「突然の昇進と、専務になった僕の隣にいる人」
「突然の昇進と、専務になった僕の隣にいる人」
――朝、オフィスに向かうと、なぜか部長が待っていた。
「おはようございます!」
いつものように挨拶をして、オフィスに入ろうとしたあなた。
しかし。
「おお、来たか。ちょっといいか?」
部長があなたを呼び止めた。
(……え?)
あなたは思わず足を止めた。
(まさか、何かやらかした? いや、昨日の仕事は全部終わらせたし、報告書も提出した。メールの誤送信……いや、あれはもう忘れよう。さくらさんの件も……いやいや、仕事とは関係ない!)
頭の中で、過去の出来事が次々とよみがえる。
部長はそんなあなたの様子を見て、少し笑った。
「そんなに身構えなくてもいい。今日は君に、いい話があってな」
「い、いい話ですか?」
「ああ。君のこれまでの仕事ぶりを、社長や役員たちも高く評価している」
「……はあ」
「そこでだ」
部長は一枚の書類を取り出した。
「君には、これから専務として働いてほしい」
「…………」
「どうだ?」
あなたは数秒、黙った。
(専務?)
(……専務って、あの専務?)
(会社の役員の、専務?)
そして。
「分かりました」
「……え?」
今度は部長が固まった。
「いや、もう少し驚くとか、考える時間が欲しいとか……そういう反応はないのか?」
あなたは不思議そうに首をかしげた。
「いえ。会社が僕を必要としてくださるなら、頑張りたいですから」
そして、いつもの穏やかな笑顔で続けた。
「これからも、他の社員の皆さんのサポートを、今まで以上にしていきます」
「……君は本当に変わらんな」
部長は呆れたように笑った。
「普通、専務に昇進すると聞けば、自分の立場や待遇を気にするものだが」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ……」
「でも、困っている社員の方がいたら、放っておけませんから」
部長はしばらくあなたを見つめたあと、満足そうにうなずいた。
「よし。では、正式な手続きは後ほど進めよう」
「はい。よろしくお願いします!」
あなたは深々と頭を下げた。
こうして、あなたはあっさりと専務への昇進を受け入れた。
ただし。
あなたは、これから自分の身に何が起きるのか、まだ何も分かっていなかった。
第一章 部長が伝え忘れなかったこと
「……ああ、そうだ。もう一つ」
部長が思い出したように声をかけた。
「専務として働くにあたって、君には専属のサポート担当をつけることになっている」
「サポート担当ですか?」
「そうだ。君は自分の仕事だけでなく、他の社員の仕事まで手伝ってしまうだろう?」
「……すみません」
「いや、責めているんじゃない。むしろ、それが君の長所だ。だからこそ、君自身の仕事を管理してくれる人間が必要なんだ」
なるほど、とあなたはうなずいた。
(確かに、気づいたら他の人の仕事まで手伝っていて、自分の仕事が増えていることもあるからな……)
部長は続けた。
「それで、その担当なんだが――」
「はい?」
「さくらさんにお願いすることになった」
「……では、今日から専務室の準備を手伝っていただけるんですね?」
「いや、だから、さくらさんが君の――」
「あ、そろそろ朝礼ですね! 部長、ありがとうございました!」
「おい、ちょっと待て! 最後まで聞きなさい!」
「はい! 今後ともよろしくお願いします!」
あなたは爽やかに一礼すると、オフィスへ向かっていった。
部長はその背中を見送った。
「……聞いていなかったな、あれ」
そして、深いため息をつく。
「まあ、本人同士で知ることになるか……」
第二章 いつもの隣の席
オフィスに入ったあなたは、いつものように自分の席へ向かった。
そこには、すでにさくらさんがいた。
「おはようございます」
「あ、おはようございます。さくらさん」
さくらさんは、いつもどおり優しく微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間。
ドクン。
(……危ない)
あなたは即座に視線をパソコンへ向けた。
(朝からかわいい……じゃなくて! 仕事、仕事!)
さくらさんは、あなたの顔をじっと見つめた。
「……何かありましたか?」
「い、いえ! 何もありません!」
「そうですか?」
「はい!」
「ふふっ。今日も元気ですね」
(その笑顔は反則です……!)
あなたは心の中で頭を抱えた。
すると、さくらさんが書類を机に置いた。
「そういえば、今朝、部長からお話がありましたか?」
「はい。実は、昇進のお話をいただきまして」
「……昇進?」
さくらさんの手が止まった。
「はい。今日から専務として働くことになりました」
「…………え?」
さくらさんの表情が、ぴたりと止まった。
「せ、専務……ですか?」
「はい。僕も驚きました。でも、今までどおり、皆さんのサポートをしていこうと思っています」
「そ、そうなんですね……!」
さくらさんは笑顔を浮かべた。
けれど、その頬がほんのり赤くなっている。
(専務……。ということは……)
さくらさんは、朝の部長との会話を思い出していた。
――『君のサポート担当は、さくらさんにお願いしたい』
――『えっ、私がですか?』
――『ああ。君なら彼の性格も仕事の進め方もよく分かっているだろう』
――『……分かりました。お引き受けします』
あのときは、まさか自分の教育係だった相手が専務になるとは思っていなかった。
そして今。
目の前には、その専務が座っている。
しかも。
本人は、まだ気づいていない。
さくらさんは小さく息を吸った。
「……あの」
「はい?」
「これからも、よろしくお願いしますね。専務」
「えっ?」
あなたは顔を上げた。
「……今、専務って?」
「はい。今日から専務ですから」
さくらさんは、にこっと微笑んだ。
(ああああああああああああっ!!)
あなたの心の中で、緊急警報が鳴り響いた。
(専務!? さくらさんに専務って呼ばれた!?)
(いや、役職だから! 役職だから普通だ!)
(でも、なんか距離が近い! いつも隣にいるのに、急に別の意味で近い!)
ドクン、ドクン、ドクン。
あなたは必死に平静を装った。
「は、はい……こちらこそ、よろしくお願いします」
「ふふっ。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「き、緊張なんてしていません!」
「そうですか?」
さくらさんは少しだけ身を乗り出した。
「では、専務。今日の予定を一緒に確認しましょうか?」
「は、はい!」
(近い! いつもより近く感じる!)
もちろん、実際の距離は変わっていない。
変わったのは、あなたの立場だけだった。
そして、さくらさんの心の中では、別の問題が始まっていた。
(これから毎日、この人のサポートをするんですよね……)
(毎日、隣に座って……)
(お仕事の相談も、予定の確認も、二人で……)
ドクン。
さくらさんも、そっと胸元に手を当てた。
(……落ち着いて、私)
(これはお仕事です。お仕事ですから……!)
しかし、あなたがこちらを向いて、
「さくらさん、いつもありがとうございます」
と笑顔で言った瞬間。
ドクンッ!
(……無理です)
さくらさんは、書類で口元を隠した。
第三章 専務の仕事は、社員のサポート?
午前十時。
あなたは専務室へ移動するよう案内された。
立派な机。大きな窓。専用のパソコン。
そして、机の上には大量の書類。
「……おお」
あなたは感心した。
「すごいですね」
「はい。こちらが専務のお部屋になります」
案内してくれた社員が説明する。
「今後はこちらで役員会議の準備や各部署との調整をお願いします」
「分かりました」
あなたは机の上の書類を確認した。
そして、数分後。
「……あれ?」
「どうされましたか?」
「この資料、営業部の皆さんが困っていた件と同じですね」
「ええ、そうですが……」
「この部分を整理すれば、営業部も経理部も作業が楽になると思います」
あなたはペンを手に取り、あっという間に改善案を書き始めた。
さらに十分後。
「これを各部署に共有していただけますか?」
「は、はい!」
「あと、こちらの会議資料も少し分かりにくいので、見やすくしておきました」
「えっ、もうですか?」
「はい。あ、それから……」
気づけば、あなたは専務室にいながら、他部署の問題まで次々と解決していた。
そこへ、さくらさんがやってきた。
「専務、お茶をお持ちしました……って」
彼女は机の上を見た。
「……これは?」
「営業部の資料です。少し改善案を考えてみました」
「専務のお仕事は?」
「え?」
「専務ご自身のお仕事です」
「……あ」
あなたは手元の書類を見つめた。
さくらさんは、にっこり微笑んだ。
「では、こちらをお預かりしますね」
「えっ、でも、まだ途中で……」
「大丈夫です。私が各部署にお渡ししておきます」
「さくらさん……!」
「その代わり、専務はご自身のお仕事を進めてくださいね?」
「……はい」
(教育係のさくらさんが、専属サポート担当になった……)
(つまり、これから仕事をサボるどころか、他の人を手伝いすぎても注意されるのか……!)
さくらさんは、あなたの考えを見透かしたように微笑んだ。
「専務?」
「はいっ!」
「無理をなさらないでくださいね」
「……はい」
その優しい声に、あなたは思わず顔を上げた。
さくらさんは、少しだけ目を細めていた。
「私は、専務が頑張っていらっしゃることを知っていますから」
ドクン。
「……ありがとうございます」
「ふふっ。どういたしまして」
(……好きだ)
あなたは心の中で、思わずつぶやいた。
(やっぱり、さくらさんが好きだ)
(でも、専務になったからって、恋心まで知られるわけにはいかない!)
ところが。
「……専務?」
「は、はい!?」
「今、何かおっしゃいましたか?」
「い、いえ! 何も!」
さくらさんは少し首をかしげた。
「そうですか?」
そして、いたずらっぽく微笑む。
「では、これからも隣でしっかりサポートさせていただきますね」
ドクンッ!!
(隣で!? これからも!?)
あなたは、ついにパソコンの画面へ顔を向けた。
「……よろしくお願いします」
声が少し裏返っていた。
さくらさんは、それに気づいていた。
けれど、何も言わなかった。
ただ、嬉しそうに微笑んでいた。
第四章 部長の予想どおり
昼休み。
あなたはいつもの庭へ逃げていた。
ベンチに座り、空を見上げる。
「……まさか、専務になるとは」
そして、頭を抱えた。
「しかも、サポート担当がさくらさんって……!」
朝の部長の言葉を、ようやく思い出す。
――『専務のサポートは、さくらさんで』
「…………」
数秒後。
「聞き逃したああああああああっ!!」
庭に、あなたの叫び声が響いた。
近くを通りかかった社員が、びくっと肩を震わせた。
「ど、どうしたんですか!?」
「いえ! 何でもありません!」
あなたは即座に姿勢を正した。
(落ち着け……。さくらさんは仕事のサポートをしてくれるだけだ)
(今までだって隣の席だったじゃないか)
(何も変わらない。何も変わらない……)
そう自分に言い聞かせていると。
「専務?」
背後から、聞き慣れた声がした。
あなたはゆっくり振り返った。
そこには、さくらさんが立っていた。
「……さくらさん?」
「はい。お昼休みなので、お迎えに来ました」
「お、お迎え……?」
「午後の予定がありますから。一緒に戻りましょう?」
さくらさんは手を差し出すのではなく、あなたの隣にそっと腰を下ろした。
そして、少しだけいたずらっぽく笑った。
「それとも……もう少し、二人でお話ししますか?」
「…………」
ドクン。
ドクン、ドクン。
(あ、終わった)
(僕の平穏な会社生活、終わった……!)
しかし、さくらさんは穏やかな表情で続けた。
「……実は、私も少し嬉しいんです」
「え?」
「これからも、あなたのお仕事を近くでサポートできるので」
さくらさんは視線を落とし、少し照れたように微笑んだ。
「あなたが誰かを助けているところを見るの、私、好きなんです」
ドクンッ!!
あなたの心臓が大きく跳ねた。
(……好き?)
(今、好きって言った!?)
もちろん、さくらさんが言ったのは、あなたの仕事ぶりが好きという意味だった。
……少なくとも、言葉の上では。
けれど、さくらさん自身も、自分の言葉に少しだけ頬を赤くしていた。
「……さくらさん」
「はい?」
「これからも、よろしくお願いします」
あなたは精いっぱいの笑顔を浮かべた。
さくらさんも笑った。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いしますね。専務」
その瞬間。
二人の胸が、ほぼ同時にドクンと鳴った。
そして二人とも、何事もなかったように立ち上がった。
「では、戻りましょうか」
「は、はい!」
二人は並んでオフィスへ戻っていった。
その様子を、少し離れた窓から見ていた部長は、満足そうにうなずいた。
「……よし。人事は成功だな」
隣にいた社員が尋ねる。
「部長、何が成功なんですか?」
「いや、何でもない」
部長は笑いながら、ぽつりとつぶやいた。
「ただ一つ問題があるとすれば……」
「はい?」
「あの二人、いつになったら自分たちの気持ちに正直になるんだろうな」
その頃、オフィスでは。
「専務、この書類をお願いします」
「はい!」
「それから、こちらの予定も確認してくださいね」
「分かりました!」
「あと……」
さくらさんは、にっこり微笑んだ。
「今日の帰り、一緒に帰りませんか?」
「…………えっ?」
あなたの手から、ペンが落ちた。
カラン。
さくらさんは、首をかしげる。
「……専務?」
「い、一緒に……帰る?」
「はい。仕事の引き継ぎについて、少しお話ししたいので」
「そ、そうですよね! 仕事! 仕事の話ですよね!」
「ふふっ。もちろんです」
さくらさんは笑顔で書類を差し出した。
その頬がほんのり赤いことに、あなたは気づかなかった。
そして、さくらさんも。
あなたが書類を受け取る手を、少しだけ震わせていたことに気づいていた。
専務になっても、恋心は隠さなければならない。
ただし、これからは毎日、隣にいる教育係が――あなたのすべての予定を把握することになったのだった。
――そして、部長はまだ知らない。
二人の帰り道が、今日もまた、とんでもないドキドキの連続になることを。