「大学時代に助けた少女と、さくらさんの妹」
「大学時代に助けた少女と、さくらさんの妹」
午前十時。
あなたは専務室でパソコンに向かい、今日の業務を進めていた。
「よし、この資料は完成。次は……」
キーボードを打つ手を止め、ふと窓の外を見る。
今日はなぜか、昔のことが頭に浮かんでいた。
「そういえば……高校の同窓会、最近ぜんぜん行ってないな」
高校時代は、同窓会の誘いがあれば結構な頻度で参加していた。
昔の友人たちと近況を話したり、くだらないことで笑い合ったり。
けれど、会社に入ってからは仕事に追われ、気づけば一度も参加していなかった。
「みんな、今頃どうしてるんだろうな……」
そして、もうひとつ。
「大学生のときに助けた女の子……あの子は元気にしてるかな?」
あなたは、数年前の出来事を思い出した。
大学生だった頃。
帰り道で困っている女の子を見かけた。
どうやら道に迷ってしまったらしく、スマートフォンの充電も切れかけていた。
周囲には知り合いもおらず、不安そうに立ち尽くしていた彼女。
あなたは声をかけ、目的地までの道を調べ、一緒に近くの駅まで歩いた。
「もう大丈夫だよ。気をつけて帰ってね」
そう言うと、少女はぱっと顔を明るくした。
『あ、ありがとうございます! 本当に助かりました!』
その笑顔が、今でもなんとなく記憶に残っている。
「……そういえば、あの子。さくらさんにちょっと似てた気がするんだよな」
あなたは腕を組んだ。
「いやいや、まさかな。似てる人なんていくらでもいるし」
そう結論づけ、仕事に戻ろうとした。
そのとき。
コンコン。
「失礼いたします」
聞き慣れた声がした。
「どうぞ」
ドアを開けて入ってきたのは、教育係のさくらさんだった。
「専務、こちらの書類について確認をお願いできますか?」
「はい、ありがとうございます。今、確認しますね」
あなたが書類を受け取ると、さくらさんはふと、あなたの顔をのぞき込んだ。
「……何か、楽しそうなことを考えていらっしゃいましたか?」
「えっ?」
「先ほどから、少しだけ笑っていらしたので」
(見られてた!?)
「い、いえ! 昔のことを少し思い出していただけです!」
「昔のこと、ですか?」
「はい。高校の同窓会とか、大学時代のこととか……」
その瞬間だった。
さくらさんの表情が、ぴたりと止まった。
「……大学時代?」
「ええ。昔、道に迷っていた女の子を助けたことがありまして」
「……女の子、ですか?」
さくらさんの声が、ほんの少しだけ低くなった。
(あれ? なんか雰囲気が……?)
「はい。困っていたので、駅まで案内したんです。お礼を言ってくれて、いい子だったなあって」
「……そうですか」
さくらさんは微笑んだ。
ただし、その笑顔はいつもより少しだけぎこちなかった。
「その方のお名前は、覚えていらっしゃいますか?」
「いやあ、それが全然。あのときは名前も聞かなかったので」
「……そう、ですか」
さくらさんは書類を胸元に抱えた。
そして、小さくつぶやいた。
「……まさか、あのときのお兄さんが……」
「え? 何か言いました?」
「い、いえ! 何でもありません!」
さくらさんは、珍しく少し慌てていた。
(……何だろう?)
あなたが首をかしげていると、さくらさんは急に背筋を伸ばした。
「そ、それでは、私は仕事に戻りますね。書類の確認、よろしくお願いいたします」
「はい。ありがとうございます」
さくらさんは一礼し、足早に専務室を出ていった。
ドアが閉まる。
あなたはしばらく考え込んだ。
「……今日のさくらさん、なんか変だったな?」
そして、ふと思い出す。
「そういえば、あの子もさくらさんみたいに、丁寧な話し方だったような……」
「……いや、まさかな!」
あなたは頭を振り、仕事に戻った。
もちろん、この時点ではまだ何も知らなかった。
大学時代に助けたあの少女が、さくらさんの妹だったということを。
一方、その頃。さくらさんの休憩室
「……どうしよう」
さくらさんは休憩室の椅子に座り、スマートフォンを握りしめていた。
画面に表示されているのは、妹とのメッセージのやり取り。
さくらさんは、思い切ってメッセージを送った。
『ねえ、ちょっと聞きたいことがあるのだけれど』
数秒後。
妹から返信が来た。
『なあに? お姉ちゃん!』
『大学生の頃に、道に迷っていたあなたを助けてくださった男性のこと、覚えている?』
すると、すぐに返事が来た。
『もちろん覚えてるよ!』
『すっごく優しい人だった! あのとき、駅まで一緒に歩いてくれたんだよ!』
さくらさんは画面を見つめた。
(……やっぱり)
実は、さくらさんは以前、妹からその話を聞いていた。
妹はその男性のことを、とても感謝していた。
困っている人を見捨てず、見返りも求めず、当たり前のように手を差し伸べてくれた人。
その話を聞いたとき、さくらさんは「素敵な方ですね」と答えたことがあった。
まさか、その人が今、自分の隣で働いているあなたと同一人物だったなんて。
(……私、ずっと知らなかったんですね)
さくらさんは、スマートフォンを胸元にそっと抱えた。
そして、少しだけ頬を赤くした。
(あの頃から、困っている方を助けていらしたんですね……)
あなたが社員たちの仕事を手伝ったり、誰かが困っていれば自然と声をかけたりする姿。
それらを、さくらさんは何度も見てきた。
けれど、その優しさは今に始まったことではなかったのだ。
(……やっぱり、好きです)
そこまで考えて、さくらさんは慌てて顔を覆った。
「……だ、駄目です。仕事中です!」
誰もいない休憩室で、小さく自分を戒める。
しかし、スマートフォンが再び震えた。
妹からの追加メッセージだった。
『そうだ! もしあのお兄さんに会えたら、もう一度ちゃんとお礼を言いたいな!』
さくらさんは画面を見つめたまま、固まった。
「…………」
そして。
「……もう、会っていますよ」
誰にも聞こえない声で、ぽつりとつぶやいた。
「しかも……私の、大切な方です」
言った直後、さくらさんは自分の発言に気づいた。
「っ……! い、今のは忘れてください……!」
もちろん、返事をする人は誰もいない。
さくらさんは真っ赤になった顔を両手で覆い、しばらく動けなくなってしまった。
その日の昼休み。庭にて
あなたはいつものように、庭のベンチで昼休みを過ごしていた。
「うーん……」
空を見上げながら、午前中の出来事を振り返る。
「大学時代に助けた子か……元気だといいな」
それから、少し間を置いて。
「……さくらさんに似てたんだよなあ」
「……どなたが、私に似ていらしたのですか?」
「うわあっ!?」
突然、背後から声がした。
振り返ると、そこにはさくらさんが立っていた。
「さ、さくらさん!? いつからそこに!?」
「今です。……少しだけ、お隣に座ってもよろしいでしょうか?」
「も、もちろんです!」
さくらさんは隣に座った。
そして、少しだけあなたの顔を見つめてから、口を開いた。
「……専務。大学時代に助けた女の子のこと、もう少し詳しく聞いてもよろしいですか?」
「え? ああ、いいですよ。といっても、本当に道案内をしただけなんですけどね」
あなたは、当時のことを簡単に話した。
少女が困っていたこと。
駅まで一緒に歩いたこと。
最後に、何度もお礼を言われたこと。
さくらさんは、黙って聞いていた。
そして、あなたが話し終えると、静かに微笑んだ。
「……その方は、きっと今でも感謝していらっしゃると思います」
「そうですかね?」
「はい。私でしたら……きっと、ずっと覚えていると思います」
その言葉に、あなたの心臓が跳ねた。
ドクン。
(……さくらさん、今の言い方は反則では!?)
あなたが慌てて視線をそらすと、さくらさんは小さく笑った。
「ふふっ。専務、どうして顔をそらされたのですか?」
「い、いや! 空が! 空がきれいだなと思いまして!」
「まあ。今日は少し曇っていますけれど?」
「…………」
「ふふっ」
さくらさんは、いつもより少し楽しそうだった。
そして、立ち上がる前に、そっと言った。
「……いつか、その方に再会できるとよいですね」
「そうですね。もし会えたら、元気かどうか聞いてみたいです」
「……はい。きっと、喜ばれると思います」
さくらさんは微笑み、オフィスへ戻っていった。
あなたは、その背中を見送った。
「……何だろう。今日のさくらさん、いつも以上に優しかったような」
そして、胸に手を当てる。
ドクン、ドクン。
「……駄目だ。仕事に戻ろう」
あなたは立ち上がり、オフィスへ向かった。
まだ知らない。
あの少女が、さくらさんの妹であること。
そして、さくらさんがあなたに伝えたいことを、心の中にひとつ増やしてしまったことを。
――次回、「妹からの突然の訪問と、昔のお礼」。
あなたが専務室で仕事をしていると、受付から連絡が入る。
『専務にお会いしたいという女性の方がいらっしゃっています。お名前は……さくらさんの妹さん、とのことです』
「…………え?」
その頃、さくらさんは自分の席で顔を覆っていた。
「……ま、まさか今日、来るなんて聞いていません……!」
そして、妹は受付で、にこにこと笑っていた。
「お姉ちゃんの好きな人って、どんな人なんだろう?」
――この日、あなたの知らないところで、さくらさんの恋心が最大の危機を迎えようとしていた。