「取引先の花村さん、恋に落ちる。絶対に知られてはいけない秘密」
「取引先の花村さん、恋に落ちる。絶対に知られてはいけない秘密」
1.再会した取引先の女性
午前10時。
僕は専務室で書類を確認していた。
今日の予定は、以前から取引をしている会社との打ち合わせ。担当者は、花村さんという女性だ。
仕事が丁寧で、笑顔が素敵で、少し恥ずかしがり屋な人。
以前の打ち合わせでは、僕が彼女の会社のトラブルを一緒に解決したことがあった。
そのときは、ただの仕事上の付き合いだったはずなのだが……。
「専務、そろそろお時間です」
「ありがとうございます、さくらさん。では行きましょう」
教育係であり、今では僕の大切な上司でもあるさくらさん。
……そして、僕が絶対に恋心を知られてはいけない相手でもある。
僕はいつものように平静を装い、さくらさんと一緒に取引先へ向かった。
ところが。
「お、お待ちしておりました……!」
会議室の扉が開いた瞬間。
花村さんが、ぱっと顔を明るくした。
「本日はよろしくお願いいたします、専務!」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
僕が笑顔で挨拶すると、花村さんの頬がほんのり赤くなる。
「は、はいっ……!」
……あれ?
以前より、ずいぶん緊張しているような。
その理由を、僕はまだ知らなかった。
花村さんの胸の内では、すでに大変なことが起きていたのである。
(き、来てくださった……! 本当に来てくださった……!)
(今日も素敵……。あのとき、私が困っていたときに助けてくださったこと、ずっと覚えてる……)
(だ、だめ! お仕事! 今日はお仕事なの!)
花村さんは資料を抱きしめるように持ち直した。
(私は取引先の担当者! あの方は大切なお客様! 恋なんて、絶対に気づかれてはいけない!)
……どうやら彼女にも、秘密ができてしまったらしい。
それも、かなり大きな秘密が。
2.花村さん、必死に隠す
打ち合わせは順調に進んだ。
僕が提案内容を説明すると、花村さんは真剣に耳を傾けてくれた。
「なるほど……! その方法なら、弊社の問題も解決できそうです!」
「ええ。花村さんの会社の皆さんが準備してくださった資料のおかげです」
「わ、私の……?」
「はい。特にこの部分、とても分かりやすかったです」
僕が資料を指さすと、花村さんは固まった。
「…………っ!」
(ほ、褒められた……!)
(私の仕事を、ちゃんと見てくださっていたんだ……!)
(うれしい……! うれしいけど、顔に出ちゃう!)
「花村さん?」
「は、はいっ! なんでもありません!」
「大丈夫ですか? 緊張されていますか?」
「そ、そんなことはありません! 私はいたって冷静です!」
そう言いながら、彼女は資料を一枚、逆さまに持っていた。
「……花村さん。その資料、上下が逆ですよ」
「…………えっ?」
沈黙。
花村さんはゆっくりと資料を見下ろした。
「~~~~っ!」
顔が真っ赤になった。
「し、失礼いたしました……!」
「いえいえ。大丈夫ですよ」
僕は笑顔で答えた。
その瞬間、花村さんは心の中で叫んだ。
(優しい……! 間違えても笑わないで、自然に助けてくださる……!)
(好き……! やっぱり好き……!)
(だめだめだめ! 絶対に隠すの! お仕事に集中するの!)
一方、隣に座っていたさくらさんは、花村さんの様子をじっと見ていた。
「…………」
そして、僕のほうへ視線を移す。
「専務」
「はい?」
「花村さん、今日はずいぶん緊張されているようですね」
「そうですね。大切な打ち合わせですからね」
「……そうでしょうか」
さくらさんの目が、ほんの少し細くなった。
僕は気づかなかった。
花村さんが僕に恋をしていることにも。
さくらさんが何かを察し始めていることにも。
そして何より――。
さくらさん自身が、僕と花村さんの距離を気にしていることにも。
3.二人きりの廊下
打ち合わせが終わり、帰り支度をしていたときのこと。
「専務、少しよろしいでしょうか?」
花村さんが、おずおずと声をかけてきた。
「はい。どうしました?」
「先ほどの資料について、ひとつだけ確認したいことがありまして……」
「分かりました。では、こちらで」
僕たちは会議室を出て、廊下の端にある窓際へ移動した。
花村さんは資料を開いたものの、なかなか質問を切り出さない。
「花村さん?」
「あっ、はい! その……」
(どうしよう。二人きりになっちゃった……!)
(近い! さっきより近い!)
(落ち着いて、私! これは仕事! ただの仕事!)
「……実は、資料のことではなくて」
「はい?」
「先日は、本当にありがとうございました」
彼女は、深々と頭を下げた。
「あのとき、専務が助けてくださらなかったら、私、どうしていいか分からなくなっていたと思います」
「いえ。僕は自分にできることをしただけですよ」
「それでも……私にとっては、とても大きなことだったんです」
花村さんは顔を上げた。
その表情は、先ほどまでの慌てた様子とは違っていた。
真剣で、まっすぐで、少しだけ切なそうな笑顔。
「専務は、困っている人を放っておけない方なんですね」
「……そうかもしれませんね」
「ふふっ。やっぱり、素敵な方です」
「えっ?」
「あっ!」
しまった、という顔。
「い、いえ! 今のは、その……仕事ぶりが素敵、という意味です!」
「ありがとうございます?」
僕は首をかしげた。
花村さんは心の中で頭を抱えた。
(何を言っているの、私ぃぃぃ!)
(好きって言いそうになった! 危なかった!)
(でも……本当は、もっとお話ししたいな)
彼女は資料を胸に抱え、そっと微笑んだ。
「また、お会いできるとうれしいです」
「ええ。またよろしくお願いします」
その言葉だけで、花村さんの心臓は跳ね上がった。
(また会える……!)
(次の打ち合わせも、頑張ろう……!)
彼女は決意した。
この気持ちは、まだ隠しておこう。
今はまだ、仕事仲間としてそばにいたいから。
4.帰り道、さくらさんの質問
会社へ戻る車内。
僕は今日の打ち合わせについて報告書をまとめていた。
隣では、さくらさんが窓の外を眺めている。
「専務」
「はい?」
「花村さんとは、以前から親しいのですか?」
「いえ。何度か仕事をご一緒しただけですよ」
「そうですか」
さくらさんは、にっこりと笑った。
「……花村さん、とても嬉しそうでしたね」
「そうでしたか? 打ち合わせがうまくいったからでしょう」
「ふふっ。専務は、そういうところがありますよね」
「どういうところですか?」
「ご自分が誰かに与えている影響に、あまり気づいていらっしゃらないところです」
「……?」
僕はますます分からなくなった。
さくらさんはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、膝の上に置いた手を、そっと握り直した。
(花村さん……専務のことが好きなのかしら)
(もしそうなら……)
そこまで考えて、さくらさんは慌てて首を横に振った。
(い、いけません! 私は教育係です! 専務の仕事を支えるのが役目です!)
(それに、私だって……)
そこから先は、考えないことにした。
自分の胸に秘めた気持ちを、誰にも知られたくなかったから。
もちろん、本人にも。
「さくらさん?」
「は、はい! なんでしょう?」
「顔が赤いですよ。暑いですか?」
「い、いえ! まったく暑くありません!」
「そうですか?」
「そうです!」
さくらさんは窓の外へ顔を向けた。
(……もう。どうしてこの方は、こういうときだけ鋭いのでしょうか)
僕は首をかしげながら、報告書の続きを書いた。
そして、車内には静かな時間が流れた。
ただし。
僕は知らなかった。
今日、取引先の女性が自分に恋をしてしまったことを。
そして、その女性が自分と同じように、恋心を必死に隠そうとしていることを。
5.花村さんの帰宅後
その日の夜。
花村さんは自宅の机に座り、今日の打ち合わせの記録を整理していた。
……はずだった。
「…………」
手が止まる。
思い浮かぶのは、僕の笑顔。
「……専務」
思わず名前を口にしてしまい、彼女は両手で頬を押さえた。
「だ、だめ……! 仕事中はちゃんと隠せたけど……!」
机に突っ伏す。
「好きになっちゃったんだもん……」
小さな声だった。
誰も聞いていない部屋で、ようやく本音を口にする。
「困っていたときに助けてくれて……私の仕事を認めてくれて……失敗しても優しくしてくれて……」
「そんなの……好きになっちゃうよ……」
彼女は顔を上げ、深呼吸した。
「よし!」
自分の頬を軽く両手で挟む。
「明日からも、いつも通り! 仕事は仕事! 恋は恋! 絶対に悟られない!」
そして、手帳を開いた。
明日の予定の欄に、丁寧な字で書き込む。
『次回の打ち合わせ資料を準備する』
少し考えてから、その下に小さく付け足した。
『……また会えるといいな』
「…………っ!」
書いた本人が赤くなる。
「こ、これは仕事への意欲! そう、仕事への意欲です!」
誰もいない部屋で、彼女は必死に言い訳をした。
しかし、その口元には自然と笑顔が浮かんでいた。
6.翌朝、まさかの再会
翌朝。
僕が専務室へ向かおうとすると、受付から電話が入った。
「専務、お客様がお見えです。花村様です」
「花村さんですか? 分かりました。すぐに伺います」
僕が受付へ向かうと、そこには花村さんが立っていた。
「あっ……専務!」
「おはようございます。今日はどうされたんですか?」
「お、おはようございます! 昨日の打ち合わせについて、追加資料をお持ちしました!」
「わざわざありがとうございます。助かります」
僕が資料を受け取る。
指先が触れそうになった瞬間、花村さんはびくっと肩を揺らした。
「……花村さん?」
「な、なんでもありません!」
(危ない! 今、ものすごくドキドキした!)
「では、会議室へご案内しますね」
「は、はい!」
僕たちが歩き出そうとした、そのとき。
「専務?」
聞き慣れた声が背後から響いた。
振り返ると、さくらさんが立っていた。
そして、僕の隣にいる花村さんを見た。
「……花村さん。おはようございます」
「お、おはようございます、さくらさん!」
二人は笑顔で挨拶を交わす。
しかし。
花村さんの心の中は大混乱だった。
(さくらさん……! 専務の教育係で、いつも一緒にいらっしゃる方……!)
(まさか、私の気持ちに気づいている……?)
一方、さくらさんも穏やかな笑顔を浮かべながら考えていた。
(やはり、花村さんは専務に会いにいらしたのですね……)
(……いえ、仕事です。きっと仕事です)
(私が勝手に気にしているだけです……!)
そして僕はというと。
「お二人とも、どうしました? 何か気になることでも?」
二人同時に答えた。
「「い、いえ! 何もありません!」」
ぴったり同じタイミングだった。
僕は思わず笑った。
「ははっ。お二人とも、息がぴったりですね」
「そ、そんなことはありません!」
「そ、そうです! 専務、変なことをおっしゃらないでください!」
花村さんも、さくらさんも真っ赤になった。
そして、二人は同時に思った。
((この人には、絶対に恋心を知られてはいけない……!))
こうして。
自分の恋心を隠したい専務。
自分の恋心を隠したい教育係。
そして、新たに恋に落ちてしまった取引先の女性。
三人の秘密を抱えた、少し不思議な日々が始まったのだった。
――なお、花村さんはこの日、会社へ戻ったあと、同僚にこう言ったらしい。
「私、今日も完璧に隠せたと思う……!」
同僚は首をかしげた。
「花村さん、専務の話をするときだけ、ずっと笑顔なんだけど……?」
「…………えっ?」
花村さんの恋心は、本人が思っているよりもずっと、隠しきれていないのかもしれない。
一方その頃。
さくらさんは専務室の前で、そっとつぶやいた。
「……私だって、負けませんから」
「さくらさん? 何かおっしゃいました?」
「な、なんでもありません! さあ、専務、お仕事を始めましょう!」
「はい!」
今日も僕は、二人の秘密に気づかないまま、元気に仕事を始めるのだった。
――恋心を隠す三人の戦いは、まだ始まったばかり。