四十四話
四十四話
八月のお盆週。その週末一夏と箒は篠ノ之神社へと足を運んでいた。蝉の声はまだしつこく鳴り続いているが、夕方に近づくにつれどこかその声も弱々しくなり、代わりにひぐらしの声が混じり始めていた。境内には祭りの準備が進められている。提灯が次々と掲げられ、屋台の骨組みが姿を現し参道の両脇にはまだ火の入っていない篝火が並べられていた。
「懐かしいな」
一夏は、そう呟いた。目の前に広がる光景は、幼い頃とほとんど変わっていない。鳥居の朱色。石畳の参道。手水舎の静かな水音。そして、あの頃と変わらぬ境内の空気。
「ああ。本当に」
箒も、一夏の隣でそう答えた。その声には、どこか懐かしさが滲んでいる。二人は並んで参道を歩きながら、幼い頃の記憶を辿っていた。この神社で、一緒に走り回ったこと。祭りの屋台で、金魚すくいをしたこと。境内の隅っこで、隠れん坊をしたこと。
「一夏、覚えてるか? あの頃よくここで遊んだな」
「ああ。俺が転んで泣いてたら、箒がいつも手を引いてくれたよな」
「そうだったか?」
「そうだよ。俺、覚えてる」
箒は、少しだけ照れたように視線を逸らした。と、そこへ——
「あらあら、これはこれは」
柔らかな声が、二人の背後から聞こえた。振り返ると、四十代後半くらいの女性が立っていた。和服姿で、髪を上品にまとめている。その顔には、優しい笑みが浮かんでいる。
「雪子おばさん」
箒が、そう呼びかけた。篠ノ之神社の管理人であり、箒の叔母である篠ノ之雪子。一夏も、頭を下げた。
「お久しぶりです」
「久しぶりねぇ」
雪子は、そう言って笑顔で二人を迎えた。その目は、どこか感慨深げだ。
「二人とも、大きくなって。一夏くんもすっかりいい男になったじゃない」
「あ、いえ、そんな」
「ふふ。照れなくていいのよ。箒も、綺麗になったわね」
「おばさん、やめてください」
箒は、少しだけ顔を赤らめた。雪子は、そんな箒を見て嬉しそうに笑った。そして、ふと思い出したように手を打った。
「そうそう。箒、六時から神楽舞があるから先に風呂に入ってきなさい。体を清めてからでないと」
「分かりました」
「一夏くんは、どうする?」
「俺は、神楽舞が始まるまで祭りを周ってくるよ。せっかくの祭りだし」
「そう。じゃあ、また後でね」
雪子は、そう言って手を振った。一夏は箒の方を向いた。
「じゃあ、また後でな箒」
「ああ。また後で」
「神楽舞、楽しみにしてる」
「……ああ」
箒は、少しだけ照れくさそうに頷いた。一夏は、そんな箒を見て笑みを浮かべ境内の外へと歩き出した。箒は、その背中をしばらく見送っていた。そして、雪子に促されるまま神社の奥へと進んでいった。
風呂は、神社の裏手にある小さな建物だった。箒は、ゆっくりと湯に浸かりながら体を清めていく。お湯の温かさが、疲れた体に沁み渡る。この風呂は、幼い頃から何度も入ったものだ。その度に、雪子が「体を清めなさい」と言っていたことを思い出す。神楽舞の前には、必ず体を清める。それは神に舞を奉納する者としての、最低限の作法だった。
風呂を上がると、箒は丁寧に体を拭き用意された衣装へと袖を通していった。純白の衣に、同じく純白の袴。そして金の飾り。髪には、金の簪が差し込まれる。最後に、唇に口紅を施す。鏡の中の自分は、どこか別人のようだった。いや、これは自分なのだ。神に仕える者としての、もう一人の自分。
「箒」
雪子が、そっと戸を開けた。その手には、刀と扇が握られている。
「これを持って」
「はい」
箒は、それを受け取った。刀は、重みがある。だがその重みは心地よい。扇は、軽い。だがその軽さが、舞の動きを助ける。
「練習がてら、舞ってみて」
「分かりました」
箒は、そう言って庭へと出た。夕暮れの空の下、境内の庭は静かに暮れていく。箒は、右手に刀を左手に扇を持った。深く息を吸い、静かに吐く。そして——
舞が、始まった。
一歩、また一歩。静かに、しかし確かに足を運ぶ。刀を振り上げ、扇を開く。その動きは滑らかで、そしてどこか神聖なものを感じさせた。風が、衣を揺らす。袴の裾がふわりと舞う。箒の体は、舞の動きを覚えていた。幼い頃から、何度も繰り返してきた動き。それは、体の奥底に染み込んでいる。
「……上手になったわね」
雪子が、ぽつりと呟いた。その声には感嘆の色が混じっている。
「昔は、もっとぎこちなかったのに。今は、本当に……神に舞を捧げているみたい」
「おばさん、褒めすぎです」
「褒めてないわ。事実を言っただけ」
雪子は、そう言って笑った。箒は少しだけ照れくさそうにしながらも、舞を続けた。夕暮れの空が少しずつ藍色に変わっていく。やがて——
「六時になるわ。そろそろ、舞台へ」
雪子の言葉に箒は舞を止めた。そして、静かに頷いた。
「はい」
舞台は、境内の中央に設えられていた。すでに、多くの参拝者が集まっている。提灯の明かりが、舞台を照らしている。箒は舞台の袖に立った。深く、息を吸う。心臓が少しだけ早くなっている。だが、それは緊張ではない。これから神に舞を捧げる、そのことへの高揚だった。
(一夏も見ている)
ふと、そんなことを思った。客席のどこかに、一夏がいるはずだ。それだけで、なんだか心が軽くなった。箒は、静かに舞台へと歩み出た。拍手が、響く。箒は深く一礼した。そして、顔を上げた。右手に刀、左手に扇。神楽舞が始まる——
―――
神楽舞が終わった。静寂が一瞬訪れ、そして大きな拍手が境内に響き渡る。箒は深く一礼し、ゆっくりと顔を上げた。舞台の袖では雪子が微笑みながら頷いている。箒は刀と扇を大切に抱え、静かに舞台を降りた。すると待っていたのは一夏だった。
「箒、すごかったな」
「一夏……」
「綺麗だった。本当に、神様に捧げる舞って感じでさ。俺、思わず見入っちゃったよ」
「そ、そうか……」
箒は、少しだけ顔を赤らめた。一夏の言葉が、まっすぐに胸に届く。褒め慣れていない箒にとって、その言葉はどこかくすぐったく、しかし嬉しいものだった。
「ありがとう。そう言ってもらえると、舞った甲斐がある」
「ああ。本当に良かった」
一夏がそう言って笑う。その笑顔は、幼い頃と変わらない。箒はなんだか懐かしい気持ちになった。
「箒」
そこへ、雪子が近づいてきた。その手には、畳まれた浴衣が一着。
「折角だから、一夏くんと一緒に祭りに行ってきなさい」
「え……でも、私は片付けが」
「良いから。片付けはこっちでやるわ。ほら、これ着て」
雪子はそう言って、箒に浴衣を押し付けた。箒は少しだけ戸惑った。
「おばさん、私は……」
「良いから良いから。せっかくの祭りなんだから、若い二人で楽しんできなさい。ほら、行った行った」
雪子はそう言って、箒を別室へと連れて行った。一夏はその様子を、少しだけ呆然と見送っていた。そして、少ししてから戻ってきた箒を見て、言葉を失った。淡い藍色の浴衣に、白い花の柄。髪は丁寧にまとめられている。その姿は、さっきまでの神楽舞の衣装とはまた違った美しさがあった。
「……どうだ?」
箒が、少しだけ照れくさそうに尋ねる。
「あ、ああ。すごく似合ってる」
「そうか。なら、良かった」
箒は、そう言って小さく笑った。雪子が、後ろからひょっこりと顔を出す。
「ほら、行ってらっしゃい。楽しんできてね」
「ありがとうございます、おばさん」
「ありがとうございます」
二人は揃って頭を下げ境内を後にする。祭りの賑わいは、神社の外へと続いていた。提灯の明かりが、夜道を照らしている。屋台が並び、人々の笑い声が響く。一夏と箒は、並んでその中を歩いていった。
「久しぶりだな、こうやって祭りを周るの」
「ああ。幼い頃は、よく一緒に来たな」
「そうだな。あの頃は、俺が箒の手を引いてたっけ」
「逆だろう。私が一夏の手を引いていたんだ」
箒が少しだけむっとしたように言う。一夏は思わず笑った。
「そうだったかな」
「そうだ。一夏はいつも、屋台の前で立ち止まってばかりだった」
「懐かしいな」
二人は、顔を見合わせて笑った。そして、屋台を一つ一つ周っていく。金魚すくい、射的、たこ焼き。幼い頃と変わらぬ祭りの風景。だが、隣にいる箒の姿はあの頃とは違っていた。浴衣姿の箒は、どこか大人びていて。その横顔が、妙に眩しく見えた。
「一夏」
「ん?」
箒がふと立ち止まった。その視線の先には——
「あれ? 一夏さん?」
浴衣姿の少女がこちらを見ていた。浴衣姿の蘭だった。紺色の浴衣に、白い帯。髪はいつものように後ろでまとめられている。だが、その姿は普段のラフな服装とは違い、どこか華やいで見えた。
「蘭。どうしたんだ、こんなところで」
「お兄と一緒に来てたんだよ。でも、お兄が屋台を回りたいってうるさくて……あ、そっちの人は?」
蘭が、箒の方を見た。箒は、少しだけ首を傾げた。
「一夏、この子は?」
「ああ。紹介するよ。弾の妹の蘭だ」
「妹?」
箒は、少しだけ驚いたように蘭を見た。そして、丁寧に頭を下げた。
「初めまして。篠ノ之箒です」
「あ、はい。五反田蘭です」
蘭も、ぺこりと頭を下げた。その瞬間——二人の視線が、交差した。
(この人……)
蘭は、心の中で思った。一夏から聞いていた話では、幼馴染で剣道が強くて真面目な人、という印象だった。だが実際に会ってみると、その印象は大きく変わった。聞いていた話と違って、凄く美人だ。浴衣姿があまりにも似合っている。そして、一夏を見るその目がどこか優しくて。蘭は、胸の奥にちくりと痛みを感じた。これは、敗北感だ。そう自覚した瞬間蘭は小さく唇を噛んだ。
(箒さんも、一夏さんのことが……)
箒もまた、蘭を見てそう思っていた。一夏の妹。聞いていた通り、可愛らしい人だ。だがその目は——一夏を見るその目は、ただの友達の妹のそれではなかった。自分と同じ。一夏に、好意を寄せている。箒は複雑な気持ちになった。自分と違って、可愛い。その事実がどこか胸に重くのしかかる。
「折角だから、一緒に周ろうか」
一夏が、そう言った。その言葉に蘭と箒は同時に頷いた。そして、三人で祭りを周ることになった。屋台を回り、話をしながら歩く。だが蘭と箒の間には、どこかぎこちない空気が流れていた。一夏は、そんなことに気づかず楽しそうに屋台を眺めている。
(一夏さんは、こういうところが鈍いんだよな……)
蘭は、心の中でそう思った。だがそれを口に出すことはできなかった。箒もまた、同じことを思っていた。そして、そんな二人の気持ちを知ってか知らずか、一夏はのんきに屋台を回り続けた。
やがて、時間が過ぎていく。気づけば八時が近づいていた。花火が始まる時間だ。と、その時だった。蘭の携帯が鳴った。蘭は、携帯を取り出し画面を見る。そして、少しだけ眉をひそめた。
「ごめんなさい、ちょっと」
蘭は、そう言って少し離れた場所で電話に出た。しばらくして、戻ってきた蘭は少しだけ申し訳なさそうな顔をしていた。
「ごめんなさい、一夏さん。お兄がもう帰るってうるさくて」
「ああ、そうか。じゃあ帰るのか?」
「うん。ごめんなさい、せっかく一緒に周ってたのに」
「気にするな。また今度な」
「はい、それでは。一夏さん、箒さんも今日はありがとうございます」
蘭はそう言って手を振った。そして祭りの人混みの中へと消えていった。一夏はその背中を見送りながらふと箒の方を向いた。
「箒。花火、一緒に見るか?」
「ああ」
「じゃあ、行こうか。昔、千冬姉と束さんとよく行ってた秘密の穴場」
一夏はそう言って歩き出した。箒はその後に続いた。祭りの喧騒から離れ、二人は神社の裏手へと向かう。そこには、高い針葉樹で出来た林が広がっていた。一夏は、その中を迷いなく進んでいく。箒は、その背中を追いながら昔のことを思い出していた。この林の中に、秘密の穴場がある。それは幼い頃に一夏、千冬、束、箒で見つけた場所だ。ある一角が、天窓が開いているように開けていて、そこから空がよく見える。花火を見るには、最高の場所だった。
「着いた」
一夏がそう言って立ち止まった。そこはぽっかりと木々の間が開けた空間だった。空がよく見える。一夏は地面に腰を下ろした。箒もその隣に座る。しばらく二人は無言で空を見上げていた。やがて——
「ドン」
遠くから、花火の音が聞こえてきた。続いて、二発、三発。夜空に大輪の花が咲く。赤、青、金。色とりどりの光が空を彩っていく。
「綺麗だな」
一夏が、ぽつりと呟いた。
「ああ」
箒も、そう答えた。だがその目は、空ではなく隣にいる一夏を見ていた。今日のことを、思い出していた。神楽舞のこと。浴衣のこと。祭りのこと。そして、蘭のこと。色々なことがあった。だが、そのどれもが自分にとって大切な時間だった。箒は、そっと一夏の横顔を見つめた。花火の光に照らされたその顔は、幼い頃と変わらない。だがどこか大人びていて。その横顔が、愛おしい。箒は、そう思った。そして静かに空へと視線を戻した。花火が、次々と夜空に咲いていく。その光が、二人の姿を優しく照らしていた。