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「顔を逸らす教育係と、初めて会社で泣いてしまった僕」

教育係のさくらには恋心を知られてはいけない。 — www.pixiv.net · All chapters

「顔を逸らす教育係と、初めて会社で泣いてしまった僕」

第1話 最近、さくらさんがおかしい

朝、出社したあなたは、いつも通り専務室へ向かっていた。

「おはようございます、さくらさん」

「……お、おはようございます」

さくらさんは挨拶を返してくれた。

けれど。

あなたが顔を上げた瞬間、さくらさんは慌てて視線を逸らした。

「あれ……?」

(今、目が合ったのに……逸らされた?)

最近、ずっとそうだった。

以前なら、あなたが困っていると優しく声をかけてくれた。仕事の相談にも乗ってくれたし、昼休みには庭で一緒に過ごすこともあった。

ところが、あの夢の話があった頃から、さくらさんはどこか様子がおかしい。

あなたを見ると顔を赤くしたり、突然書類を読み始めたり、二人きりになると妙にそわそわしたり。

そして、目が合うとすぐに逸らす。

あなたは知らなかった。

さくらさんが夢の中であなたと事故のような出来事に遭遇し、夢とはいえ、そのことを意識しすぎてしまっているなんて。

さくらさんにとって、あなたは大切な部下であり、かわいい後輩であり……最近は、それだけでは説明できない存在になりつつあった。

しかし、当のあなたはというと。

(……嫌われたのかな)

まったく違う方向へ考え始めていた。

第2話 ネガティブ思考、止まりません

午前十時。

あなたはさくらさんに、昨日の企画書を提出した。

「さくらさん、こちらの企画書ですが、確認をお願いします」

「は、はい。ありがとうございます」

さくらさんは企画書を受け取った。

そして、あなたの顔を見た途端。

「……っ」

さっと顔を逸らした。

「……?」

「す、すみません! 少し確認したいことがありますので!」

そう言って、さくらさんは自分のデスクへ戻ってしまった。

あなたは、その場に立ち尽くした。

(えっ……何?)

(僕、何かした?)

(企画書にミスがあった? いや、まだ確認していないよな……)

(昨日の報告が遅かった? それとも、先週の会議で何か失礼なことを……?)

考えれば考えるほど、思い当たることが増えていく。

(もしかして、僕の仕事ぶりに失望したのかな)

(今まで優しかったのは、教育係だから仕方なく……?)

(本当は、ずっと迷惑だったのかもしれない)

あなたはパソコンの画面に視線を戻した。

いつもなら、すぐに取りかかれる仕事だ。

なのに、文字が頭に入ってこない。

「……はぁ」

思わず、小さなため息が漏れた。

そのとき、隣の席から美咲さんが顔を覗かせた。

「専務? どうかしました?」

「いえ……何でもないですよ」

「そうですか? なんだか、元気がないように見えますけど」

「大丈夫です。ちょっと考え事をしていただけなので」

あなたは笑った。

いつも通りの笑顔を作ったつもりだった。

美咲さんは少し心配そうに見つめたが、仕事に戻っていった。

そして、あなたはまた考えてしまう。

(さくらさんに嫌われたら……僕、どうしたらいいんだろう)

(仕事で困ったとき、誰よりも相談していたのに)

(嬉しいことがあったときも、真っ先に報告したくなる人だったのに)

(……もう、前みたいに話せないのかな)

あなたは、そっと唇を結んだ。

第3話 昼休みの庭で

昼休み。

あなたは食堂で昼食を済ませると、いつもの庭へ向かった。

さくらさんとよく話していた場所。

ベンチに腰を下ろし、空を見上げる。

「……何やってるんだろ、僕」

誰もいない庭で、ぽつりと呟いた。

(仕事はちゃんとやってるつもりだし、誰かに迷惑をかけないように頑張ってきた)

(さくらさんにも、いっぱい助けてもらった)

(だから、嫌われるようなことをしたなら……ちゃんと謝りたい)

けれど、理由がわからない。

謝ろうにも、何を謝ればいいのかさえわからなかった。

(聞けばいいじゃないか)

そう思って、すぐに首を横に振る。

(でも、もし「あなたとはもう関わりたくありません」なんて言われたら……)

想像しただけで、胸が苦しくなった。

あなたは膝の上で、ぎゅっと手を握った。

「……嫌だな」

いつものあなたなら、どんな問題が起きても、まずは解決策を考える。

社員が困っていれば手を貸す。失敗した人がいれば一緒に原因を探す。誰かが落ち込んでいれば、少しでも元気になってもらおうとする。

なのに。

自分のことになると、どうしてこんなにも弱くなってしまうのだろう。

「……僕、何か悪いことしたのかな」

声が少し震えた。

慌てて顔を伏せる。

「……だめだ。午後も仕事があるんだから」

あなたは立ち上がり、いつもの笑顔を作った。

誰にも心配をかけないように。

誰にも気づかれないように。

そのまま専務室へ戻った。

けれど、あなたの心は、もう限界に近づいていた。

第4話 初めて、会社で泣いた

午後三時。

あなたは、ある取引先に提出する資料を作成していた。

いつもなら簡単に確認できる数字を、何度も見直す。

一度確認した箇所を、また確認する。

それでも、頭の中には同じ考えが浮かんでしまう。

(さくらさん、今日も僕の顔を見てくれなかったな……)

(朝も、企画書を渡したときも)

(僕が話しかけると、困ったような顔をする)

(……やっぱり、嫌われたのかな)

あなたは、ぎゅっと目を閉じた。

(違う。仕事に集中しなきゃ)

(僕は専務なんだから)

(みんなが頑張っているのに、僕がこんなことで落ち込んでどうするんだ)

そう思って、キーボードに手を伸ばした。

しかし、指が動かなかった。

頭の中に、これまでのさくらさんとの思い出が浮かんでくる。

初めて仕事を教えてもらった日。

失敗して落ち込んだとき、優しく励ましてくれたこと。

残業していたあなたを心配して、帰るように言ってくれたこと。

庭で一緒に昼食を食べたこと。

あなたが疲れていると、さりげなく気づいてくれたこと。

そして、いつも優しく笑いかけてくれたこと。

(……あの頃に戻りたいな)

その瞬間。

ぽたり。

机の上に、小さな雫が落ちた。

あなたは、はっとした。

「……え?」

慌てて目元に手を当てる。

涙だった。

「……うそ」

もう一度、拭う。

けれど、止まらなかった。

「……なんで」

声が震える。

「なんで、こんな……」

あなたは必死に泣くのをこらえようとした。

会社なのに。

専務室なのに。

みんなが働いているのに。

こんなところで泣くなんて、情けない。

そう思えば思うほど、胸の奥に押し込めていた不安が溢れてきた。

「……っ、僕……」

ついに、あなたは両手で顔を覆った。

「……さくらさんに、嫌われたくなかっただけなのに……」

小さな声だった。

誰にも聞かせるつもりのない、本音だった。

「……何が悪かったのかも、わからないよ……」

いつも社員たちを支えているあなたが。

誰かのためなら、いくらでも頑張れるあなたが。

初めて、会社で泣いてしまった。

そのとき。

コンコン。

専務室のドアがノックされた。

「専務、入ってもよろしいでしょうか?」

聞き慣れた声。

さくらさんだった。

あなたは慌てて顔を上げた。

「……っ、は、はい!」

声が裏返った。

急いで涙を拭い、書類を持ち上げて顔を隠す。

「ど、どうぞ!」

ドアが開いた。

さくらさんは資料を持って入ってきたが、すぐにあなたの様子がおかしいことに気づいた。

「……専務?」

「な、何でしょうか!」

「……どうして、顔を隠していらっしゃるのですか?」

「い、いえ! これは、その……資料の確認を!」

「資料をお顔の前に掲げなくても、確認はできますよ?」

「そ、それは……」

さくらさんが一歩近づいた。

あなたは顔を逸らした。

その仕草を見た瞬間、さくらさんの表情が曇った。

「……専務。こちらを向いていただけますか?」

「……すみません」

「え?」

「すみません……今、ちょっと……」

あなたは声を絞り出した。

「……顔を見られたくないんです」

さくらさんは言葉を失った。

いつもは、どんなに忙しくても笑顔を見せてくれるあなたが。

今日は、彼女から顔を背けている。

その理由がわからず、さくらさんは不安になった。

「……私、何かしてしまいましたか?」

その言葉に、あなたは顔を上げた。

「……え?」

「最近、専務が私と話すとき、どこか元気がないように見えて……」

「……それは」

あなたは、もう一度顔を伏せた。

「……僕のほうこそ、すみません」

「どうして、専務が謝るのですか?」

「だって……」

声が震える。

「僕、さくらさんに嫌われるようなことをしたんじゃないかって……ずっと考えていて」

さくらさんの目が、大きく開いた。

「……え?」

「最近、僕と目が合うと、すぐに顔を逸らすから……」

あなたは、なんとか笑おうとした。

でも、うまく笑えなかった。

「何か失礼なことをしたのかなって。仕事で失敗したのかなって……」

「専務……」

「……嫌われたなら、ちゃんと直したいんです。でも、理由がわからなくて……」

ぽろりと、また涙が落ちた。

「……僕、さくらさんに教えてもらうの、好きだったんです」

さくらさんの呼吸が止まった。

「困ったときも、嬉しいときも……さくらさんに話したくて」

あなたは、濡れた目元を拭った。

「だから……前みたいに話せなくなるのが、すごく……怖くて……」

最後まで言い切れなかった。

さくらさんは、しばらく何も言えなかった。

そして、ようやく気づいた。

自分が夢のことを意識しすぎて、あなたの顔をまともに見られなくなっていたこと。

それが、あなたをこんなにも不安にさせていたこと。

「……専務」

さくらさんは、ゆっくりとあなたの前にしゃがんだ。

「こちらを見てください」

あなたは迷ったあと、少しだけ顔を上げた。

さくらさんは、まっすぐあなたを見つめていた。

逃げずに。

顔を逸らさずに。

「……私は、専務のことを嫌いになってなんかいません」

「……本当、ですか?」

「はい。本当です」

彼女の声は、いつも以上に優しかった。

「むしろ……私のほうが、勝手に意識しすぎてしまっていたんです」

「意識……?」

「……そ、それは……」

さくらさんの頬が、みるみる赤くなった。

けれど今度は、顔を逸らさなかった。

「夢の中の出来事を、少し気にしすぎてしまって……専務のお顔を見ると、どうしても恥ずかしくなってしまっていたんです」

あなたは目を丸くした。

「……夢?」

「はい。あの夢のことです」

さくらさんは恥ずかしそうに視線を揺らしたあと、もう一度あなたを見た。

「でも、それは私の問題です。専務が悪いわけではありません」

「……僕、嫌われていなかったんですか?」

「もちろんです」

さくらさんは、はっきりと言った。

「嫌いになんて、なれるはずがありません」

その言葉に、あなたの目からまた涙がこぼれた。

今度は、悲しいからではなかった。

ずっと胸の中にあった不安が、少しずつほどけていく。

「……よかった……」

あなたは、子どものように小さく呟いた。

「……本当に、よかった……」

さくらさんは、胸がぎゅっと締めつけられた。

あなたがこれほどまでに悩んでいたなんて、思いもしなかったから。

「……ごめんなさい、専務」

「え……?」

「私が、ちゃんと説明していれば……こんなに不安にさせずに済んだのに」

さくらさんは、深く頭を下げた。

「本当に、申し訳ありませんでした」

「そ、そんな! さくらさんが謝ることじゃ……」

「いいえ。私のせいです」

彼女は顔を上げた。

「……これからは、ちゃんとお話しします。恥ずかしくても、できるだけ顔を逸らさないようにしますから」

あなたは、少しだけ笑った。

「……ありがとうございます」

「ただし」

「……はい?」

さくらさんは、ふっと優しく微笑んだ。

「今日はもう、お仕事を少しお休みしましょう」

「えっ、でも……」

「でも、ではありません」

いつもの教育係の声だった。

「今は、仕事よりも専務の気持ちのほうが大切です」

「……っ」

あなたは、また顔を赤くした。

(……やっぱり、さくらさんは優しいな)

そう思った瞬間、胸が温かくなった。

第5話 教育係の、特別な約束

しばらくして。

あなたは温かいお茶を飲みながら、落ち着きを取り戻していた。

さくらさんは向かいの椅子に座り、あなたの様子を気にかけている。

「……もう、大丈夫ですか?」

「はい。すみません、仕事中に泣いてしまって……」

「謝らないでください」

さくらさんは、すぐに答えた。

「誰だって、つらいときはあります。いつも頑張っている専務だって、同じです」

「……でも、僕は専務なのに」

「専務だからといって、ずっと強くいなければならないわけではありません」

その言葉に、あなたは黙り込んだ。

さくらさんは穏やかに続けた。

「社員の皆さんを支えてくださる専務だからこそ、ご自身のことも大切にしてほしいんです」

「……さくらさん」

「それに……」

さくらさんは、少しだけ照れたように笑った。

「私は、専務が困ったときに頼ってくださるのも、嬉しいんですよ」

ドクン。

あなたの心臓が跳ねた。

(……今、なんて?)

「ですから、何か不安なことがあったら、私に聞いてくださいね。勝手に一人で悩まないでください」

「……はい」

「約束ですよ?」

「……約束します」

あなたがそう答えると、さくらさんは安心したように微笑んだ。

その笑顔を見た瞬間、あなたは思った。

(……やっぱり、僕はこの人が好きだ)

もちろん、口には出せない。

こんなことを言ったら、今度こそどうなってしまうかわからない。

あなたは、そっとお茶を飲んだ。

一方のさくらさんも、心の中では別のことを考えていた。

(……泣いているお顔を見たとき、本当に胸が苦しくなりました)

(私のせいで、こんなに不安にさせてしまうなんて……)

そして、ふと気づく。

(……私、どうしてこんなに専務のことが気になるのでしょう)

答えは、まだ出せなかった。

ただ一つ、確かなことがあった。

もう、あなたを不安にさせるような態度は取りたくない。

そう、心に決めたのだった。

エピローグ 翌朝、いつもの笑顔

翌朝。

あなたが出社すると、さくらさんがすでに廊下に立っていた。

「あ、おはようございます、専務」

「お、おはようございます、さくらさん」

目が合う。

あなたは、思わず身構えた。

また顔を逸らされるのではないか。

そんな不安が、ほんの少しだけ残っていた。

しかし。

さくらさんは、あなたをまっすぐ見つめて微笑んだ。

「今日もよろしくお願いいたします」

「……はい!」

あなたは、ほっとしたように笑った。

その瞬間、さくらさんの頬がほんのり赤くなる。

(……っ、やっぱり、笑顔が素敵です……)

けれど、今度は顔を逸らさなかった。

「……専務?」

「は、はい?」

「今日のお昼、よろしければ一緒に庭で食べませんか?」

「……えっ?」

「昨日は、少しお話しできましたけれど……まだ、ゆっくりお話ししたいこともありますので」

「……も、もちろんです!」

あなたは嬉しくなって、つい勢いよく返事をしてしまった。

さくらさんは、くすっと笑った。

「ふふっ。そんなに喜んでくださるなんて、私も嬉しいです」

(……あああああっ!)

あなたの心臓が、ドクンドクンと鳴り始めた。

(だめだ! 昨日、泣いたばかりなのに!)

(優しくされると、また好きになってしまう……!)

あなたは慌ててパソコンへ向かった。

その背中を見つめながら、さくらさんは小さく呟く。

「……本当に、放っておけない方ですね」

そして、誰にも聞こえない声で。

「……大好きな笑顔を、もう曇らせたくありません」

さくらさんは、そっと微笑んだ。

あなたはその言葉を知らない。

だから今日も、恋心を隠しながら仕事に向かう。

ただ、昨日までとは少しだけ違う。

もう、さくらさんの笑顔が自分に向けられないかもしれないと、怯えなくていいのだから。

――恋心は、まだ秘密。けれど二人の距離は、ほんの少しだけ近づいた。