LNCrawler

専務の昼休みと、さくらさんの反則級の一言

教育係のさくらには恋心を知られてはいけない。 — www.pixiv.net · All chapters

専務の昼休みと、さくらさんの反則級の一言

午前中の仕事を終えたあなたは、椅子の背もたれに身体を預けた。

「……ふぅ」

専務になって初めての午前中。

最初は不安だった。

部長から突然、専務への昇進を告げられたときは、正直、何かの聞き間違いかと思った。

けれど、いざ仕事を始めてみると。

社員たちからの相談に乗り、各部署の進捗を確認し、困っている社員の仕事を手伝い、部署同士の意見の食い違いを調整する。

今までと、やっていることはそこまで変わらなかった。

ただ、責任が大きくなっただけだ。

「……あれ?」

あなたは自分の手元にある書類を見つめた。

「もしかして、専務の仕事……向いてたのかな?」

自分で言っておきながら、少し驚いた。

今までだって、困っている社員を見つければ声を掛けていた。

誰かが失敗すれば、一緒に原因を考えた。

仕事が遅れている人がいれば、手伝えるところを探した。

そして今日、専務という立場になっても、同じように動いていた。

「……うん。たぶん、役職が変わっても、僕は僕のままでいいんだな」

小さく笑う。

そのとき、隣の席から声がした。

「何か、良いことがあったんですか?」

「うわっ!?」

振り向くと、そこには教育係のさくらさんがいた。

いつものように整った身だしなみ。 柔らかな笑顔。 そして、こちらを優しく見つめる瞳。

「さ、さくらさん!? いつからそこに!?」

「つい先ほどです。何度かお声を掛けようと思ったのですが、真剣に考えていらしたので」

「そ、そうですか……」

(危なかった……!)

(今、僕が専務の仕事に向いているかもって思ってたことまで知られたら、なんだか恥ずかしい……!)

さくらさんは、あなたの机に置かれた書類をちらりと見た。

「午前中のお仕事、拝見していました。各部署の方々も、とても助かっていたようですよ」

「そ、そんな。僕は普通に仕事をしただけです」

「ふふっ。そういうところです」

「……え?」

「いえ、何でもありません」

さくらさんは、少しだけ目を細めた。

(……本当に、こういうところが素敵なんですよね)

もちろん、その本音はあなたには聞こえなかった。

聞こえていたら、午前中の仕事どころではなくなっていただろう。

「それでは、そろそろお昼ですね。専務、お昼はどうされますか?」

「えっ、ああ! 食堂に行こうと思ってます」

「そうですか。では、午後も頑張ってくださいね」

「はい! さくらさんも!」

あなたは元気よく返事をした。

そして、食堂へ向かった。

――このときは、まだ知らなかった。

今日の帰り道、自分が人生最大級の動揺を経験することになるとは。

1.昼食を終えて、いつもの庭へ

食堂で昼食を済ませたあなたは、いつものように会社の庭へ向かった。

お気に入りのベンチに腰掛け、空を見上げる。

「……平和だなぁ」

風が吹き、木々の葉がさらさらと揺れた。

あなたはペットボトルのお茶を一口飲んで、午前中の仕事を振り返った。

「専務になったからって、急に偉そうにする必要はないよな」

「困っている人がいたら手伝う。相談されたら話を聞く。できることは自分でやる」

指を折りながら、ひとつずつ確認する。

「……うん。これなら、なんとかやっていけそうだ」

そして、最後にぽつりと呟いた。

「ただ……さくらさんが隣にいると、仕事とは別の意味で大変なんだよなぁ……」

そう。

問題は、専務の仕事ではなかった。

さくらさんである。

教育係だった頃から、ずっと好きだった。

優しく教えてくれるところ。

仕事で失敗しても、頭ごなしに責めず、一緒に考えてくれるところ。

真剣な顔で仕事に取り組むところ。

そして、ふとした瞬間に見せてくれる、あの柔らかな笑顔。

全部、好きだった。

しかし。

「……専務になっても、恋心だけは昇進させちゃ駄目だ」

何を言っているのか、自分でもよく分からなかった。

「いや、違う。恋心を隠し通すんだ。今まで通り、平穏な会社生活を送るんだ……!」

ぐっと拳を握る。

「よし!」

その直後。

「何を頑張っていらっしゃるんですか?」

「うわぁぁぁっ!?」

あなたはベンチから飛び上がりそうになった。

振り向くと、そこには。

さくらさんが立っていた。

「さ、さくらさん!? どうしてここに!?」

「お昼休みですから。少しお庭で休憩しようと思いまして」

「そ、そうですよね! 庭ですもんね! 誰が来てもおかしくないですよね!」

「……?」

さくらさんは不思議そうに首を傾げた。

「もしかして、私が来ると困りましたか?」

「い、いえ! 全然! むしろ大歓迎です!」

言ってから、あなたは固まった。

(むしろ大歓迎!?)

(何を言ってるんだ僕はぁぁぁ!!)

さくらさんも、ほんの一瞬だけ目を丸くした。

それから、ふわりと微笑んだ。

「……ありがとうございます。私も、あなたとお話しできるのは嬉しいですよ」

ドクン。

「…………」

ドクン、ドクン。

(待って)

(今、何て?)

(嬉しいって? 僕と話すのが?)

「……専務?」

「は、はいっ!」

「お顔が赤いですよ?」

「庭が! 庭が暑いんです!」

「今日は、そこまで暑くないと思いますけれど……」

「日差しが! 日差しが絶妙なんです!」

「ふふっ。変なことをおっしゃいますね」

さくらさんは楽しそうに笑った。

あなたは空を見上げた。

(神様……僕は、専務の仕事には向いているかもしれません)

(でも、さくらさんへの耐性が一切ありません……!)

昼休みの庭には、今日も平和な風が吹いていた。

あなたの心臓以外は。

2.仕事終わり、まさかの二人きり

午後の仕事も、無事に終わった。

あなたは専務としての初日を終え、書類を整理していた。

「よし……これで明日の準備も大丈夫」

パソコンを閉じ、鞄を手に取る。

すると、隣から声がした。

「お疲れさまです」

「お疲れさまです、さくらさん」

さくらさんも帰り支度をしていた。

「今日は初めての専務のお仕事でしたけれど、いかがでしたか?」

「思っていたより、なんとかなりました。皆さんが協力してくれましたから」

「そうですね。皆さん、あなたを頼りにしているんだと思います」

「……そうだと嬉しいですね」

あなたが笑うと、さくらさんも微笑んだ。

二人でエレベーターに乗り、会社のエントランスを抜ける。

外は夕暮れだった。

「……あれ?」

あなたは駅へ向かう途中で気づいた。

今日は、いつも一緒に帰る社員たちがいない。

そして、隣にはさくらさん。

二人きり。

(……え?)

(これって……)

(さくらさんと二人で帰ることになった!?)

心の中で緊急会議が始まった。

議長:あなた。

議題:さくらさんと二人で帰る際の心構え。

結論。

いつも通りに接すること。

「……よし」

「何かお忘れ物ですか?」

「いえ! 何も!」

「そうですか?」

さくらさんは、少し不思議そうだった。

二人で駅まで歩きながら、今日の仕事について話す。

他部署の社員が相談に来たこと。

新しい業務の進め方。

明日の会議の予定。

いつものように、仕事の話をしていた。

やがて、駅前の商店街に差しかかった。

「そういえば、さくらさん」

「はい?」

「今日、色々と教えていただいたお礼に、何かご馳走させてください」

「えっ?」

さくらさんが足を止めた。

「お礼、ですか?」

「はい。今まで教育係としてお世話になりましたし、今日も助けてもらいましたから」

「でも、今日はもう専務なのですから、私がお教えする立場とは少し違うのでは?」

「それでも、僕にとっては大切な先輩ですから」

あなたは、何の気なしにそう答えた。

さくらさんは黙った。

ほんの少しだけ、頬が赤くなった。

「……そうですか」

「はい!」

「……では、お言葉に甘えてもよろしいでしょうか?」

「もちろんです!」

あなたは笑顔で答えた。

(よし! お礼をするだけだ!)

(これは普通のこと! 先輩に感謝を伝えるだけ!)

(決して、デートなどではない!)

……と、あなたは自分に言い聞かせた。

しかし。

その隣で、さくらさんが小さく呟いた。

「……二人でお食事、ですね」

「え?」

「いえ、何でもありません」

その声は、いつもより少しだけ弾んでいた。

3.ご馳走しただけなのに、どうしてこんなことに

二人が入ったのは、駅前にある落ち着いた雰囲気のカフェだった。

あなたはさくらさんにメニューを渡す。

「好きなものを頼んでくださいね」

「ありがとうございます。では……こちらのケーキセットにしようと思います」

「いいですね。僕も同じものにしようかな」

注文を済ませ、二人で向かい合って座る。

さくらさんは、いつもより少しだけ楽しそうだった。

「こうして会社の外でお話しするのは、少し新鮮ですね」

「そうですね。会社では、どうしても仕事の話が多くなりますから」

「はい。ですから……今日は、少し嬉しいです」

「…………」

あなたの思考が止まった。

(嬉しい?)

(僕と二人で食事するのが?)

(いやいやいや! 落ち着け! さくらさんは誰にでも優しいんだ!)

あなたは冷静さを取り戻そうと、水を飲んだ。

そのとき、注文したケーキセットが運ばれてきた。

「わあ……美味しそうですね」

さくらさんは、ケーキを見て嬉しそうに微笑んだ。

その笑顔を見て、あなたも自然と笑った。

「さくらさん、甘いものがお好きなんですね」

「はい。仕事の後に食べる甘いものは、特別に美味しく感じます」

「分かります。疲れたときには、甘いものが一番ですよね」

二人でケーキを食べながら、他愛もない話をした。

仕事の失敗談。

社内で起きたちょっとした出来事。

休日に何をしているか。

さくらさんが最近読んだ本の話。

あなたは、さくらさんが楽しそうに話す姿を見ていた。

(……こういう時間、いいな)

(仕事のことを忘れて、二人でゆっくり話せるなんて)

(……ずっと、こんな時間が続けばいいのに)

その気持ちが、ほんの少しだけ顔に出た。

さくらさんが、あなたを見つめる。

「……どうされましたか?」

「えっ? いえ、何でもないです!」

「そうですか?」

「はい!」

さくらさんは、ふっと微笑んだ。

「……私、今日のことは忘れませんね」

「え?」

「専務になった初日に、こうしてご馳走していただいたことです」

「そ、そんな大げさな!」

「大げさではありませんよ」

さくらさんは、丁寧にカップを置いた。

「とても、嬉しかったです」

ドクン。

また、心臓が鳴った。

あなたは、もう何も考えられなかった。

4.帰り道、さくらさんからの一言

カフェを出ると、空はすっかり夕暮れから夜へと変わっていた。

駅までの道を、二人で並んで歩く。

あなたは、会計を済ませたことに少し満足していた。

(よかった……喜んでもらえたみたいだ)

(これで、今日のお礼はできたな)

そう思っていた、そのとき。

「……あの」

さくらさんが、あなたを呼んだ。

「はい?」

「今日は、本当にありがとうございました」

「いえいえ! 僕の方こそ、いつもありがとうございます!」

「ふふっ。あなたは、いつもそうですね」

「え?」

「自分が誰かに何かをしてあげたときも、最後には必ず、ご自分の方がお礼を言うんです」

「……そうでしょうか?」

「はい。そういうところ、素敵だと思いますよ」

「…………」

あなたの足が止まった。

(素敵?)

(今、素敵って言った?)

(僕に?)

さくらさんは、そんなあなたの様子に気づかないまま、少しだけ顔を上げた。

そして、いたずらっぽく微笑んだ。

「それに……」

「……それに?」

さくらさんは、ほんの少しだけ頬を赤くして。

こう言った。

「今日、二人でお食事をして、帰り道まで一緒に歩いて……」

一拍。

「なんだか、デートみたいでしたね。」

「…………」

世界が止まった。

風の音が消えた。

駅前の人々の声が遠くなった。

あなたの頭の中に、その言葉だけが何度も響いた。

――デートみたいでしたね。

――デートみたいでしたね。

――デートみたいでしたね。

(デート)

(デート!?)

(今、さくらさんが!?)

(僕と!?)

(デートみたいって言ったぁぁぁぁ!?)

顔が、みるみる赤くなっていく。

耳まで真っ赤。

首まで真っ赤。

もはや、夕暮れの街灯よりも赤い。

「……あ、あの……さくら、さん……」

「はい?」

「そ、それは……その……」

言葉が出てこない。

さくらさんは、あなたの顔をじっと見つめた。

そして、くすっと笑った。

「……ふふっ。そんなに照れなくてもいいじゃないですか」

「っ……!」

追撃。

あまりにも強烈な追撃だった。

(駄目だ)

(これは駄目だ)

(専務の仕事には向いていても……)

(さくらさんの一言に耐えられるほど、僕の心臓は鍛えられていない……!)

「…………」

あなたの膝から力が抜けた。

「……あれ?」

さくらさんが首を傾げた。

「専務?」

あなたは、ゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。

「……む、無理……」

「えっ!?」

「……さくらさん……それは……反則……です……」

そして。

ぽてっ。

あなたは、その場で気絶した。

「えええっ!? ちょ、ちょっと、あなた!?」

さくらさんが慌てて駆け寄る。

「大丈夫ですか!? 専務!? 聞こえますか!?」

肩を軽く揺すられ、あなたはかすかに目を開けた。

「……さくら、さん……」

「はい! ここにいますよ!」

「……デート……」

「…………」

さくらさんの動きが止まった。

あなたは、半分意識がないまま呟く。

「……デートって……言いました……?」

「…………っ」

今度は、さくらさんの顔が真っ赤になった。

「そ、それは……! た、例えの話です!」

「……そう、ですか……」

あなたは、少しだけ残念そうに目を閉じた。

「……でも……嬉しかった……です……」

「…………!」

さくらさんの心臓が、ドクン、と大きく鳴った。

(……もう)

(この人は、本当に……)

さくらさんは、顔を赤くしたまま、あなたのそばにしゃがみ込んだ。

「……ずるいですよ」

小さな声だった。

あなたには、聞こえていなかった。

「そんなことを言われたら……私だって、期待してしまうじゃないですか……」

そして、さくらさんはあなたの顔を覗き込んだ。

「……でも」

ほんの少し、微笑む。

「今日のことは、私にとっても……本当に、デートみたいでしたよ」

もちろん。

その言葉を聞いたあなたが、再び目を開けることはなかった。

なぜなら――。

「…………」

「……専務?」

「…………」

「……まさか、また気絶していらっしゃるんですか!?」

二度目の気絶だった。

5.翌朝、専務の机に置かれていたもの

翌朝。

あなたは誰よりも早く出社した。

昨日の出来事を思い出し、机に突っ伏す。

「…………」

(……昨日の僕、何やってるんだ)

(さくらさんにデートみたいって言われて気絶するとか……)

(専務としての威厳はどこへ行った……)

頭を抱えていると、隣の席に人の気配がした。

「おはようございます」

「うわぁっ!?」

さくらさんだった。

「お、おはようございます! さくらさん!」

「ふふっ。今日もお元気ですね」

「そ、そうですね!」

(昨日のこと、覚えてるよな!?)

(絶対覚えてるよな!?)

(いや、忘れてくれていた方がありがたいけど……!)

さくらさんは席に着くと、あなたの机の上に小さな紙袋を置いた。

「……これは?」

「昨日のお礼です」

「えっ!? いやいや、僕がご馳走したのに、お礼なんて!」

「昨日、帰り道でお渡ししようと思ったのですが……あなた、気絶されてしまいましたから」

「…………」

「ですので、改めて」

あなたが紙袋を開けると、中には小さなお菓子が入っていた。

そして、添えられたカードには、丁寧な文字でこう書かれていた。

『昨日は、とても楽しかったです。また、ご一緒できたら嬉しいです。 さくら』

「…………」

あなたの手が震えた。

(また……)

(また、ご一緒できたら……?)

(これって……)

あなたは、ゆっくりと顔を上げた。

さくらさんは、いつもの優しい笑顔でこちらを見ていた。

「……専務?」

「は、はいっ!」

「今日も、お仕事頑張りましょうね」

「……はい!」

あなたは、必死に笑顔を作った。

(落ち着け)

(これは、お礼だ)

(普通のお礼……!)

しかし。

さくらさんが自分の席に座る直前、あなたにだけ聞こえる声で囁いた。

「……次は、私からお誘いしてもいいですか?」

「…………」

ドクン。

あなたの心臓が、また大きく鳴った。

(……次?)

(次って、何!?)

(さくらさんから、お誘い!?)

「…………」

あなたは静かに椅子の背もたれに身体を預けた。

「……今日、午前中の仕事……できるかな……」

「ふふっ。大丈夫ですよ、専務」

さくらさんは、少しだけいたずらっぽくウインクした。

「私が、隣にいますから」

「…………っ!!」

専務、午前9時。

本日の業務開始前に、早くも心臓が限界を迎えた。

そして、さくらさんは誰にも見られないように、そっと自分の胸元に手を当てた。

(……私も、昨日からずっとドキドキしているんですけれどね)

教育係だった頃から、変わらない気持ち。

隣の席で一生懸命に仕事をするあなたを見るたびに、少しずつ大きくなっていく想い。

そして今。

専務になったあなたの隣には、今日もさくらさんがいる。

あなたはまだ知らない。

さくらさんもまた、あなたに恋心を知られてはいけないと思っていることを。

――ただし。

彼女の方は、少しずつ。

その秘密を、あなたに気づいてほしくなっていた。