「取引先の可愛い担当者と、足を踏んでくる教育係」
「取引先の可愛い担当者と、足を踏んでくる教育係」
1.今日は大事な打ち合わせ
「よし……今日も頑張るか」
朝、専務室で資料を確認しながら、僕は小さく気合いを入れた。
今日は新しい取引先との打ち合わせがある。
会社にとっても大切な商談だ。失敗するわけにはいかない。
コンコン。
「失礼いたします。資料の確認は終わりましたか?」
ドアを開けて入ってきたのは、教育係のさくらさんだった。
「はい。準備はばっちりです!」
「ふふっ。頼もしいですね。それでは、そろそろ出発しましょうか」
優しく微笑むさくらさん。
……うん。
今日も可愛い。
いやいや、違う違う!
僕は慌てて頭を振った。
さくらさんに恋心を知られてはいけない。
これは僕の絶対のルールなのだ。
「……? どうかなさいましたか?」
「い、いえ! 何でもありません!」
「そうですか?」
さくらさんは少し不思議そうに首をかしげた。
その仕草にまたドキッとしたけれど、僕は何とか平静を装った。
しかし。
このあと、僕は別の意味で平静を失うことになる。
2.取引先の担当者が可愛すぎる
取引先の会社に到着した僕たちは、会議室へと案内された。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます!」
そう言って立ち上がったのは、今回の担当者である女性だった。
明るい笑顔。 ふんわりとした雰囲気。 丁寧な言葉遣い。
そして、少し恥ずかしそうに笑う仕草。
(……か、可愛い!)
僕の心臓が跳ねた。
(な、何だこの人! 笑顔が眩しい! こんなに可愛らしい人が取引先にいるなんて聞いてないぞ!?)
「私、今回の案件を担当いたします、花村と申します。よろしくお願いいたします」
「こ、こちらこそ! よろしくお願いします!」
僕は慌てて頭を下げた。
花村さんはにっこりと笑った。
「ありがとうございます。実は、御社のことは以前から存じ上げておりまして……特に、社員の皆様を大切にされているというお話を聞いていました」
「そ、そうなんですか!?」
「はい。素敵な会社だなって思っていたんです」
(す、素敵な会社だなって!?)
(いや待て。今のは会社を褒めてくれたんだ。僕個人じゃない。落ち着け、僕!)
「それに……」
花村さんが少し身を乗り出す。
「今日、お会いできるのを楽しみにしていたんです」
(………………え?)
僕の思考が停止した。
(お、お会いできるのを楽しみに!?)
(これは……これはもしかして……いやいやいや! 仕事だ! 仕事の話だ!)
しかし、花村さんは笑顔のまま続けた。
「以前、御社の方が困っていた私を助けてくださったことがあって。そのときのお話を聞いて、ぜひ一度お会いしたいと思っていたんです」
「そ、そうだったんですね! いやあ、そんな! 僕なんて全然大したことは……!」
(あああああ! 笑顔が可愛い!)
(もう少し話したい! もっとこの人の笑顔を見ていたい!)
僕の顔が、だんだん緩んでいく。
そして、ついに。
「花村さんって、本当に素敵な方ですね! こんな方と一緒にお仕事ができるなんて、僕は――」
その瞬間。
グニッ。
「~~~~っ!?」
足に鋭い衝撃が走った。
(い、痛い!?)
隣を見る。
さくらさんが、にこやかに資料を見つめていた。
ただし。
机の下では、僕の足を踏んでいた。
しかも、笑顔のまま。
「……さ、さくらさん?」
「はい? 何でしょうか、専務」
声はいつもどおり優しい。
だが、足は離れない。
(こ、この人……絶対にわざとだ!!)
「い、いえ……何でもありません……!」
「そうですか。では、打ち合わせを続けましょうね」
ニコッ。
(怖い! 笑顔なのに怖い!)
3.教育係の静かな圧力
打ち合わせは順調に進んでいた。
花村さんは説明が上手で、こちらの質問にも丁寧に答えてくれる。
しかも、時折こちらを見て笑いかけてくる。
「なるほど……その案、とてもいいですね!」
「ありがとうございます! そう言っていただけると嬉しいです」
(うわあああ! 喜んでくれた!)
僕は危うく両手を握りしめそうになった。
(いかん! 僕は専務! ここは真面目に!)
「花村さんのご提案は非常に合理的ですね。ぜひ前向きに検討させてください」
「本当ですか? 嬉しいです!」
花村さんがぱあっと笑顔になる。
(可愛い……)
グニッ。
「~~~~っ!!」
再び足に衝撃。
(さくらさん!?)
さくらさんは何事もなかったかのようにペンを走らせている。
「専務。こちらの条件についても確認しておきましょう」
「は、はいっ!」
(なぜ!? 僕はちゃんと仕事してるよね!?)
「それから、花村様」
さくらさんが、穏やかな笑顔で口を開いた。
「本日は素晴らしいご提案をありがとうございます。今後とも、ぜひ弊社と良好なお取引を続けていただければと思います」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします!」
「ええ。……うちの専務も、たいへん喜んでおりますので」
「えっ?」
僕は思わずさくらさんを見た。
(ちょっと待って!? その言い方、何!?)
さくらさんは僕の方を向く。
「ねえ、専務?」
「は、はいっ!」
「とても嬉しそうでしたものね?」
「そ、それはもちろん! 良いご提案をいただいたので!」
「ふふっ。そうですよね?」
その微笑み。
そして、机の下から伝わってくる圧力。
(さくらさん、絶対に怒ってる……!)
けれど、僕には心当たりがなかった。
いや、あった。
ありすぎた。
(もしかして……花村さんを褒めすぎた!?)
(いや、でも取引先の担当者を褒めるのは普通だよね!?)
(ねえ、そうだと言ってくれ!!)
4.商談成立。そして、さくらさんの笑顔
それから一時間後。
無事に打ち合わせは終了した。
「本日はありがとうございました!」
花村さんが笑顔で頭を下げる。
「こちらこそ、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします」
僕も丁寧にお辞儀をした。
「また次回も、ぜひ専務にお会いしたいです!」
「えっ!? あ、はい! ぜひ!」
(また会いたい!?)
(うわあああ! 仕事! これは仕事の話だ!)
「……専務?」
隣から声がした。
「は、はいっ!?」
「そろそろ失礼いたしましょうか」
「あっ、はい! そうですね!」
僕たちは花村さんに見送られ、会社を後にした。
エレベーターの中。
さくらさんは黙っていた。
笑顔もない。
怒っているのだろうか。
(どうしよう……)
(もしかして、僕が商談中に失礼なことをした?)
(花村さんに失礼な態度を取ったつもりはないけれど……)
「あの、さくらさん?」
「はい」
「何か……怒っていますか?」
「いいえ?」
即答だった。
「まったく怒っておりませんよ?」
にっこり。
(嘘だあああああ!!)
「そ、そうですか……」
「ええ。専務が取引先の女性と楽しそうにお話しされていたことも、私は何とも思っておりませんから」
(完全に怒ってるじゃん!!)
「いや、あれは商談でして!」
「分かっていますよ?」
「ほ、本当ですか!?」
「もちろんです。専務はお仕事をされていただけですから」
さくらさんは前を向いたまま言った。
「……ただ」
「ただ?」
「少しだけ、楽しそうすぎたのではないかと思っただけです」
「…………」
(少しだけ!?)
(あの足踏み、少しだけの力じゃなかったよね!?)
エレベーターの扉が開く。
さくらさんは先に歩き出した。
僕は慌てて後を追った。
5.昼休み、庭での尋問
会社に戻った僕は、昼休みに庭へ逃げ込んだ。
「はあ……」
ベンチに座り、空を見上げる。
「何だったんだ、今日……」
商談は成功した。
花村さんは可愛かった。
そして、さくらさんに足を踏まれた。
最後の一つだけ、どうしても納得がいかない。
(僕、何か悪いことしたかな……)
「専務?」
「うわあっ!?」
突然声をかけられ、僕は飛び上がった。
振り返ると、そこにはさくらさんが立っていた。
「そんなに驚かなくてもよろしいのでは?」
「さ、さくらさん!? どうしてここに!?」
「専務を探していたのです。午後の資料について確認したいことがありまして」
「あ、なるほど……」
さくらさんは隣に座った。
近い。
いつもなら嬉しい距離なのに、今は別の意味で心臓に悪い。
「あの、さくらさん」
「はい?」
「今朝の商談なんですが……」
「はい」
「僕、何か失礼なことをしましたか?」
さくらさんは少し考えたあと、首を横に振った。
「いいえ。商談自体は完璧でした。花村様への対応も、申し分ありません」
「よ、よかった……」
僕が胸をなで下ろすと、さくらさんは小さく息を吐いた。
「ただ……」
(まただ!!)
「専務は、可愛らしい女性がお好きなのですね」
「ぶっ!?」
僕は飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。
「な、ななな何を言ってるんですか!?」
「だって、花村様が笑うたびに、専務のお顔が緩んでいましたから」
「そ、それは……!」
「それに、花村様を褒めるときは、とても嬉しそうでしたね」
「いや、あれは相手を褒めるのも仕事のうちで……!」
「ええ、分かっています」
さくらさんは微笑んだ。
「ですから、足を踏んだのは少し反省しております」
「……少し?」
「はい。少しです」
(反省してるのに、少しなの!?)
僕が困惑していると、さくらさんは視線をそらした。
そして、ほんの小さな声でつぶやいた。
「……私だって、専務に可愛いと思っていただきたいのに」
「…………え?」
今、何か聞こえた。
聞こえてしまった気がする。
「さ、さくらさん? 今、何か……」
「何も申し上げておりませんよ?」
「い、いや、でも……」
「それより、専務」
さくらさんは僕の顔をのぞき込んだ。
「午後のお仕事も、頑張りましょうね?」
いつもの優しい笑顔。
だけど、耳がほんのり赤い。
(……え?)
(今のって、もしかして……?)
僕の心臓がドクンと跳ねた。
いや、待て。
勘違いしてはいけない。
僕はさくらさんに恋心を知られてはいけないのだ。
なのに。
「……さくらさんも、今日、可愛いですよ」
「…………え?」
言ってしまった。
口が勝手に動いた。
(ああああああああああ!!)
さくらさんの目が大きく見開かれる。
「……専務?」
「ち、違うんです! 今のは、その! いつもお世話になっている教育係としての感謝というか!」
「教育係としての感謝で、可愛いと?」
「そ、そうです! たぶん!」
「……たぶん?」
さくらさんは顔を赤くしながら、ふっと笑った。
「ふふっ……変な専務ですね」
その笑顔に、僕はまたしても心臓を撃ち抜かれた。
(ああ……もう駄目だ……)
(僕、この人のことが好きすぎる……!)
「では、専務」
さくらさんが立ち上がる。
「午後のお仕事が終わったら、少しお時間をいただけますか?」
「えっ? は、はい!」
「ありがとうございます。……二人で、お茶でも飲みましょう」
そう言って、さくらさんは歩いていった。
僕はベンチに座ったまま、しばらく動けなかった。
「…………」
(……二人で、お茶?)
(それって……それって……!)
ドクン。
ドクン。
ドクン。
「……仕事だ。これは仕事の延長だ」
自分に言い聞かせる。
「そうだ。絶対にそうだ。期待するな、僕!」
そのとき、庭の入口から美咲さんが顔を出した。
「あれ? 専務、何してるんですか?」
「……何でもないです」
「顔、真っ赤ですよ?」
「何でもないです!!」
美咲さんは僕をじっと見つめたあと、ニヤリと笑った。
「……さては、さくらさんと何かありましたね?」
「な、何もありません!」
「ふーん?」
美咲さんは楽しそうに笑った。
「じゃあ、午後のお茶の時間、私もご一緒しようかな?」
「えっ!?」
「冗談ですよ♪」
美咲さんは手を振って去っていった。
僕は再び頭を抱えた。
「……頼むから、僕の心臓を休ませてくれ……」
その頃。
廊下を歩くさくらさんは、自分の頬にそっと手を当てていた。
「……可愛い、ですか」
思い出すだけで、胸がドキドキする。
「……もう。あんなことを言われたら、午後のお仕事に集中できなくなってしまいます」
そう言いながらも、口元は緩んでいた。
そして、誰もいない廊下で、小さくつぶやいた。
「……花村様に負けたくない、なんて。私も、ずいぶん欲張りになってしまいましたね」
さくらさんは照れくさそうに笑った。
「……でも」
その瞳は、いつもより少しだけ甘かった。
「次は、私のことを一番可愛いと思っていただけるように、頑張りましょうか」
――その日の午後。
僕は仕事中、さくらさんと目が合うたびに顔をそらすことになった。
そして、さくらさんはそんな僕を見て、何度も嬉しそうに微笑んでいた。
もちろん。
帰り際、僕の足をもう一度だけ、こっそり踏んだことは言うまでもない。
「いったあああああ!?」
「ふふっ。失礼いたしました、専務♪」
(絶対にわざとだあああああ!!)
――恋心を隠す道のりは、今日もまだまだ長い。