッ!」
木吒がすぐさまその場を離れる。
それを確認すると、普賢は迷うことなく地面を蹴った。
迫りくる攻撃の前に飛び込み、花鈴の身体をしっかりと抱き上げる。
そして、そのまま攻撃の軌道から離れた。
直後、二人がいた場所を強い力が通り過ぎていく。
「……え?」
花鈴は目を瞬かせた。
気づけば、自分は普賢の腕の中にいた。
「普賢様……?」
「大丈夫、鈴ちゃん?」
「う、うん……」
花鈴は頷いた。
普賢の腕は、見た目の印象よりもしっかりしていた。
普段は細く、どこか儚げに見えるのに、こうして抱き上げられても不安を感じることがない。
花鈴は少し驚きながら、普賢の顔を見上げた。
「よかった」
普賢はそう言って、花鈴をそっと地面に下ろした。
それから、道士へと向き直る。
「もう、やめよう」
声は穏やかだった。
けれど、その言葉にははっきりとした意思があった。
「彼女は、君に一度も反撃していないよ」
「……何?」
「何度も攻撃をかわしながら、ずっと君に分かってもらおうとしていた。鈴ちゃんは、君を傷つけたくなかったんだと思う」
普賢は、静かに道士を見つめた。
「それでも君は、彼女の話を聞こうとしなかった」
道士は言葉に詰まった。
「妖怪仙人だからという理由だけで、彼女を悪だと決めつけていいのかな」
「……」
「彼女が何をしたのか、君は確かめたの?」
道士は花鈴を見る。
花鈴は怒るでもなく、ただ困ったような顔でこちらを見ていた。
反撃する機会はいくらでもあったはずだ。
それなのに、彼女は一度も攻撃してこなかった。
自分が抱いていた先入観と、目の前にいる少女の姿が、どうしても結びつかなかった。
「……私は……」
道士は、ゆっくりと視線を落とした。
「お前が妖怪仙人だというだけで、勝手に悪いものだと決めつけていた」
小さな声だった。
「……申し訳なかった」
花鈴は、少し驚いたように目を丸くした。
「……うん。もういいよ」
「……許してくれるのか?」
「うん! でも、次からはちゃんと相手の話も聞いてね」
花鈴は、いつもの明るい笑顔を見せた。
道士は気まずそうに頷き、その場を去っていった。
*
「花鈴、怪我はない?」
普賢が尋ねた。
「うん! 大丈夫!」
花鈴は元気よく答えた。
「よかった」
「ありがとう、普賢様。助けてくれて」
「どういたしまして」
普賢はいつものように微笑んだ。
その隣で、木吒もほっとしたように息を吐く。
「本当によかった。花鈴、無事で何よりだな」
「心配かけてごめんね、木吒くん」
「花鈴が謝ることないさ。悪いのは、話も聞かずに攻撃してきたあの道士だろ」
木吒は少し表情を引き締め、花鈴に向き直った。
「でも、無理はするなよ。相手が聞く気のないときは、どうにもならないことだってあるんだから」
「……うん」
花鈴は小さく頷いた。
分かっているつもりだった。
それでも、誰かが自分を怖がったり、悪いものだと決めつけたりするのは、やっぱり悲しかった。
自分はただ、仲良くしたいだけなのに。
傷つけ合いたくないだけなのに。
どうして、それが伝わらないのだろう。
花鈴は自分の手を見つめた。
そして、ふと考えた。
――私の姿が、怖いのかな。
猫の耳や尻尾。
それを見て、怖いと思う人もいるのかもしれない。
花鈴にとっては、ずっと当たり前のものだった。
だから、そんなふうに思う人がいることを、あまり考えたことがなかった。
「……だったら」
花鈴は、小さく呟いた。
「私が人の姿でいればいいんだよね」
「鈴ちゃん?」
普賢が、静かに名前を呼ぶ。
「だって、私の姿を見て怖いって思う人がいるなら、わざわざ怖がらせたくないもの」
花鈴は顔を上げた。
「人の姿でいることには、もう慣れてるし! これからは、ちゃんと人の姿で過ごすことにするね」
それは、誰かに言われたからではなかった。
花鈴自身が考え、自分で決めたことだった。
普賢は、そんな花鈴を穏やかに見つめた。
「……鈴ちゃんが、自分でそう決めたんだね」
「うん!」
「そっか」
普賢は優しく微笑んだ。
「でも、無理はしないでね。誰かを怖がらせないことも大切だけど、鈴ちゃんが自分らしくいられることも大切だから」
「……うん。ありがとう、普賢様」
花鈴は笑った。
少しだけ、気持ちが軽くなった気がした。
*
その夜。
花鈴は布団の中で、昼間の出来事を思い返していた。
道士に攻撃されたこと。
避けることができなくなった瞬間のこと。
そして――
普賢が助けてくれたこと。
「……普賢様、かっこよかったな」
ぽつりと呟く。
危ない瞬間でも、普賢は落ち着いていた。
慌てることもなく、迷うこともなく。
当たり前のように、花鈴を助けてくれた。
普段は穏やかで、物知りで、少し不思議なところもある人。
けれど、今日の普賢は、いつもとは少し違って見えた。
「……すごいなあ」
花鈴は、布団の中で小さく笑った。
明日、もう一度ちゃんとお礼を言おう。
そう思いながら、目を閉じる。
やがて、眠気がゆっくりと訪れた。
そして――
すっかり安心して眠ってしまった花鈴の姿は、いつの間にか一匹の猫へと戻っていた。
丸くなった黒い猫は、静かな寝息を立てている。
誰にも気を遣わず、何も考えずに眠れる場所。
花鈴にとって、ここは少しずつ、そんな場所になっていた。
そして、この夜。
花鈴の心には、まだ自分でも気づかない、ごく小さな変化が生まれていた。