「新顧客へのご挨拶と、どうしてもデートにしか見えない一日」
「新顧客へのご挨拶と、どうしてもデートにしか見えない一日」
朝、専務室。
あなたはパソコンで新顧客の資料を確認していた。
「よし……今日の挨拶は大切だ。新しい取引先との関係を築ければ、会社にとっても大きな一歩になる」
専務になってから、こうした仕事も増えてきた。
以前なら先輩社員の後ろについていくだけだったが、今は自分が会社の代表として挨拶に行く立場だ。
「失礼いたします」
ドアが開いた。
「おはようございます、専務。本日の訪問について、最終確認に参りました」
入ってきたのは、教育係だったさくらさん。
今日もきちんと整った服装に、優しい笑顔。
……いや、仕事だ。
仕事なのだから、落ち着け。
「おはようございます。資料は確認済みです。あとは時間どおりに出発するだけですね」
「はい。ですが……」
「ですが?」
「本日は私も同行いたします」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。
「先方は今回、専務と初めてお会いになりますから。以前から担当していた私も同席したほうが、話が進みやすいと思いまして」
「あ、なるほど! そういうことですね!」
よかった。
仕事上の同行だ。
決して、二人きりで出かけるわけではない。
そう、自分に言い聞かせた。
「それでは、よろしくお願いします」
「ふふっ。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
さくらさんがにっこり笑った。
――朝から心臓に悪い。
1.並んで歩く二人
午前十時。
新顧客の会社は、駅から少し離れた落ち着いたビジネス街にあった。
駅に到着したあなたとさくらさんは、地図を確認しながら歩いていた。
「目的地までは、あと十分ほどですね」
「そうですね。時間には余裕があります」
「よかったです。専務、少し歩くのは早くありませんか?」
「えっ? あ、すみません!」
慌てて歩調を緩める。
すると、さくらさんは隣でくすっと笑った。
「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。まだ時間はありますから」
「いえ、せっかく同行していただいているのに、気づきませんでした」
「……そういうところ、変わりませんね」
「え?」
「いえ。以前から、周りのことをよく考えてくださるなと思いまして」
さくらさんは前を向いたまま、少しだけ柔らかい声で言った。
「専務になられてからも、皆さんを助けようとなさるでしょう? 私は、そういうところを素敵だと思っています」
「…………」
ドクン。
心臓が大きく跳ねた。
(待て。今、素敵って言わなかったか?)
(いや、仕事の姿勢の話だ。人として褒めてくれただけだ)
(そうだ。そうに決まっている!)
「専務?」
「は、はい!」
「顔が赤いですよ。暑いですか?」
「いえ! 気温のせいです!」
「今日は、それほど暑くないと思いますけれど……」
さくらさんが不思議そうに首を傾げた。
やめてください。
その仕草は反則です。
2.カフェで打ち合わせ……のはずが
目的地に到着するまで、まだ少し時間があった。
「少し早く着きそうですね。近くにカフェがありますから、そこで資料を確認しませんか?」
「はい、お願いします」
二人は駅前の落ち着いたカフェに入った。
窓際の二人席。
あなたはコーヒーを、さくらさんは紅茶を注文した。
テーブルの上には、新顧客に提出する資料。
……資料がなければ、どう見ても休日のデートである。
(落ち着け。ここはカフェだ。仕事の話をする場所だ)
「専務は、今回のご挨拶で何を一番伝えたいとお考えですか?」
「まずは、私たちの会社が何を大切にしているかです。利益だけでなく、取引先の方々と長く信頼関係を築いていきたいと思っています」
さくらさんは真剣に聞いていた。
「素晴らしいと思います」
「ありがとうございます」
「それに、専務は相手のお話を最後まで聞こうとなさいますよね。きっと、今回のお客様にも伝わると思います」
「さくらさんにそう言っていただけると、自信が持てます」
――言ってしまった。
(しまった! 今の、ちょっと本音っぽくなかったか!?)
さくらさんが、ふと顔を上げた。
「……私に褒められると、嬉しいのですか?」
「えっ!?」
「以前から、私が専務を褒めると、少し照れていらっしゃるような気がして」
「そ、それは……!」
頭の中が真っ白になる。
ここで正直に答えたら、どうなる?
いや、だめだ。
恋心を知られてはいけない。
「教育係として、さくらさんにはたくさん教えていただきましたから! 尊敬しているんです!」
「……尊敬、ですか」
さくらさんは一瞬だけ目を伏せた。
そして、にこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。私も、専務のことを誇りに思っていますよ」
ドクンッ!!
(やめてえええええ!!)
あなたはコーヒーを飲み、何とか気持ちを落ち着けた。
しかし、向かいに座るさくらさんは、なぜかいつもより機嫌がよさそうだった。
3.新顧客とのご挨拶
午前十一時。
二人は新顧客の会社を訪問した。
応接室に案内され、担当者と名刺を交換する。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。専務の〇〇と申します。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」
あなたは落ち着いて挨拶をした。
担当者は笑顔で名刺を受け取った。
「こちらこそ、よろしくお願いします。お若いのに専務を務めていらっしゃるとは、頼もしいですね」
「ありがとうございます。ただ、私一人の力ではありません。社員の皆さんや、支えてくださる方々のおかげです」
隣に座るさくらさんが、そっとあなたを見た。
あなたは続けた。
「本日は、ぜひ御社のお考えもお聞かせください。私たちにできることがあれば、一緒に考えていきたいと思っています」
その後の話し合いは順調だった。
担当者が抱えている課題を聞き、会社の強みを活かした提案をする。
さくらさんも必要な情報を補足してくれた。
最後には、次回の具体的な打ち合わせの日程まで決まった。
「いやあ、今日は有意義なお話ができました。ぜひ今後もよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
応接室を出たあと、あなたは小さく息を吐いた。
「……よかった」
すると、さくらさんが微笑んだ。
「お疲れさまでした。とても立派なご挨拶でしたよ」
「ありがとうございます。さくらさんが隣にいてくださったおかげです」
「私は少しお手伝いしただけです。今日のご挨拶は、専務ご自身の力ですよ」
その言葉が、胸にじんわりと広がった。
(ああ……この人が教育係でよかった)
そう思った瞬間。
「……ふふっ」
「どうしました?」
「いえ。専務が今日、とても頑張っていらっしゃったので」
さくらさんは、少しだけ頬を緩めた。
「帰りに、何かご褒美でも買って差し上げたいくらいです」
「ご、ご褒美!?」
「はい。ケーキなど、いかがですか?」
「……ぜひ!」
即答してしまった。
「あっ! いや、仕事が終わったあとの休憩としてです!」
「ふふっ。分かっていますよ」
さくらさんは楽しそうに笑った。
……本当に分かっているのだろうか。
あなたには、まったく自信がなかった。
4.帰り道、デート疑惑が発生する
会社を出ると、昼を少し過ぎていた。
「専務、お昼はもう召し上がりましたか?」
「いえ、まだです」
「よろしければ、駅前でお昼にしませんか? 午後の予定まで、まだ時間がありますから」
「そうですね。ぜひ!」
また即答してしまった。
二人は駅前のレストランに入った。
仕事の話を少ししながら昼食を済ませ、その後は近くの洋菓子店へ向かった。
ショーケースには、色とりどりのケーキが並んでいる。
「わあ……おいしそうですね」
さくらさんが、珍しく子どものように目を輝かせた。
「さくらさん、甘いものがお好きなんですね」
「はい。実は、こういうお店を見ると、つい立ち止まってしまうんです」
「そうだったんですか」
「……意外でしたか?」
「いえ。なんだか、さくらさんにもそういう一面があるんだなと思って」
「どういう意味でしょうか?」
「あっ、すみません! いつも仕事を完璧にこなしていらっしゃるので、こういうお店でも冷静に選ばれるのかなって!」
さくらさんは少し考えたあと、ふっと笑った。
「では、今日は少しだけ仕事を忘れてもいいでしょうか?」
「もちろんです!」
「ありがとうございます。では……こちらの苺のケーキにします」
笑顔でケーキを選ぶさくらさん。
あなたは思った。
(……かわいい)
(いやいやいや! 今は仕事の延長だ!)
二人はケーキを買い、近くのベンチで休憩することにした。
並んで座り、ケーキの箱を開ける。
「専務、こちらをどうぞ」
さくらさんが、フォークを差し出してくれた。
「ありがとうございます」
「今日のお仕事、本当にお疲れさまでした」
「さくらさんも、お疲れさまでした」
穏やかな風が吹いた。
仕事の緊張が解けたせいか、二人の会話も自然と増えていく。
最近の社内の出来事。
美咲さんがまた新しい仕事に挑戦していること。
部長があなたの働きぶりを褒めていたこと。
そして、さくらさんが教育係だった頃の思い出。
「そういえば、専務。初めて私が教育係になった日のこと、覚えていますか?」
「もちろんです。緊張しすぎて、何を話したのかも曖昧なくらいでした」
「ふふっ。私も、最初は少し心配していたんですよ」
「えっ、そうだったんですか?」
「はい。でも、今ではこんなに立派になられて……」
さくらさんは、嬉しそうにあなたを見つめた。
「私も、ずいぶん長く専務のことを見てきたのですね」
「…………」
ドクン。
あなたは思わず、視線を逸らした。
(そんな顔で見ないでください……)
(好きになってしまうじゃないですか……いや、もう好きなんですけど!)
そのときだった。
「あれ?」
聞き覚えのある声がした。
振り向くと、そこには美咲さんが立っていた。
「あっ! 専務! さくらさん!」
「美咲さん? どうしたんですか?」
「買い物の帰りです。……って、え?」
美咲さんの視線が、あなたとさくらさんの間を行き来した。
二人並んでベンチに座っている。
テーブル代わりのベンチにはケーキ。
さくらさんはとても楽しそうで、あなたは顔が赤い。
美咲さんは、ゆっくりと口元を押さえた。
「……お二人って、もしかして」
「違います!!」
あなたは反射的に叫んでしまった。
「ま、まだ何も言っていませんけど……?」
「えっ! あっ! すみません!」
美咲さんの目が、きらりと輝いた。
「へえ……なるほどぉ?」
「な、何がなるほどなんですか!?」
「いえいえ! 何でもありません!」
美咲さんは、さくらさんに向き直った。
「さくらさん、今日はずいぶん楽しそうですね?」
「ええ。専務が今日のお仕事を頑張ってくださったので、ご一緒に休憩しているんです」
「そうなんですねえ……」
美咲さんは、にこにこしながらあなたを見た。
「専務。明日、詳しくお話を聞かせてくださいね?」
「何をですか!?」
「さあ、何でしょう?」
美咲さんは手を振りながら去っていった。
あなたは、しばらくその背中を見送った。
「……誤解されました」
「ふふっ。そうですね」
「さくらさん、笑いごとでは……!」
「でも、私は楽しかったですよ」
「……え?」
さくらさんは、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「今日、専務とご一緒できてよかったです」
ドクンッ!!
また心臓が跳ねた。
「……わ、私もです!」
「本当ですか?」
「はい!」
「それなら、またご一緒してくださいね」
「…………はい」
あなたは、もう何も考えられなかった。
5.帰社後、専務室で一人反省会
夕方。
会社に戻ったあなたは、専務室の椅子に座り、机に突っ伏していた。
「……終わった」
今日の仕事は成功した。
新顧客との関係も順調に始まり、会社への報告も問題なく済ませた。
専務としては満点に近い一日だった。
しかし。
「なんで、あんなにデートみたいになったんだ……!」
カフェ。
二人席。
ケーキ。
ベンチ。
笑顔のさくらさん。
思い出すたびに顔が熱くなる。
「いや、仕事だ。全部、仕事の延長だ。そうだ。そういうことにしておこう……」
コンコン。
「失礼いたします」
「は、はい!」
ドアから顔を出したのは、さくらさんだった。
「本日の報告書、確認いたしました。とても分かりやすくまとめられていますね」
「ありがとうございます!」
「それから……」
さくらさんは、少しだけいたずらっぽく笑った。
「今日は、お付き合いいただきありがとうございました」
「お、お付き合い!?」
「……あっ。同行のお礼、という意味ですよ?」
「あ、ああ! そうですよね!」
あなたは慌てて頷いた。
さくらさんは、そんなあなたを見て、くすっと笑った。
「では、私はこれで失礼いたします。専務も、あまり遅くならないようにしてくださいね」
「はい。さくらさんも、お疲れさまでした」
さくらさんはドアの前で一度立ち止まった。
「……専務」
「はい?」
「今日のような日が、またあるといいですね」
そう言って、優しく微笑む。
「それでは、失礼いたします」
パタン。
ドアが閉まった。
「…………」
あなたは椅子の上で固まっていた。
「……あああああああ!!」
思わず頭を抱えた。
(またあるといいですねって、どういう意味!?)
(仕事のことだ! きっと仕事のこと!)
(……でも、もし、ほんの少しでも違う意味だったら?)
考え始めたら、もう止まらなかった。
その頃、廊下を歩いていたさくらさんは、誰にも見られていないことを確認すると、小さく微笑んでいた。
「……今日は、少しだけ特別な一日でしたね」
そして、胸元にそっと手を当てる。
「次は……もう少し、ゆっくりお話しできたらいいですね」
その頬は、ほんのり赤く染まっていた。
――翌日。
美咲さんが専務室にやってくることを、あなたはまだ知らない。
そして、その質問があなたの心臓をさらに追い詰めることも。
「専務、昨日のさくらさんとのお出かけ……本当は、どう思っていたんですか?」
……恋心を知られる日は、まだ遠い。
けれど、さくらさんとの距離は、少しずつ近づいていた。