「今日一日、優しすぎた二人と、誰にも言えない結婚の妄想」
「今日一日、優しすぎた二人と、誰にも言えない結婚の妄想」
――夜。自宅にて。
あなたはお風呂を済ませ、ソファに座りながら、今日一日の出来事を振り返っていた。
午前中に仕事をすべて終わらせ、午後は庭でのんびり過ごした。
いつもなら、仕事が終わったあとの達成感に浸りながら、好きな音楽でも聴いてゆっくりするところだ。
しかし、今日は違った。
「……うーん」
あなたは腕を組み、天井を見上げた。
あなた(心の声) (今日のさくらさん、なんか優しすぎなかったか……?)
朝、専務室に来たさくらさんは、いつも以上に穏やかな笑顔だった。
「おはようございます。今日も無理はなさらないでくださいね」
仕事を終えたと報告すれば、
「さすがですね。午前中で終わらせてしまうなんて……本当にすごいです」
と、いつもより柔らかな声で褒めてくれた。
午後、庭で休んでいるときも、わざわざ様子を見に来てくれた。
「ちゃんと休憩できていますか?」
「はい。おかげさまで」
「ふふっ。それならよかったです」
その笑顔を思い出した瞬間。
ドクンッ。
「……っ!」
あなたは思わず胸元を押さえた。
(いやいやいや! 思い出しただけだぞ!? なんで今さらドキドキしてるんだ!)
しかも、今日は美咲さんまで妙に優しかった。
仕事の確認に来たときも、いつもなら少し厳しめの指摘をする場面で、
「ここはもう完璧ですね。さすがです」
と、にっこり。
さらには帰り際。
「今日はゆっくり休んでくださいね。また明日!」
いつも以上に明るい笑顔で手を振ってくれたのだ。
(美咲さんまで……。いったい何があったんだ?)
あなたは頭を抱えた。
「……わからん」
本当にわからない。
二人とも機嫌がよかっただけなのか。
それとも、何か自分が気づいていない理由があるのか。
考えても答えは出なかった。
そして。
あなたは、もっと考えてはいけない方向へ思考を進めてしまう。
1.もしも、さくらさんと結婚したら……?
「……いや、待てよ」
あなたは、ふと想像してしまった。
もしも。
もしも、いつか本当にさくらさんと結婚したら。
朝。
「おはようございます。朝ごはん、できていますよ」
エプロン姿のさくらさんが、キッチンから顔を出す。
いつもの落ち着いた声。
けれど、家では会社で見せる表情よりも、ずっと柔らかい。
「今日はお仕事がお休みですよね? もう少しゆっくりされても大丈夫ですよ」
「いや、せっかくだから一緒に朝ごはんを食べようと思って」
「……そうですか」
さくらさんは一瞬だけ目を丸くする。
それから、少し照れたように微笑んだ。
「では、一緒に食べましょうか」
食卓には、温かいスープと焼きたてのパン。
何気ない会話をしながら、二人で朝食を食べる。
休日には一緒に買い物へ出かけたり、庭を散歩したり。
仕事で疲れて帰ってきた日には、
「お疲れさまでした。今日はゆっくり休んでくださいね」
と、優しく迎えてくれる。
そして夜。
隣に座るさくらさんが、ぽつりと言う。
「……あなたと一緒にいると、なんだか安心するんです」
「えっ?」
「いえ。何でもありません」
そう言って顔をそらす彼女の頬は、ほんのり赤い。
――なんて。
「…………」
あなたは固まった。
ドクン。
ドクン、ドクン。
「~~~~っ!」
ソファのクッションを抱きしめ、顔を埋める。
(何を想像してるんだ、僕はぁぁぁっ!!)
しかも、想像の中のさくらさんは、普段の敬語のままなのだ。
それが妙にリアルで、余計に恥ずかしい。
(いや、でも……)
あなたはクッションから顔を上げた。
(……もし本当に、あんな毎日だったら)
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、幸せそうだと思ってしまった。
「……ダメだ。これ以上は考えるな」
そう言いながらも、口元が緩んでいることには気づいていなかった。
2.もしも、美咲さんと結婚したら……?
ところが、あなたの妄想はそこで終わらなかった。
今度は、美咲さんの顔が浮かんでしまったのだ。
(いやいやいや! なんで美咲さんまで!?)
しかし、一度考え始めた想像は止まらない。
もしも、美咲さんと結婚したら。
休日の朝。
あなたがまだ眠そうにしていると、美咲さんがカーテンを開ける。
「ほら、起きてください。もう朝ですよ!」
「……あと五分」
「ダメです。せっかくのお休みなんですから、朝ごはんを食べてからゆっくりしましょう?」
そう言いながらも、あなたが本当に疲れていると気づけば、声を少し優しくする。
「……昨日、遅くまで頑張っていましたもんね。あと十分だけですよ?」
「ありがとう……」
「ふふっ。どういたしまして」
そんな何気ないやり取り。
休日に一緒に出かければ、美咲さんは楽しそうにいろいろな店を見て回る。
「こっちのお店も見てみませんか?」
「いいですよ」
「本当ですか? やった!」
嬉しそうに笑う彼女を見て、こちらまで笑顔になってしまう。
そして帰宅後。
「今日は楽しかったですね」
美咲さんはソファに座り、あなたのほうを向いた。
「また、一緒に出かけましょうね」
「……うん」
「約束ですよ?」
そう言って、小指を差し出してくる。
あなたが指を絡めると、美咲さんは満足そうに笑った。
――そんな未来。
「……っ!」
あなたは勢いよく立ち上がった。
「だから何を想像してるんだ、僕は!!」
誰もいない自宅に、あなたの声が響く。
しばらくして、あなたは再びソファに座った。
(……美咲さんと過ごす毎日も、楽しそうではあるんだよな)
思わず、そんなことを考えてしまう。
だが、すぐに首を横に振った。
(違う違う! これはあくまで、もしもの話!)
そう。
ただの妄想だ。
誰にも話すつもりはない。
絶対に。
3.二人とも、今日だけは忘れられない
あなたはテーブルに置いてあった飲み物を手に取った。
一口飲んで、深呼吸する。
「……よし。落ち着いた」
そして、今日の二人の顔を思い出した。
さくらさんの、優しい笑顔。
美咲さんの、明るい笑顔。
どちらも、いつも以上に印象に残っている。
(それにしても、本当に何だったんだろう……)
まさか、二人がそれぞれあなたとの未来を妄想していたなんて、知る由もない。
あなたはただ、二人が優しかった理由を考えているだけだ。
そして、自分が勝手に結婚生活まで想像してしまったことを、誰にも知られないように心にしまい込む。
「……明日、普通に接することができるかな」
少し不安になった。
今日だけで、何度ドキドキしたことか。
明日、さくらさんに微笑まれたら?
美咲さんに声をかけられたら?
また、今日の妄想を思い出してしまうのではないだろうか。
「……頑張ろう」
あなたは両手で頬を軽く叩いた。
「僕は専務。二人は大切な同僚。いつも通り、いつも通り……」
そう繰り返す。
そして最後に、ぽつりとつぶやいた。
「……でも、今日のさくらさん、本当に優しかったな」
ドクンッ。
「……ああ、もう!」
結局、その夜はいつもより少しだけ寝つきが悪かった。
もちろん、結婚の妄想をしたことは誰にも言わないまま。
4.その頃、会社では……
一方、その頃。
さくらさんは自宅で、ソファに座りながら今日のことを思い返していた。
さくら(心の声)
(……今日は、少し優しくしすぎてしまったでしょうか)
思い出すのは、午前中に仕事を終わらせたあなたの姿。
庭でのんびりしていたときの、穏やかな表情。
そして、あなたが笑顔で「ありがとうございます」と言ってくれた瞬間。
「……ふふっ」
思わず笑みがこぼれた。
(もしも……あの人と、ずっと一緒にいられたら)
そこまで考えたところで、さくらさんは両手で頬を押さえた。
「……いけません。何を考えているんでしょう、私は」
しかし、想像してしまった未来は、なかなか頭から離れない。
休日に一緒に出かけること。
朝、隣で「おはようございます」と挨拶すること。
仕事から帰ってきたあなたに、「お疲れさまでした」と伝えること。
どれも、特別なことではない。
けれど。
(……そんな毎日も、素敵ですね)
さくらさんは、そっと微笑んだ。
その直後、スマートフォンが鳴った。
美咲さんからのメッセージだった。
『さくらさん、今日はありがとうございました! ……ところで、今日の専務、なんだか可愛くありませんでした?』
「……っ!?」
さくらさんはスマートフォンを持ったまま固まった。
そして、ゆっくり返信する。
『美咲さん。何のお話でしょうか?』
すぐに返事が来た。
『えー? さくらさんも気づいていたでしょう?』
『……仕事のお話でしたら、明日お聞きしますね』
『あっ、逃げましたね!?』
さくらさんはスマートフォンを伏せた。
「……もう」
けれど、その顔は赤い。
さらに美咲さんから、もう一通。
『ちなみに私、今日ちょっと妄想しちゃいました。もしも専務と結婚したら、って!』
「…………」
さくらさんの思考が停止した。
しばらくして。
『……美咲さん』
『はい?』
『そのお話は、明日、落ち着いて聞かせてくださいね』
送信。
そして、さくらさんはクッションを抱きしめた。
「……明日、どんな顔をしてお会いすればいいのでしょうか……」
5.翌朝、何も知らないあなた
翌朝。
あなたはいつも通り出社し、専務室へ向かっていた。
「よし。今日は平常心だ」
ドアの前で一度深呼吸する。
昨日の妄想は、もう忘れた。
……忘れたことにした。
コンコン。
「失礼します」
ドアを開けると、そこにはさくらさんがいた。
「おはようございます」
いつも通りの、優しい笑顔。
「お、おはようございます!」
あなたは一瞬、昨日の妄想を思い出しかけた。
(いかん! 思い出すな!)
「……? どうかなさいましたか?」
「い、いえ! 何でもありません!」
さくらさんは不思議そうに首をかしげた。
「そうですか? 何かございましたら、遠慮なくおっしゃってくださいね」
「は、はい!」
そこへ、美咲さんも入ってきた。
「おはようございます、専務!」
「おはようございます!」
美咲さんはあなたの顔をじっと見た。
「……?」
「……? どうしました?」
「いえ。今日もお元気そうだなと思いまして!」
「そ、そうですか?」
「はい!」
美咲さんはにっこり笑った。
さくらさんも、あなたを見て微笑んでいる。
二人とも、今日も優しい。
そして、あなたの心臓は。
ドクン、ドクン、ドクン。
(……昨日の続きじゃないかぁぁぁっ!!)
もちろん、そんなことは口に出せない。
あなたは何事もなかったかのようにパソコンを起動した。
「……今日も一日、頑張ります」
「はい。応援していますね」
「私も応援しています!」
左右から聞こえる、二人の優しい声。
あなたは画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
(……結婚の妄想をしたことだけは、絶対に秘密だ)
そう心に誓った。
――しかし。
さくらさんと美咲さんは、あなたに気づかれないように目を合わせていた。
そして二人とも、ほんの少しだけ頬を赤くしていたのだった。
あなたはまだ知らない。
昨日の夜、あなたと同じように二人もまた、あなたとの未来を想像してしまっていたことを。
そして今日もまた、あなたの恋心は、二人の優しさによって大きく揺さぶられることになるのだった。