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「建前のつもりが、本音が出てしまいました」

教育係のさくらには恋心を知られてはいけない。 — www.pixiv.net · All chapters

「建前のつもりが、本音が出てしまいました」

朝。

あなたは専務室で、今日の予定を確認していた。

「よし……今日は会議が二つに、取引先との打ち合わせが一件。午後は書類の確認か」

コーヒーを一口飲み、深呼吸する。

今日も一日、頑張ろう。

そう思った矢先、コンコン、とドアが鳴った。

「失礼します。おはようございます、専務」

入ってきたのは、教育係のさくらさんだった。

落ち着いた声。きちんと整えられた髪。いつも通りの優しい笑顔。

そして、あなたにとっては最大の問題。

好きな人が、朝から目の前にいる。

(落ち着け、僕。いつも通りだ。僕は専務。彼女は教育係。何も問題はない……!)

「お、おはようございます、さくらさん!」

「ふふっ。今日は少し緊張していらっしゃいますか?」

「い、いえ! 全然!」

「そうですか? それならよかったです」

さくらさんは微笑みながら、今日の予定表を机に置いた。

その笑顔を見ただけで、あなたの心臓は忙しくなる。

(今日も可愛い……いやいやいや! 仕事! 仕事に集中だ!)

「では、午前中の会議についてですが――」

さくらさんの説明が始まる。

あなたは必死に仕事の話に集中した。

……つもりだった。

なぜなら、説明を終えたさくらさんが、ふと尋ねたからだ。

「ところで、専務。最近、少しお疲れではありませんか?」

「え?」

「先日も遅くまで仕事をされていましたし、昨日も他の社員の方のお手伝いをされていたと聞きました。ちゃんと休んでいらっしゃいますか?」

(覚えていてくれたんだ……)

それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。

「大丈夫ですよ。これくらい、どうってことありません」

「本当ですか?」

「本当です!」

「……無理はしないでくださいね。私は、あなたが心配ですから」

ドクン。

(心配……? さくらさんが、僕を……?)

頭の中が一瞬で真っ白になった。

そして、ここであなたは、いつものように建前を言おうとした。

「ありがとうございます。僕は専務ですから、社員の皆さんに心配をかけるわけには――」

ここまではよかった。

本当に、ここまでは。

「……それに、さくらさんに心配してもらえるのは、僕にとってすごく嬉しいことですから」

…………。

………………。

「…………え?」

言った。

言ってしまった。

しかも、ものすごく自然に。

さくらさんの手が止まった。

「……嬉しい、ですか?」

「…………」

(終わったああああああああっ!!)

心の中で叫ぶあなた。

しかし、口から出た言葉は取り消せない。

「い、いえ! 今のはですね! 教育係として心配してくださることが、上司としてありがたいという意味でして!」

「上司として……」

「はい! そうです! 上司としてです!」

さくらさんは少しだけ首を傾げた。

「……では、もし私が教育係ではなかったら?」

「えっ?」

「教育係ではなく、ただの同僚だったら。あるいは、会社とは関係のない知り合いだったら……それでも、嬉しいですか?」

(なんでそんな質問をするんですか!?)

あなたは視線を泳がせた。

「そ、それは……」

建前を考えろ。

何か無難な答えを。

例えば、「誰に心配していただいても嬉しいです」とか。

そうだ。それでいこう。

「誰に心配していただいても嬉しいですけど……」

よし、ここまでは建前だ。

「……さくらさんから心配していただくのは、やっぱり特別というか……」

…………。

………………。

「…………っ!」

今度こそ、完全にやってしまった。

さくらさんの頬が、ほんのり赤くなった。

「と、特別……?」

「…………」

あなたは机の上の書類を見つめた。

書類には何も書かれていない。

いや、正確には書かれているのだが、もう文字が頭に入ってこない。

(僕は何を言っているんだ!? 建前! 建前を言え! 今すぐに!)

「つまりですね! さくらさんは僕の教育係ですから! 信頼関係が大切でして!」

「……はい」

「ですから、その……」

「……その?」

さくらさんが、少しだけ身を乗り出した。

近い。

いつもより近い。

あなたの心臓が、ドクン、ドクン、と音を立てる。

「……僕は、さくらさんを信頼しています!」

「ありがとうございます」

「それに、いつも助けていただいていますし!」

「はい」

「優しいですし、仕事もできますし、笑顔も素敵ですし……!」

「…………」

「……あ」

最後の一言。

完全に余計だった。

いや、余計どころか、あなたが普段から胸の中にしまい込んでいる言葉そのものだった。

さくらさんは、しばらく黙っていた。

それから。

「……笑顔も、素敵ですか?」

「……はい」

今度は、否定できなかった。

「……すごく」

声が小さくなる。

「さくらさんの笑顔を見ると、なんだか安心するんです。仕事で失敗して落ち込んだときも、疲れているときも……さくらさんが笑ってくれると、もう少し頑張ろうって思えるんです」

言いながら、あなたは気づいていた。

これは建前ではない。

ごまかしでもない。

ずっと伝えたかった、本音だった。

「だから……いつも、ありがとうございます」

最後だけは、何とか落ち着いた声で言えた。

さくらさんは目を丸くしていた。

そして、ゆっくりと視線を落とした。

「……そんなふうに思ってくださっていたんですね」

「……はい」

「……嬉しいです」

その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。

あなたが顔を上げると、さくらさんは口元を押さえていた。

頬はまだ赤い。

「さくらさん……?」

「い、いえ。何でもありません」

「本当ですか?」

「本当です」

そう答えたさくらさんは、なぜかあなたと目を合わせようとしなかった。

(……あれ?)

いつもなら、何かあれば優しくアドバイスしてくれるのに。

今日は、さくらさんのほうが落ち着かない様子だった。

そして彼女は、書類を持ち直すと、少し早口で言った。

「そ、それでは! 午前中の会議の準備をしてまいりますね!」

「えっ、あ、はい!」

「失礼します!」

パタン。

ドアが閉まった。

あなたは椅子に深く座り込んだ。

「…………」

数秒後。

「……僕、何言った?」

両手で顔を覆う。

「笑顔が素敵とか! 特別とか! 何を考えているんだ、僕は……!」

しかし。

口元が、どうしても緩んでしまう。

さくらさんに、ありがとうと伝えられた。

それだけは、よかったと思った。

……恋心が伝わっていないかどうかは、別問題だが。

その頃、廊下では。

さくらさんは、壁際で立ち止まっていた。

「…………」

胸元に手を添える。

ドクン。

ドクン。

(……特別、だなんて)

先ほどのあなたの言葉が、何度も頭の中で繰り返されていた。

(それに……笑顔が素敵、だなんて……)

「……もう」

思わず、小さな声が漏れる。

「……そんなことを言われたら、意識してしまうじゃないですか」

普段は冷静な教育係。

社員たちから頼られ、あなたにも的確な指導をする女性。

その彼女が今、たった一人の男性の言葉で、すっかり調子を狂わされていた。

しかも、困ったことに。

(……私も、あなたに心配していただけたら……嬉しいのに)

そこまで考えて、さくらさんはハッとした。

「……い、いけません! 仕事に集中しなければ!」

頬を軽く押さえ、深呼吸する。

そして、いつもの表情を取り戻そうとした。

……が。

頭に浮かぶのは、あなたの照れた顔ばかり。

「……本当に、ずるい方です」

小さくつぶやいてから、さくらさんは歩き出した。

その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。

お昼休み――二度目の失言

昼休み。

あなたは食堂で昼食を済ませ、庭のベンチで一人、コーヒーを飲んでいた。

(午前中は危なかった……。午後こそ、普通に接しよう)

そこへ、さくらさんがやってきた。

「あ、専務。こちらにいらしたんですね」

「さくらさん! お疲れさまです!」

(自然に! 自然に!)

「隣、よろしいですか?」

「もちろんです!」

さくらさんが隣に座る。

あなたは内心、緊張しながらも平静を装った。

しばらく、二人で庭を眺める。

穏やかな風が吹き、木の葉が揺れた。

「……気持ちのいいお天気ですね」

さくらさんが言った。

「そうですね。仕事の合間にこういう時間があると、落ち着きます」

「ふふっ。専務も、ちゃんと休憩を取られるようになったんですね」

「さくらさんに言われましたから」

「……私に?」

「はい。さくらさんが無理をしないでって言ってくださったので」

さくらさんは、少し嬉しそうに笑った。

「……それなら、よかったです」

(ああ……やっぱり好きだなあ)

心の中で思う。

そして、あなたは何気なく口を開いた。

「さくらさんと一緒にいると、落ち着くんですよね」

「…………」

しまった。

まただ。

また建前より先に本音が出た。

あなたは慌てて付け加えた。

「い、いや! 教育係として! 教育係として一緒にいる時間が長いですから!」

「……そうですね」

さくらさんは、ゆっくりとこちらを向いた。

「では、教育係ではなくなったら……落ち着かなくなってしまいますか?」

「…………」

あなたは固まった。

「……それは」

さくらさんは、少しだけいたずらっぽく微笑んだ。

「冗談です。そんなに困ったお顔をしないでください」

「さ、さくらさん……!」

「ふふっ。すみません」

そう言いながらも、さくらさんは楽しそうだった。

あなたはコーヒーを飲んで、何とか気持ちを落ち着かせる。

しかし、さくらさんがふと、静かな声で言った。

「……私は、教育係でなくなっても、あなたとお話ししたいですけどね」

「……え?」

「……何でもありません」

さくらさんは庭のほうを向いた。

その耳が赤くなっていることに、あなたは気づかなかった。

いや、気づいていたとしても。

きっと、自分に都合のいい勘違いをしてしまうのが怖くて、聞けなかっただろう。

二人は並んで、しばらく庭を眺めていた。

いつもと変わらない昼休み。

けれど、二人の心の中では、いつもより少しだけ大きな変化が起きていた。

あなたは、建前を間違えて本音を口にしてしまった。

さくらさんは、その本音を何度も思い返してしまった。

そして二人とも、相手の気持ちにはまだ確信が持てない。

だから今日も――

「恋心を知られてはいけない」と思いながら、少しずつ本音がこぼれていくのだった。

……ただし。

午後、専務室を訪れた美咲さんは、あなたとさくらさんの顔を見るなり、ぴたりと足を止めた。

「……あれ?」

「どうしました、美咲さん?」

さくらさんが尋ねる。

美咲さんは、あなたを見て、さくらさんを見て、もう一度あなたを見た。

「……お二人、何かありました?」

「「な、何もありません!」」

見事に声が重なった。

数秒の沈黙。

美咲さんは、にっこりと笑った。

「……へえ?」

あなたとさくらさんは、同時に視線を逸らした。

「……怪しいですねえ」

「み、美咲さん! 仕事の話をしましょう!」

「そうですね、さくらさん。では、あとでゆっくりお聞きしますね?」

「……っ!」

さくらさんが固まった。

あなたも固まった。

美咲さんだけが、楽しそうに笑っていた。

そして専務室には、今日一番の緊張感が漂うことになったのだった。