「みんなに仕事を振り分けた専務と、隣で眠る教育係」
「みんなに仕事を振り分けた専務と、隣で眠る教育係」
朝、出社した僕は、専務室のドアを開けるなり、机の上に積まれた書類を見て固まった。
「……えっ?」
昨日まで片付けたはずの書類が、なぜか増えている。
新規企画の確認、取引先への連絡、各部署からの報告書、そして今日中に終わらせなければならない資料。
「……これは、ひとりでやる量じゃないな」
僕は椅子に座り、パソコンを立ち上げた。
いつもなら、自分で片付けてしまうところだ。
けれど、ふと思い出した。
以前、無理をして仕事を抱え込み、体調を崩したときのこと。
あのとき、さくらさんにどれだけ心配をかけたことか。
『あなたは、もっと周りを頼ってください』
あの優しい声が、頭の中でよみがえる。
「……よし。今日は、みんなに頼ろう」
僕は社員全員の仕事量を確認することにした。
ただ仕事を押しつけるのではない。
それぞれの得意分野、現在の進捗、期限、負担の大きさ。
すべてを確認してから、無理のないように振り分ける。
もちろん、急ぎの仕事ばかりを特定の人に集中させることもしない。
「よし、これならいける」
僕は内線を取り、各部署の責任者に連絡した。
そして、朝礼の時間。
社員たちが集まると、僕は前に立った。
「みなさん、おはようございます。今日は少し仕事の振り分けを変更します」
社員たちは顔を見合わせた。
「専務が自分で全部やるんじゃないんですか?」
若手社員が尋ねる。
「いや、僕ひとりで全部やるより、みんなの得意分野を生かしたほうが、会社全体として効率がいいと思ったんです」
僕は用意していた資料を配った。
「この仕事は営業部のみなさんに。こちらは企画部のみなさんにお願いします。もちろん、現在の業務量を確認したうえで割り振っています。もし難しい場合は、遠慮なく相談してください」
「専務……」
美咲さんが資料を見ながら、少し驚いたようにつぶやいた。
「何か問題でも?」
「いえ……。専務って、こういうとき、本当にみんなのことを見ているんですね」
「えっ? いや、普通のことですよ」
「普通じゃないと思いますよ」
美咲さんは微笑んだ。
その隣で、さくらさんも静かにうなずいていた。
「そうですね。とてもよい判断だと思います」
「さくらさんまで……」
「ふふっ。以前のあなたなら、きっと全部ご自分で抱え込んでいましたから」
「うっ……」
図星だった。
「今回は、ちゃんと成長なさったんですね」
さくらさんは、いつもの敬語でそう言った。
その笑顔を見た瞬間。
ドクンッ。
(……やめて。そんな優しい笑顔を向けられたら、好きな気持ちが顔に出る……!)
僕は慌てて資料に目を落とした。
「そ、それでは、みなさん。よろしくお願いします!」
「「「はい!」」」
朝礼が終わると、社員たちはそれぞれの部署へ戻っていった。
そして、驚くべきことが起こった。
午前中のうちに、次々と仕事が進み始めたのだ。
営業部からは取引先への連絡が完了したという報告。
企画部からは新しい案の提出。
総務部からは、滞っていた書類の整理が終わったという連絡。
「専務! こちら、確認をお願いします!」
「ありがとうございます。確認しますね」
「専務、こっちも終わりました!」
「えっ、もうですか!?」
僕は思わず目を丸くした。
それぞれが自分の仕事に集中できるようになったことで、普段以上に効率よく進んでいる。
しかも、社員たちの表情が明るい。
「なんだか、今日は仕事がしやすいですね」
「ですよね! 困ったら相談していいって言ってもらえたのも、ありがたいです」
そんな声が聞こえてきた。
僕は思わず笑った。
「……よかった」
その様子を、少し離れた場所からさくらさんが見ていた。
彼女は小さく微笑むと、美咲さんにそっと話しかけた。
「美咲さん。今日の専務、少し違うと思いませんか?」
「はい。前よりも、周りを頼るのが上手になりましたね」
「ええ。……でも」
「でも?」
「ご自分の仕事まで、全部終わらせようとなさっている気がします」
二人の視線の先では、僕が大量の資料を確認していた。
「……あ」
美咲さんが気づいた。
「専務、さっきから休憩していませんね」
「やっぱり……」
さくらさんは、静かにため息をついた。
「あとで、少し休んでいただきましょう」
その声には、教育係としての優しさがこもっていた。
そして昼休み。
僕は食堂で昼食を済ませ、専務室へ戻ってきた。
「ふぅ……。午前中だけで、ここまで進むとは思わなかったな」
机の上を見ると、朝に比べて書類がずいぶん減っている。
社員たちのおかげだ。
「みんな、頑張ってくれているんだな……」
僕は嬉しくなりながら、残りの書類を整理した。
けれど。
「……あれ?」
目が、少し重い。
朝から集中していたせいか、急に眠気が襲ってきた。
「五分だけ……。五分だけ目を閉じよう」
僕は椅子の背もたれに体を預けた。
腕時計を確認する。
午後十二時四十分。
午後の仕事が始まるまで、まだ少し時間がある。
「アラーム……設定して……」
スマートフォンを操作しようとした。
しかし、その途中で指が止まった。
「……ねむ……」
こくん。
僕の頭が、ゆっくりと前に傾いた。
そして、そのまま眠ってしまった。
数分後。
コンコン。
「失礼いたします。専務、午後の打ち合わせについて……」
ドアを開けて入ってきたのは、さくらさんだった。
彼女は手に持っていた書類を見ながら、専務室へ足を踏み入れた。
「専務?」
返事がない。
「……?」
さくらさんが机のほうを見る。
そこには、椅子に座ったまま、すやすやと眠る僕の姿があった。
「……あら」
彼女は思わず足を止めた。
机の上には、整理された書類。
仕事の割り振り表。
各部署から届いた進捗報告。
そして、最後まで確認しようとしていたらしい資料が一冊。
さくらさんは、それらをそっと見渡した。
「……本当に、頑張ったんですね」
いつもの教育係としての声よりも、少し柔らかい声だった。
僕は眠ったまま、小さく寝返りのように姿勢を変えた。
「……みんな……無理、しないで……」
寝言だった。
さくらさんは、目を丸くした。
「……え?」
僕は目を覚まさない。
「……ひとりで……抱え込まないで……」
その言葉を聞いて、さくらさんはしばらく黙っていた。
やがて、ふっと微笑む。
「それは、あなたご自身にも言えることですよ」
もちろん、返事はない。
「……もう」
さくらさんは困ったように笑った。
そして、近くにあったブランケットを手に取ると、僕の肩にそっと掛けた。
「少しだけですからね。午後の打ち合わせまで、ゆっくりお休みください」
彼女は机の上の資料を整え、僕が起きたときにすぐ確認できるよう、午後の予定を書いた付箋を置いた。
そのとき。
「……さくら、さん……」
眠った僕が、ぽつりとつぶやいた。
「……っ!?」
さくらさんの動きが止まった。
「わ、私ですか……?」
僕は何も知らずに、すやすやと眠っている。
「……いつも……ありがとう……」
「…………」
さくらさんの頬が、ほんのり赤くなった。
(ね、寝言ですよね……? そうですよね……?)
彼女は胸元に手を当て、そっと息を吐いた。
ドキン、ドキン。
(……どうしてでしょう。寝言だとわかっているのに、こんなに嬉しいなんて)
しばらく僕の寝顔を見つめていたさくらさんは、はっと我に返った。
「……いけません。私は教育係なのですから」
そう言い聞かせるように小さくつぶやく。
けれど、口元には優しい笑みが残っていた。
午後一時。
美咲さんが専務室を訪れた。
「さくらさん、専務は……」
声をかけかけて、ぴたりと止まる。
机に突っ伏すように眠る僕。
肩に掛けられたブランケット。
そして、その隣に立つさくらさん。
美咲さんは、にやりと笑った。
「……なるほど?」
「み、美咲さん! 違いますからね!」
「まだ何も言ってませんけど?」
「そ、それは……!」
美咲さんは声を押さえて笑った。
「専務、寝ちゃったんですね。朝から頑張っていましたものね」
「はい。社員のみなさんに仕事を振り分けてくださったあとも、ずっと確認を続けていらっしゃいました」
「じゃあ、起こさないでおきましょうか」
「……そうですね」
二人はそっと専務室を出ようとした。
そのとき、僕が小さくつぶやいた。
「……午後の仕事……間に合うかな……」
美咲さんとさくらさんが、同時に振り返った。
そして。
「「……ふふっ」」
二人は顔を見合わせ、笑ってしまった。
「寝ているときまで仕事の心配をしているんですね」
美咲さんが苦笑する。
さくらさんは、眠っている僕を見つめながら、静かに言った。
「午後の仕事は、私たちが調整します。ですから……今は安心して眠っていてくださいね」
その声は、眠っている僕にも届いているかのように優しかった。
午後一時二十分。
僕は、ゆっくりと目を覚ました。
「……ん?」
見慣れた専務室。
肩に掛かっているブランケット。
机の上には、見覚えのない付箋。
そこには、さくらさんの綺麗な字で、こう書かれていた。
『午後の予定は調整済みです。起きたら、まずはお水を飲んでくださいね。無理は禁物です。――さくら』
「…………」
僕はしばらく、その付箋を見つめていた。
「……さくらさんが、これを?」
胸が、じんわりと温かくなる。
(……優しいなぁ)
そして、すぐに我に返った。
(いやいやいや! 落ち着け、僕! これは教育係としての気遣いだ! そうに決まってる!)
僕は両手で顔を覆った。
「……好きだなぁ……」
ぽろっと本音が漏れた。
その瞬間。
コンコン。
「専務、起きていらっしゃいますか?」
「!?」
ドアの向こうから聞こえたのは、まさかの本人の声。
「は、はい! 起きています!」
「よかったです。では、午後の予定についてお話ししましょう」
「わ、分かりました!」
慌てて姿勢を正す僕。
ドアが開き、さくらさんが入ってくる。
「よくお休みになれましたか?」
「は、はい! おかげさまで!」
「それはよかったです」
さくらさんは微笑んだ。
「ただし、次からは眠くなる前に休憩してくださいね。あなたが倒れてしまったら、社員のみなさんも心配しますから」
「……はい。気をつけます」
「約束ですよ?」
「約束します」
彼女は満足そうにうなずいた。
そして、少しだけ声を柔らかくする。
「……みなさん、今日の仕事の振り分けをとても喜んでいらっしゃいましたよ」
「本当ですか?」
「はい。あなたがみなさんを信頼していることが、伝わったのだと思います」
僕は、照れくさくなって頬をかいた。
「……僕ひとりでは、できませんから」
「ええ。ですから、あなたも周りを頼ってくださいね」
さくらさんは、まっすぐ僕を見つめた。
「私にも、ですよ」
「…………えっ?」
ドクンッ!!
(い、今……私にもって……!?)
「仕事の相談でしたら、いつでもお聞きしますから」
「そ、そうですよね! 仕事の相談! もちろんです!」
僕は慌てて答えた。
さくらさんは、なぜか少しだけ楽しそうに微笑んだ。
「ふふっ。では、これからもよろしくお願いいたしますね、専務」
「は、はい!」
彼女が部屋を出ていく。
僕は再び、椅子に座った。
そして、机の上の付箋をそっと見た。
(……今日も、恋心を知られずに済んだ……よな?)
その頃、廊下では。
美咲さんがさくらさんに小声で尋ねていた。
「さくらさん、専務、起きました?」
「はい。ちゃんと起きていらっしゃいましたよ」
「それで、何か言ってました?」
さくらさんは、ほんの少し頬を赤くした。
「……いいえ。何も」
「本当ですかぁ?」
「ほ、本当です!」
二人の声が、廊下に小さく響いた。
一方、専務室の中。
僕は午後の仕事を始める前に、もう一度だけ付箋を見つめた。
「……よし。午後も頑張ろう」
そして、心の中でそっと付け加えた。
(でも……今日は、みんなに頼ることも忘れないようにしよう)
恋心は、まだ秘密のまま。
だけど、少しずつ。
僕とさくらさんの距離は、確かに近づいているのだった。