「退職届を渡された最終面接と、笑顔を失った人事の女性」
「退職届を渡された最終面接と、笑顔を失った人事の女性」
1.新入社員の最終面接
今日は、新しく入社する社員たちの最終面接の日。
専務である僕は、人事部の女性社員と一緒に、最終面接を担当することになっていた。
「本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
彼女の名前は、花村美月(はなむら・みづき)さん。
人事部で長く働いている、優秀な女性だ。
……と、聞いていた。
実際、彼女は面接の準備も完璧で、応募者への対応も丁寧だった。
ただ、一つだけ気になることがあった。
「では、次の方です」
花村さんはそう言って、僕に資料を渡した。
僕は何気なく受け取った。
そして、表紙を見た瞬間。
「…………え?」
そこには、応募者の履歴書でも面接資料でもなく。
『退職届』
と書かれていた。
さらに、その下には、手書きでこんな言葉が添えられていた。
『もう十分です。これ以上、会社に迷惑をかける前に、自分から退職してください』
「…………」
頭の中が真っ白になった。
え?
僕、何かした?
専務になってから、仕事は頑張ってきたつもりだった。
社員のみんなの仕事を手伝ったり、困っている人の相談に乗ったり、会社の問題を解決したり。
それなのに。
とうとう、辞めろと言われるところまで来てしまったのだろうか。
(……そっか)
(僕、もう必要ないのかな)
(みんなに迷惑ばかりかけていたのかな……)
(さくらさんにも、今までたくさん助けてもらったのに……)
どんどん思考が暗くなっていく。
いつもなら、こういうときは「まだ決まったわけじゃない」と考えるようにしていた。
でも、今回は無理だった。
だって、退職届が目の前にあるのだから。
「……花村さん」
「はい?」
「これ……僕の退職届、ですか?」
花村さんの顔が凍りついた。
「えっ!?」
彼女は慌てて資料を確認した。
「あっ、ち、違います! 違うんです! それは……!」
「……そう、ですよね」
僕は小さく笑った。
「すみません。僕、少し勘違いしてしまいました」
「ち、違うんです、本当に……!」
花村さんの声が震えていた。
そのとき、僕はようやく気づいた。
彼女の顔を、よく見てみる。
目の下には薄い隈があった。
笑顔を作ろうとしているのに、口元がうまく動いていない。
そして、何より。
彼女の目が、今にも泣き出しそうだった。
僕は自分の落ち込みをいったん脇に置いた。
「……花村さん」
「は、はい……」
「少し、お話ししませんか?」
「え……?」
「面接の合間ですし。無理にとは言いません。でも……今、何か困っていませんか?」
彼女は目を見開いた。
そして。
「…………っ」
資料を持つ手が、小さく震えた。
「……どうして」
「え?」
「どうして、分かるんですか……?」
その声を聞いて、僕は確信した。
これは、僕に渡すための退職届じゃない。
彼女自身が、自分のために用意したものなのだ。
2.人事の女性は、僕以上のネガティブ思考だった
面接室を少し離れた休憩スペース。
僕たちは向かい合って座っていた。
花村さんは、ずっと膝の上で手を握りしめている。
「……実は」
彼女は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私……退職しようと思っていたんです」
「……そうだったんですね」
「人事の仕事って、思っていたよりもずっと難しくて……」
彼女はうつむいた。
「入社してくる人たちには、期待も不安もあるじゃないですか。だから、少しでも安心してもらえるように、笑顔で接してきたんです」
「はい」
「面接で緊張している人には、なるべく優しく話しかけて……不採用になってしまった人にも、できる限り丁寧に対応して……」
花村さんの声がかすれた。
「でも、ある日、応募者の方に言われたんです」
『あなたのせいで、私の人生はめちゃくちゃだ』
僕は黙って話を聞いた。
「もちろん、私一人の判断で採用が決まるわけじゃありません。会社の基準もありますし、どうしても採用できない場合だってあります」
「……はい」
「それでも……その方の悲しそうな顔が、ずっと頭から離れなくて」
花村さんは、ぎゅっと手を握った。
「私がもっと上手に話せていたら。もっといい言葉を選べていたら。もっと笑顔でいられたら……あの人は、あんなに傷つかなかったんじゃないかって」
「…………」
「それから、何をしても怖くなったんです」
彼女は、無理に笑おうとした。
「面接で笑顔を作っても、これって相手を傷つけるための偽善なんじゃないかって。優しくしても、結局は誰かを不幸にするんじゃないかって……」
そして、とうとう涙がこぼれた。
「私、人事に向いていないんです」
「…………」
「今まで、何人もの人を面接してきました。採用できた人もいます。入社してから楽しそうに働いている人を見ると、本当に嬉しかったんです」
「はい」
「でも……一人でも悲しい顔をした人がいると、全部、自分のせいにしてしまうんです」
花村さんは涙を拭った。
「私が採用しなかったから、その人の人生が壊れたんだって……。私がもっと頑張っていれば、その人の未来を変えられたかもしれないのにって……」
彼女は、苦しそうに笑った。
「……こんな人間が、人事なんてやっちゃいけないですよね」
僕は、しばらく何も言えなかった。
なぜなら。
(……この人、僕よりもずっとネガティブだ)
僕も、何かあると自分が悪いと思ってしまう。
社員が困っていたら、自分がもっと早く気づいていればと思う。
誰かが落ち込んでいたら、自分の言葉が悪かったのではないかと考えてしまう。
でも、花村さんは、それ以上だった。
誰かの悲しみを、自分の人生そのものに背負い込んでいた。
「……花村さん」
「はい……」
「今まで、ずっと一人で抱えていたんですか?」
「…………はい」
「誰にも相談せずに?」
「……迷惑をかけたくなかったので」
その言葉を聞いた瞬間。
僕の胸の奥で、何かが動いた。
この人は、誰かを笑顔にしようと頑張ってきた。
その結果、自分が笑えなくなってしまったのだ。
そして今も、誰かに迷惑をかけないように、ひっそりと会社を去ろうとしている。
僕は立ち上がった。
「……分かりました」
「え……?」
花村さんは、不安そうに顔を上げた。
僕は、彼女が持っていた退職届に手を伸ばした。
「それでは……」
彼女の表情が、さらに暗くなる。
「やっぱり、私……辞めたほうが……」
「違います」
僕は、はっきりと言った。
「そういう意味じゃありません」
そして。
ビリッ。
退職届を破いた。
「……え?」
花村さんが、目を丸くした。
僕は、さらに紙を破いた。
ビリッ。
ビリッ。
小さくなった紙片を机の上に置く。
「……専務、何を……」
「花村さん」
僕は、いつになく真剣な声で言った。
「あなたは、誰かを傷つけたくないから辞めるんですよね」
「……はい」
「でも、それなら一つ、聞かせてください」
僕は彼女の目を見た。
「あなたが辞めたら、あなた自身のことは、誰が助けるんですか?」
「…………っ」
花村さんの唇が震えた。
「あなたは、応募者の人生を大切に考えてきたんですよね」
「……はい」
「だったら、あなた自身の人生も、大切にしてください!」
思ったより大きな声が出た。
花村さんが、びくっと肩を揺らす。
僕も、自分の声に驚いていた。
でも、止まらなかった。
「確かに、採用できなかった人が悲しむことはあります。あなたがどれだけ丁寧に説明しても、納得できない人だっているでしょう!」
「…………」
「でも、それを全部、あなた一人の責任にしないでください!」
僕は机に手を置いた。
「採用というのは、会社と応募者の双方に関わる、大切な判断です。あなた一人で、誰かの人生のすべてを決められるわけじゃない!」
花村さんの目から、涙があふれた。
「あなたがどれだけ頑張っても、全員を笑顔にすることはできないかもしれません。僕だってそうです。専務なのに、失敗もしますし、誰かに迷惑をかけることもあります!」
……うん。
自分で言っていて、ちょっと胸が痛い。
僕、最近もさくらさんにいろいろ助けてもらっているし。
でも、今はそんなことを気にしている場合じゃなかった。
「それでも!」
僕は、言葉を続けた。
「誰かが悲しんだからといって、あなたの今までの努力まで、全部なかったことにしないでください!」
「…………っ」
「あなたが笑顔にしてきた人もいるはずです。安心して面接を受けられた人も、あなたの言葉に救われた人もいるはずです!」
僕は、少しだけ声を落とした。
「その人たちのことまで、忘れないでください」
花村さんは、とうとう顔を覆った。
「……でも……私……」
「はい」
「私……怖かったんです……っ」
「……はい」
「また誰かを悲しませるのが……自分のせいで、誰かの未来を壊してしまうのが……っ」
「……はい」
「だから……もう、何もしたくなくなって……!」
彼女の肩が震えた。
僕は、そっとティッシュを差し出した。
「……花村さん」
「……はい……」
「今まで、本当にお疲れさまでした」
その一言で。
彼女は、声を上げて泣いた。
3.「あなたまで、自分を責めないでください」
しばらくして、花村さんは少し落ち着いた。
「……申し訳ありません。専務の前で、こんなに泣いてしまって」
「いえ。大丈夫ですよ」
「退職届まで破いていただいて……」
「あっ、それは……ちょっと勢いで……」
「ふふっ……」
彼女が、小さく笑った。
久しぶりに、本当に笑ったような顔だった。
僕はほっとした。
……が。
「……でも」
花村さんは、またうつむいた。
「私、これからどうすればいいんでしょう」
「……そうですね」
「人事を続けても、また同じことを繰り返すかもしれません。誰かが悲しむたびに、自分を責めて……」
「なら、まずは一人で抱え込まないことから始めませんか?」
「……え?」
「面接で悩んだことも、判断に迷ったことも、上司や同僚に相談する。必要なら、仕事の進め方も一緒に見直しましょう」
僕は、破いた退職届の紙片をまとめながら続けた。
「人事の仕事が本当に向いているかどうかは、今すぐ決めなくてもいいと思います」
「…………」
「少し休むこともできます。担当を調整することもできます。会社として、できることを一緒に考えましょう」
花村さんは、目をぱちぱちさせた。
「……専務」
「はい」
「どうして……そこまでしてくださるんですか?」
僕は少し考えた。
そして、正直に答えた。
「……あなたが、今まで頑張ってきたことを知ったからです」
「…………」
「それに、僕も誰かに助けてもらったことが何度もありますから」
ふと、さくらさんの顔が浮かんだ。
失敗したとき、落ち込んだとき。
彼女は、厳しいことを言いながらも、最後には僕を支えてくれた。
(……さくらさん)
(僕、少しは誰かを支えられるようになったのかな)
そんなことを考えていると。
「……専務は、優しいんですね」
「えっ!?」
しまった。
急に言われると、照れる。
「い、いえ! そんなことは……!」
「ふふっ。さっきは、すごく怖い顔をしていらっしゃいましたけど」
「うっ……」
「でも……嬉しかったです」
花村さんは、涙を拭いて微笑んだ。
「私、自分が誰かを笑顔にすることばかり考えていて……自分が助けてもらうことなんて、考えてもいませんでした」
「……はい」
「だから、専務に怒られて……少し、目が覚めた気がします」
「怒ってしまって、すみません」
「いいえ」
彼女は首を横に振った。
「怒ってくださって、ありがとうございます」
そして、深く頭を下げた。
「……私、もう少しだけ、頑張ってみたいです」
「はい。一緒に考えていきましょう」
その言葉を聞いた瞬間、僕の胸の奥も、少しだけ温かくなった。
誰かを救うというのは、大げさなことばかりじゃない。
ただ、その人が自分を責め続けるのを止める。
一人で抱えていたものを、一緒に持つ。
それだけでも、きっと意味があるのだ。
4.ところが、さくらさんに見られていた
「……専務?」
「はい?」
休憩スペースの入口から、聞き慣れた声がした。
振り返ると。
そこには、資料を抱えたさくらさんが立っていた。
「……何をなさっているんですか?」
「さ、さくらさん!?」
しまった。
面接の途中だったのに、ずいぶん長く席を外してしまった。
「す、すみません! ちょっと相談に乗っていて……!」
「そうですか」
さくらさんは、僕と花村さんを交互に見た。
机の上には、細かく破かれた退職届。
そして、目を赤くした花村さん。
「…………」
さくらさんの目が、すっと細くなった。
「専務」
「は、はい!」
「まさか、花村さんを泣かせたんですか?」
「ち、違います!」
「では、その紙は?」
「そ、それはですね……!」
僕が説明しようとすると、花村さんが慌てて立ち上がった。
「ち、違うんです! さくらさん! 専務は、私を助けてくださったんです!」
「……助けた?」
「はい! 私、自分から退職しようとしていて……でも、専務が話を聞いてくださって……」
花村さんは、今までのことを簡潔に説明した。
さくらさんは、黙って聞いていた。
やがて。
「……そうだったんですね」
さくらさんは、表情を和らげた。
「花村さん。つらいときは、一人で抱え込まないでくださいね」
「……はい」
「この会社には、相談できる人がいます。もちろん、私もです」
花村さんの目に、また涙が浮かんだ。
「……ありがとうございます」
さくらさんは優しく微笑んだ。
そして、僕のほうを向く。
「……専務も」
「は、はい?」
「自分のことを、少しは大切になさってください」
「…………え?」
「人の相談に乗るのは素晴らしいことです。でも、専務ご自身が無理をして倒れてしまったら、今度は私たちが心配することになります」
「うっ……」
痛い。
とても痛い。
最近、仕事を抱え込みすぎて、さくらさんに何度も心配をかけている。
「……気をつけます」
「本当ですか?」
「ほ、本当です!」
「……でしたら、よろしいです」
さくらさんは微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間。
(……かわいい)
(いやいやいや! 今は花村さんの話だ!)
(落ち着け、僕! 恋心を知られてはいけない!)
心の中で大騒ぎしていると、さくらさんが不思議そうに首をかしげた。
「……専務?」
「な、何でもありません!」
「顔が赤いですよ?」
「部屋が暑いんです!」
「……そうですか?」
さくらさんは、少しだけ疑わしそうだった。
危ない。
別の意味で救われなくなるところだった。
5.花村さんが取り戻した笑顔
その日の午後。
花村さんは人事部の上司と面談を行い、今後の仕事について相談することになった。
退職については、いったん保留。
一人で抱え込まないための相談体制を整え、面接の負担も見直すことになった。
もちろん、彼女が今後どう働くかは、これから考えていくことだ。
でも、少なくとも。
今日、無理に自分の人生に結論を出す必要はなくなった。
夕方。
僕が専務室で仕事をしていると、コンコン、とノックの音がした。
「失礼します」
花村さんだった。
「あっ、花村さん。どうしました?」
「本日は、本当にありがとうございました」
彼女は、深々と頭を下げた。
「私、今日のことは忘れません」
「いえ、そんな……」
「それと、これを」
彼女が差し出したのは、一枚の小さなメモだった。
そこには、こう書かれていた。
『誰かを笑顔にする前に、自分も笑顔でいられるようにする』
「……これは?」
「今日、専務とお話しして、私が大切にしたいと思ったことです」
花村さんは、少し恥ずかしそうに笑った。
「今までは、誰かが悲しむと、私が全部悪いと思っていました。でも、これからは……悲しいことがあったときも、一人で決めつけずに、誰かに相談してみようと思います」
「……はい。それがいいと思います」
「それから」
彼女は、いたずらっぽく微笑んだ。
「専務も、退職届を見て落ち込んでいらっしゃいましたよね?」
「うっ!?」
「最初、ものすごく悲しそうなお顔をなさっていました」
「……見られていましたか」
「はい。だから、私も気づいたんです」
「何にですか?」
「専務も、私と同じなんだなって」
「…………」
「人のことを助けるのが上手なのに、自分のことになると、すぐに悪いほうへ考えてしまうんですね」
ぐさっ。
図星だった。
「……気をつけます」
「ふふっ。お互い、ですね」
花村さんは、初めて会ったときよりもずっと自然な笑顔を浮かべた。
「それでは、失礼します」
「はい。お疲れさまでした」
彼女が部屋を出ていく。
僕は、しばらくそのメモを眺めていた。
そして、小さくつぶやく。
「……よかった」
誰かの人生を、僕が完璧に救えたわけじゃない。
明日になれば、また悩むこともあるだろう。
それでも、彼女がもう一度、自分の未来を考えてみようと思ってくれた。
それだけで、今日は十分だった。
……そう思っていたのだが。
コンコン。
「失礼します」
再び扉が開いた。
今度は、さくらさんだった。
「専務。今日の面接の件ですが……」
「は、はい!」
「花村さんから聞きましたよ」
「……何をですか?」
さくらさんは、にっこりと微笑んだ。
「退職届を破って、花村さんに本気で怒ったそうですね」
「うっ……」
「そして、そのあとご自身も落ち込んでいらっしゃったとか」
「な、なぜそこまで……!」
「花村さんが、嬉しそうに話してくださいました」
さくらさんは、少しだけ目を細めた。
「……専務らしいですね」
「え?」
「誰かが困っていると、放っておけないところ」
「…………」
「でも」
さくらさんは、僕の机にそっと書類を置いた。
「ご自身の心も、同じくらい大切にしてくださいね」
「……はい」
「約束ですよ?」
優しい声。
真っすぐな瞳。
そして、最高にかわいい笑顔。
(……無理だ)
(こんなの、好きにならないほうが無理だろ……!)
ドクン。
ドクン。
ドクン。
僕は慌てて書類に視線を落とした。
「……専務?」
「な、何でもありません!」
「……また顔が赤いですよ?」
「き、今日はいろいろありましたから!」
「ふふっ。そうですね」
さくらさんは楽しそうに笑った。
「では、今日は少し早めにお仕事を切り上げてくださいね」
「えっ!? で、でも、まだ仕事が……!」
「分担できるものは、私たちで引き受けます」
「……さくらさん」
「花村さんを助けた専務が、今度は自分を追い詰めてしまったら意味がありませんから」
そう言って、彼女は微笑んだ。
「今日は、誰かに頼る練習をしてください」
……参った。
本当に、この人には勝てない。
「……分かりました」
僕がそう答えると、さくらさんは満足そうにうなずいた。
「よろしいです」
そして、扉へ向かう。
去り際に、彼女は振り返って言った。
「……今日の専務、少し格好よかったですよ」
「………………え?」
バタン。
扉が閉まった。
「………………」
僕は、しばらく固まっていた。
それから。
「…………っっっ!!」
机に突っ伏した。
(格好よかった!?)
(さくらさんが!?)
(僕に!?)
(いや、待て! これは仕事の話だ! 恋愛的な意味じゃない! 落ち着け!)
ドクンドクン。
心臓がうるさい。
さっきまで花村さんのために真剣に怒っていた人間とは思えないほど、僕は一人で慌てていた。
そして、机の上に置かれたメモが目に入る。
『誰かを笑顔にする前に、自分も笑顔でいられるようにする』
僕は、ゆっくりと顔を上げた。
「……うん」
明日もきっと、悩むことはある。
誰かのために頑張りすぎてしまうこともあるだろう。
それでも。
誰かを助けることと、自分を大切にすること。
その二つを、少しずつ覚えていこう。
……ただし。
(さくらさんに恋していることだけは、絶対に知られてはいけない……!)
そう決意した直後。
廊下から、さくらさんの声が聞こえた。
「……ふふっ。専務、何を考えていらっしゃるんでしょうね」
……。
……聞こえていないよな?
聞こえていないよね!?
僕は再び机に突っ伏した。
今日もまた、恋心を隠すのに忙しい一日だった。
――そして翌日、花村さんは面接室で、いつもより少し自然な笑顔で応募者を迎えることになる。
今度は、自分自身の笑顔も大切にしながら。