「デートの練習をするはずが、マッチングした相手が教育係でした」
「デートの練習をするはずが、マッチングした相手が教育係でした」
1.恋愛経験を積もうとした僕
「……まずい」
昼休み。専務室の椅子に座った僕は、パソコンの画面を前に頭を抱えていた。
仕事なら、だいたいのことは何とかなる。
困っている社員がいれば助ける。難しい案件があれば解決策を探す。さくらさんに仕事を教えてもらうときだって、最近は少しずつ落ち着いて話せるようになってきた。
……ただし。
「さくらさんと普通に話すだけで、心臓がもたないんだよなぁ……」
そう。
僕は、教育係のさくらさんに恋をしている。
しかも、本人には絶対に知られたくない。
いつか好きな人ができたときのために、デートくらい自然にできるようになっておきたい。
そう考えた僕は、ついに一つの結論にたどり着いた。
「……マッチングアプリで、デートの練習をしよう!」
いや、待て。
自分で言っておいて何だが、急に難易度が高くないか?
そもそも女性と二人きりで出かけると、さくらさんの顔が頭に浮かんでしまうのでは?
……いやいや、練習だ。
これはあくまで練習。
僕はスマートフォンを取り出し、マッチングアプリを開いた。
プロフィールには、仕事や趣味について無難に書いた。
そして、しばらく相手を探していると――。
『マッチングしました!』
「おっ!」
初めてのマッチングだった。
相手のプロフィールを見る。
名前は「S」。
趣味は読書、甘いもの、カフェ巡り。
好きなものは、落ち着いた場所でゆっくり過ごすこと。
そして、自己紹介の最後にはこう書かれていた。
『仕事を頑張っている方や、周囲の人を大切にできる方とお話ししてみたいです』
「へえ……素敵な人だな」
僕は少し緊張しながら、メッセージを送った。
『はじめまして。マッチングありがとうございます。よかったら、お話ししませんか?』
すると、数分後。
『こちらこそ、ありがとうございます。ぜひ、お話ししましょう』
丁寧で、柔らかい文章。
どこか見覚えのある雰囲気だったが、僕は深く考えなかった。
そして、会話を重ねた結果。
『よかったら、今度カフェでお会いしませんか?』
「……よし!」
早速、デートの約束ができた。
いや、正確には初対面の人とカフェで会う約束だ。
でも僕にとっては大きな一歩だった。
「よし。まずは自然に会話をする。相手の話を聞く。笑顔を忘れない。完璧だ!」
僕はノートに作戦を書き込んだ。
そのページの端には、うっかりこう書いてしまった。
『さくらさんと出かけることになった場合も、この経験を活かす』
「……違う違う違う! 何を書いてるんだ僕は!」
慌ててその文字を塗りつぶす。
危ない。
恋心がノートにまで侵入している。
このままでは、いつか本人に見られてしまう……。
僕は気を取り直して、当日の服装や会話の練習を始めた。
このときの僕は、まだ知らなかった。
マッチングした相手の正体を。
2.待ち合わせ場所にいた人
約束の日。
僕は待ち合わせのカフェに、約束の十五分前に到着した。
「落ち着け。仕事の商談と同じだ。いや、商談より難しいかもしれない……」
店の入口付近で深呼吸する。
今日は練習だ。
相手に失礼のないようにする。
笑顔で挨拶する。
そして、できれば楽しい時間にする。
「……よし!」
約束の時間まで、あと一分。
僕はスマートフォンを確認した。
相手からメッセージが届いている。
『到着しました。入口の近くにいますね』
「えっ、もう?」
僕は顔を上げた。
入口の近く。
そこには、淡い色のブラウスに落ち着いたスカートを合わせた女性が立っていた。
長い髪を整え、スマートフォンを手に持ち、少しだけ緊張した様子で店内を見回している。
その横顔を見た瞬間。
僕の思考が、停止した。
「…………え?」
見間違いだ。
そうに違いない。
だって、そんなことがあるはずがない。
彼女がゆっくりこちらを向く。
そして、僕を見つけると、優しく微笑んだ。
「……あっ。もしかして、待ち合わせのお相手でしょうか?」
その声。
その笑顔。
その、少し首を傾ける仕草。
僕は知っている。
毎日、会社で聞いている。
仕事を教えてくれるときの優しい声。
困っている僕を気遣う声。
ときどき、僕の不意を突いてくる、少しだけいたずらっぽい声。
「さ、さくら……さん?」
「…………えっ?」
彼女の笑顔が止まった。
数秒間。
僕たちは、カフェの入口で見つめ合った。
そして、ほぼ同時に口を開いた。
「ど、どうしてここに!?」
「ど、どうしてあなたが!?」
沈黙。
僕はスマートフォンを確認した。
相手のプロフィール。
名前は「S」。
そして、アプリに登録された写真。
そこには、少し雰囲気を変えたさくらさんの写真が載っていた。
「…………」
「…………」
「……さくらさん?」
「……はい」
「……マッチングアプリ?」
「……はい」
「……僕と?」
「……そのようですね」
僕は両手で顔を覆った。
終わった。
僕のデート練習は、開始一秒で終了した。
しかも相手は、世界で一番恋心を知られたくない人だった。
3.お互いに知られたくなかった理由
「……と、とりあえず座りませんか?」
さくらさんが、少し赤くなった顔で言った。
「は、はい……」
僕たちは窓際の席に座った。
店員さんが注文を聞きに来る。
僕は慌ててメニューを開いた。
「えっと、コーヒーで!」
「私はカフェラテをお願いします」
店員さんが去ったあと、再び沈黙が訪れた。
気まずい。
ものすごく気まずい。
さくらさんがゆっくり口を開いた。
「……まさか、あなたが登録されているとは思いませんでした」
「僕もです……」
「その……どうして、マッチングアプリを始めたのですか?」
来た。
一番聞かれたくない質問だ。
正直に言えば、デートの練習をするため。
でも、練習の目的を聞かれたら?
『好きな人といつか出かけるためです。その好きな人は、あなたです』
……などと言えるわけがない!
「そ、それはですね……!」
僕は必死に考えた。
「人とのコミュニケーション能力を高めようと思いまして!」
「……コミュニケーション能力?」
「はい! 仕事でも、初対面の方と話す機会はありますから!」
我ながら苦しい。
さくらさんは、じっと僕を見つめた。
「……そうですか」
「は、はい!」
「では、今日は練習なのですか?」
「…………」
終わった。
核心を突かれた。
「……あの、さくらさんはどうして?」
僕は逆に尋ねた。
すると、さくらさんはカップの置かれたテーブルを見つめ、少しだけ頬を赤くした。
「……私も、その……」
「はい」
「仕事ばかりで、なかなか新しい出会いがありませんでしたから」
「……そうなんですね」
「それに……」
「それに?」
さくらさんは言いかけて、口を閉じた。
そして、ほんの少しだけ視線を逸らす。
「……いえ。何でもありません」
何だろう。
普段のさくらさんなら、もっとはっきり話すのに。
今日は、どこか様子がおかしい。
まさか。
まさか、さくらさんにも好きな人がいるのだろうか?
そのために、マッチングアプリを始めたのだろうか?
そう考えた瞬間、胸の奥がちくりとした。
(……そっか。さくらさんだって、恋愛をしたいよな)
当たり前のことだ。
さくらさんが誰を好きになっても、僕には何も言う権利はない。
……それでも。
僕は少しだけ寂しくなってしまった。
そんな僕の表情を見て、さくらさんが不思議そうに尋ねる。
「……どうかしましたか?」
「い、いえ! 何でもありません!」
「……本当ですか?」
「本当です!」
「……ふふっ」
さくらさんが、小さく笑った。
「あなたは、分かりやすいですね」
「えっ?」
「いえ、何でもありません」
その笑顔を見て、僕の心臓が跳ねた。
ドクン。
(……だから、その笑顔は反則なんですって……!)
4.まさかのデート練習開始
飲み物が運ばれてきた頃、さくらさんがふと提案した。
「……せっかくですから、今日は予定どおり過ごしませんか?」
「えっ?」
「マッチングアプリで知り合って、お会いする約束をしたのですから。ここで帰ってしまうのも、少しもったいない気がします」
「そ、それは……そうですけど」
「それに、私も初対面の方とお話しする練習になりますから」
さくらさんは、いつもの教育係らしい優しい笑顔を浮かべた。
「……どうでしょう?」
断れるわけがなかった。
「……わ、分かりました!」
こうして、なぜか僕とさくらさんのデート練習が始まった。
いや、待ってほしい。
僕の練習相手がさくらさんという時点で、難易度が最高レベルなのだ。
まずは会話。
「さくらさんは、休日は何をされているんですか?」
「そうですね。カフェで本を読んだり、買い物をしたりしています」
「へえ! どんな本を読むんですか?」
「最近は小説が多いですね。あとは……仕事に役立ちそうな本も」
「さくらさんらしいですね」
「そうでしょうか?」
さくらさんは、くすっと笑った。
「では、あなたは?」
「僕ですか? 僕は……アニメを見たり、音楽を聴いたりします。あと、甘いものを食べに行くこともありますね」
「まあ。甘いものがお好きなのですね」
「はい。意外ですか?」
「いいえ。以前、あなたが社員のみなさんに差し入れをしていたとき、選んでいたお菓子がとてもおいしそうでしたから」
「……覚えていたんですか?」
「もちろんです」
さくらさんは、当たり前のように答えた。
「あなたは、周囲の方の好みをよく覚えていらっしゃいますから。私も、見習わなければと思っています」
「…………」
だめだ。
そんなことを言われたら、嬉しくなってしまう。
しかも、さくらさんが自分のことを覚えていてくれた。
それだけで、今日ここに来た意味があったと思えてしまう。
(……いやいや! 落ち着け! これはデートの練習!)
僕は必死に気持ちを立て直した。
すると、さくらさんが突然、少しだけ身を乗り出した。
「……ところで」
「は、はい?」
「あなたには、好きな方はいらっしゃるのですか?」
「ぶっ!?」
危うくコーヒーを吹き出しかけた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫です!」
「無理をなさらないでくださいね」
さくらさんは心配そうにナプキンを差し出してくれた。
その優しさが、今はつらい。
「そ、それは……」
「はい」
「……ひ、秘密です!」
言ってしまった。
さくらさんの目が、少しだけ見開かれる。
「……秘密、ですか」
「す、すみません!」
「いえ。謝らなくても大丈夫ですよ」
さくらさんは笑顔に戻った。
ただし。
カップを持つ指先が、ほんの少しだけ落ち着かない様子だったことを、僕は見逃していた。
(……好きな人、いるんですね)
さくらさんは心の中で、そんなことを考えていた。
(……もしかして、私の知らない女性なのでしょうか)
そして、胸の奥が少しだけ騒がしくなっていた。
5.教育係の意地悪な質問
カフェを出た僕たちは、近くの公園を歩くことになった。
「今日は、思っていたより楽しかったです」
さくらさんが言った。
「ほ、本当ですか?」
「はい。あなたとゆっくりお話しする機会は、会社ではあまりありませんから」
「……僕も、楽しいです」
本音だった。
緊張はしている。
心臓もずっと忙しい。
でも、さくらさんと並んで歩く時間は、思っていた以上に心地よかった。
そのとき、さくらさんが足を止めた。
「……あの」
「はい?」
「もし、今日のお相手が私ではなかったら……あなたは、どのように過ごすつもりだったのですか?」
「えっ?」
「例えば、相手の方に気に入っていただけるように、いろいろ準備をしていたのでしょうか?」
「そ、それは……」
ノートに書いた会話の練習。
服装の確認。
笑顔の練習。
全部、さくらさんといつか出かけるための予行演習だった。
でも、そんなことを言えるはずがない。
「……まあ、少しは」
「そうですか」
さくらさんは、なぜか少しだけ視線を落とした。
「……では、その方があなたのことを好きになってくださったら、どうするつもりだったのですか?」
「えっ!?」
「お付き合いを考えるのでしょうか?」
「そ、それは相手の方と話し合って……!」
「なるほど」
さくらさんは、にこりと笑った。
「あなたなら、きっと相手の方を大切にされるのでしょうね」
「…………」
その声が、いつもより少しだけ静かだった。
僕は、思わず尋ねてしまった。
「……さくらさんは?」
「えっ?」
「さくらさんは、もし今日のお相手が自分の好きなタイプだったら……どうするつもりだったんですか?」
言った瞬間、しまったと思った。
何を聞いているんだ、僕は!
しかし、さくらさんはすぐには答えなかった。
少し考えたあと、僕の顔を見つめる。
「……そうですね」
そして。
「その方と、もう少し一緒にいたいと思うかもしれません」
「…………っ」
心臓が、大きく跳ねた。
ドクンッ!
(……さくらさんにも、好きなタイプがあるんだ……!)
当たり前だ。
当たり前なのに。
「……そう、ですよね」
僕は笑顔を作った。
「さくらさんなら、きっと素敵な方と出会えますよ」
その言葉を聞いた瞬間。
さくらさんの笑顔が、ぴたりと止まった。
「…………」
「……さくらさん?」
「……あなたは」
「はい?」
「……本当に、そう思っているのですか?」
「えっ?」
さくらさんは何かを言いかけた。
けれど、すぐにいつもの微笑みに戻った。
「……いえ。何でもありません」
そして、少しだけ早足で歩き始めた。
僕は慌てて、その隣を追いかけた。
(……何か、まずいことを言ったかな?)
せっかくの練習なのに。
僕は、さくらさんの気持ちを何一つ分かっていなかった。
6.帰り際の、予想外のお願い
駅に着く頃には、夕方になっていた。
「今日は、ありがとうございました」
僕が頭を下げると、さくらさんも丁寧にお辞儀をした。
「こちらこそ。楽しい時間をありがとうございました」
「いえ、そんな……!」
「……あの」
さくらさんが、スマートフォンを手にした。
「もしよろしければ……また、お会いしませんか?」
「…………え?」
時間が止まった。
また?
さくらさんと?
二人で?
「……だ、だめでしょうか?」
さくらさんが、珍しく不安そうな表情を浮かべた。
「い、いえ! だめじゃないです! 全然だめじゃないです!」
「……ふふっ。よかったです」
さくらさんは、ほっとしたように笑った。
「では、また予定を合わせましょう」
「は、はい!」
僕は嬉しさを隠しながら、何とか返事をした。
そして、別れ際。
さくらさんは少し歩いてから、振り返った。
「……あ、それと」
「はい?」
「今日のことは、会社では内緒にしておきませんか?」
「も、もちろんです!」
「ありがとうございます」
さくらさんは、いたずらっぽく微笑んだ。
「……二人だけの秘密、ですね」
「…………っ!?」
ドクンッ!!
「そ、それは……!」
「ふふっ。では、また明日。お仕事、頑張りましょうね」
そう言って、さくらさんは駅の改札へと向かっていった。
僕は、その場に立ち尽くした。
「…………」
そして、スマートフォンを取り出す。
マッチングアプリの画面には、さくらさんとのメッセージが残っていた。
『今日はありがとうございました。またお会いできるのを楽しみにしています』
「…………」
僕は、その場にしゃがみ込んだ。
「……どうしよう」
デートの練習をするつもりだった。
好きな人ができたときのために、会話の練習をするつもりだった。
なのに。
「……好きな人と、デートの練習をしてしまった……」
しかも、次の約束までしてしまった。
これでは練習どころか、ますます好きになってしまうではないか!
僕は両手で顔を覆った。
「……恋心、絶対に知られてはいけないのに……!」
その頃。
駅の改札を抜けたさくらさんも、スマートフォンを胸元に抱えていた。
「…………」
思い出すのは、今日の僕の笑顔。
一生懸命に会話を続けようとする姿。
自分の言葉に、少しだけ困ったように笑う表情。
そして、別れ際の真っ赤な顔。
「……本当に、ずるい方ですね」
さくらさんは小さく呟いた。
「……あんなに優しくされたら、また会いたくなってしまうではありませんか」
頬が、じんわりと熱くなる。
けれど、彼女はまだ知らない。
僕が今日、デートの練習をしようと思った本当の理由を。
そして僕も、まだ知らない。
さくらさんが今日、マッチングアプリを開いたとき、プロフィールを見て少し迷った末に、僕へ「いいね」を送っていたことを。
実は、さくらさんも最初は気づいていなかったのだ。
プロフィールの写真と、いつもの仕事中の姿が少し違っていたから。
けれど、メッセージの文章を読んでいるうちに、どこか見覚えのある優しさを感じた。
そして、会ってみたいと思った。
――もう少し、この人のことを知りたい。
その気持ちが、彼女をカフェへ向かわせたのだった。
後日談・翌朝の専務室
翌朝。
僕は専務室で、パソコンの画面を見つめていた。
「……仕事だ。仕事に集中しよう」
昨日のことは忘れる。
さくらさんとの秘密の約束も、カフェでの会話も、帰り際の笑顔も。
全部、心の奥にしまっておく。
そう決意した、その瞬間。
コンコン。
「失礼します」
「は、はいっ!」
ドアを開けて入ってきたのは、さくらさんだった。
「おはようございます。昨日は、ありがとうございました」
「~~~~っ!?」
「……あら?」
さくらさんが、僕の顔を覗き込んだ。
「顔が赤いですよ。大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です!」
「本当に?」
「本当です!」
「……ふふっ」
さくらさんは、少しだけ声を落とした。
「……では、次はどこへ行きましょうか?」
「…………え?」
「次のお約束です。忘れてしまいましたか?」
「わ、忘れてません!」
「よかったです」
さくらさんは、満面の笑みを浮かべた。
「……楽しみにしていますね」
バタン。
彼女が部屋を出ていった。
僕は、ゆっくりと椅子の背もたれに倒れ込んだ。
「…………」
そして、天井を見つめる。
「……神様。僕は一体、どうすればいいんでしょうか……」
恋心を隠したい。
でも、さくらさんとまた会いたい。
次の約束が楽しみで仕方がない。
そして何より。
「……さくらさん、可愛すぎる……」
その呟きは、誰にも聞かれなかった。
――そう思っていた。
廊下の向こうでは、書類を抱えた美咲さんが、専務室のドアの前で立ち止まっていた。
「……今、さくらさんの名前が聞こえたような?」
そして、彼女はニヤリと笑った。
「……これは、何かありますね?」
こうして。
僕の知らないところで、新たな恋愛騒動の幕が上がろうとしていたのだった。