「美咲さんの昇格と、間違えて送った恋人用メール」
「美咲さんの昇格と、間違えて送った恋人用メール」
朝の専務室。
あなたはコーヒーを片手に、パソコンの画面をクリックしていた。
「さて……今日の人事資料は、と」
カチッ。
画面に表示されたのは、社員たちの勤務状況や評価をまとめた人事管理システムだった。
あなたは一人ひとりの記録に目を通していく。
「部長は相変わらず優秀。社長も問題なし……」
そして、ある人物の名前で手が止まった。
「……美咲さん?」
画面に表示されていたのは、美咲さんの社員情報だった。
現在の雇用区分は、平社員。
しかし、評価欄にはここ最近の目覚ましい活躍が記録されていた。
他の社員の仕事を手伝い、困っている後輩にアドバイスを送り、トラブルが起きた際には冷静に対応している。
さらには、あなたが専務として進めているプロジェクトにも貢献していた。
「……最近、すごく頑張ってるな」
あなたは腕を組んで考え込んだ。
「仕事も丁寧だし、周りもよく見ている。それに、以前よりずっと責任感も強くなった」
もう一度、評価欄を確認する。
「正社員にしても、いいんじゃないだろうか?」
そう思ったあなたは、すぐに内線を取った。
「人事部の美月さん、今、お時間ありますか?」
『はい。大丈夫ですよ、専務』
「少し相談したいことがあるんです。美咲さんの人事評価についてなんですが……」
1.人事の美月さんとの相談
数分後。
専務室に、人事担当の美月さんがやってきた。
「お呼びでしょうか、専務」
「お忙しいところすみません。こちらを見ていただけますか?」
あなたはパソコンの画面を見せた。
美月さんは資料を確認し、少し驚いた表情を浮かべた。
「美咲さんですね。確かに、最近かなり頑張っていますね」
「そうなんです。僕も何度か仕事ぶりを見ていますが、安心して仕事を任せられるようになりました」
「周囲からの評価も良好です。特に、困っている社員を放っておかないところが評価されていますね」
「ええ。自分の仕事だけでなく、周りのことまで考えられる人ですから」
あなたは少し考えてから、はっきりと告げた。
「美月さん。美咲さんの雇用区分を見直して、正社員への登用を進めたいと思っています」
「……よろしいのですか?」
「もちろん、正式な評価と必要な手続きを踏んだうえでです。頑張った人が、きちんと報われる会社にしたいんです」
美月さんは、ふっと笑った。
「専務らしいお考えですね。私も賛成です。これまでの実績を確認して、正式な手続きを進めましょう」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
あなたは決裁画面を開き、必要な確認を進めていった。
そして――。
美咲さんの正社員登用が、正式に決定した。
「よし……!」
あなたは小さくガッツポーズをした。
「これで、美咲さんの頑張りをちゃんと評価できる」
「ふふっ。専務は本当に、社員のことをよく見ていらっしゃいますね」
「えっ? いや、そんな大したことじゃ……」
「そういうところですよ」
美月さんは楽しそうに笑った。
あなたは少し照れくさくなり、コーヒーを飲んでごまかした。
2.美咲さん、呼び出される
昼前。
美咲さんは、人事部からの連絡を受けて専務室にやってきた。
「専務、お呼びでしょうか?」
「はい。少しお話があります」
「……何でしょうか?」
美咲さんは椅子に座った。
あなたは、できるだけ普段どおりの表情で資料を差し出した。
「美咲さん。最近の仕事ぶりについて、人事部と話し合いました」
「……はい」
「周りへの気配り、業務への取り組み、トラブルへの対応。どれも高く評価されています」
「えっ……?」
「それで、今回――」
あなたは笑顔で告げた。
「美咲さんの正社員登用が決まりました。」
「…………え?」
美咲さんが固まった。
「せ、正社員……ですか?」
「はい。もちろん、これまでの頑張りが評価された結果です。おめでとうございます」
「ほ、本当に……?」
「本当ですよ」
美咲さんは資料を両手で受け取り、何度も確認した。
やがて、その目が少し潤んだ。
「……ありがとうございます」
「いえ。こちらこそ、いつも会社を支えてくださってありがとうございます」
「わ、私……もっと頑張ります!」
「期待しています。ただし、無理はしすぎないでくださいね」
「はいっ!」
美咲さんは立ち上がり、深々と頭を下げた。
そして、部屋を出る直前。
「……専務」
「はい?」
「私の頑張り、ちゃんと見ていてくださったんですね」
「もちろんです」
その一言に、美咲さんはぱっと笑顔になった。
「……えへへ。今日は、いい日です」
そう言って出ていった美咲さんの背中を見送り、あなたは満足げにうなずいた。
「よかったなあ……」
しかし、このときのあなたは知らなかった。
美咲さんが廊下に出た直後、両手で頬を押さえていたことを。
「ど、どうしよう……! 専務にあんなふうに褒められちゃった……!」
そして、たまたま通りかかったさくらさんに、その様子を見られていたことも。
「……美咲さん?」
「さ、さくらさん!? な、何でもありません!」
「……そうですか?」
さくらさんは微笑んだ。
「正社員登用、おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
「専務も、あなたの頑張りを認めていらっしゃるんですね」
「……はい!」
美咲さんは満面の笑顔でうなずいた。
さくらさんも、優しく微笑んだ。
ただし。
「……私も、もっと頑張らないといけませんね」
その言葉には、ほんの少しだけ別の意味が混ざっていた。
3.午後、事件はメールから始まった
午後。
あなたは専務室で、メールの整理をしていた。
取引先への連絡、会議の調整、社員への業務連絡。
「えーっと、次は……さくらさんに資料を送っておこう」
あなたは、さくらさん宛てのメールを作成した。
件名は、翌日の会議資料について。
本文には、資料の確認をお願いする内容を書き込んでいく。
そして、添付ファイルを選ぼうとしたときだった。
「……あれ? これ、何だ?」
ファイル一覧に、見覚えのある名前が表示されていた。
『恋人用_特別な日の計画案』
「…………」
あなたの指が止まった。
「………………」
数秒間、完全に思考が停止した。
「な、ななななな……!?」
それは、以前あなたが個人的に作成したファイルだった。
さくらさんと、もしも恋人同士になれたら。
一緒に行きたい場所。
いつか誘ってみたいお店。
伝えたい言葉。
そんな、誰にも見せられない妄想をまとめたものだった。
もちろん、さくらさんには絶対に知られてはいけない。
あなたは慌ててファイルを選び直した。
「危ない危ない……! こんなの送ったら、終わりだ……!」
正しい会議資料を添付。
宛先を確認。
件名を確認。
本文を確認。
「よし……送信!」
カチッ。
メールが送信された。
「ふぅ……」
あなたは椅子の背もたれに体を預けた。
「危うく、とんでもないことになるところだった……」
しかし。
画面の右下に、通知が表示された。
送信済みメール:1件
あなたは何気なく送信履歴を開いた。
そして。
「………………え?」
そこには、信じられない文字が並んでいた。
宛先:さくらさん。
件名:会議資料の確認について。
添付ファイル:
『恋人用_特別な日の計画案』
「――――――――っ!?」
あなたは勢いよく立ち上がった。
「ま、待て待て待て待てぇぇぇぇぇ!!」
どうやら、正しい会議資料を添付したつもりが、ファイルを複数選択してしまっていたらしい。
よりによって、あのファイルまで一緒に送ってしまったのだ。
「終わった……! 僕の会社生活が終わった……!」
いや、まだだ。
まだ、さくらさんがメールを開いていない可能性がある。
あなたは慌ててメールの取り消し機能を探した。
「取り消し……取り消し……どこだ!? なんでこんなときに限って見つからないんだ!?」
カチッ、カチッ、カチッ。
「うわああああ……!」
そのとき。
コンコン。
「失礼します」
聞き慣れた声。
あなたの動きが止まった。
「……さくらさん?」
ドアの向こうから、さくらさんの声がした。
「専務。先ほどメールをいただいたのですが、少し確認したいことがありまして」
(来たぁぁぁぁぁ!!)
あなたの心臓が跳ね上がる。
ドクンッ!
ドクンッ!
ドクンッ!
「ど、どうぞ……!」
ドアが開いた。
さくらさんは、いつもどおりの落ち着いた笑顔で入ってきた。
「会議資料、ありがとうございます。ところで……」
彼女は手元のタブレットに視線を落とした。
「添付ファイルについてなのですが」
「は、はいっ!?」
声が裏返った。
さくらさんが、ぴたりと動きを止める。
「……専務?」
「な、何でしょうか!?」
「どうして、そんなに慌てていらっしゃるのですか?」
「い、いえ! 全然! まったく! 普通です!」
(普通じゃない! 絶対に普通じゃない!!)
さくらさんは不思議そうに首をかしげた。
「そうですか……。実は、会議資料のほかに、もう一つファイルが添付されていたのですが」
「…………っ!」
「『恋人用_特別な日の計画案』というファイルです」
「――――っ!?」
あなたの顔が一瞬で真っ赤になった。
さくらさんは、タブレットを見つめている。
「これは……何でしょうか?」
(どうする!? どう説明する!?)
仕事の資料だと言うには無理がある。
友人のものだと言うには、自分のパソコンから送っている。
間違いだと正直に言うしかない。
「そ、それは……!」
あなたは深呼吸をした。
「すみません! 添付ファイルを間違えました! 完全に僕のミスです! そのファイルは個人的なもので、さくらさんに見せるつもりはまったくなくて……!」
そこまで言って、あなたは口を押さえた。
(個人的なものって言っちゃったぁぁぁ!!)
さくらさんの目が、ゆっくりとあなたを向いた。
「……個人的なもの、ですか」
「は、はい……」
「そうですか」
さくらさんは微笑んだ。
いつもの優しい笑顔。
しかし、耳がほんのり赤くなっているように見えた。
「……それで、そのファイルには、何が書かれているのですか?」
「えっ!?」
「いえ。無理にお答えいただかなくても構いません。ただ、少し気になりまして」
(気になってる!? 気になってるんですか!?)
あなたは必死に考えた。
そして、ついに答えを絞り出した。
「……将来の、計画です」
「将来の……?」
「は、はい! その……いつか、そういう機会があったらいいな、という程度の……!」
言っている途中で、自分でも何を言っているのか分からなくなった。
さくらさんは、しばらく黙っていた。
それから。
「……そうですか」
小さくうなずいた。
「素敵な計画だといいですね」
「…………え?」
「では、会議資料は確認しておきますね。お仕事、頑張ってください」
さくらさんは微笑んで、専務室を出ていった。
ドアが閉まる。
カチャッ。
あなたは、その場に崩れ落ちた。
「…………助かった?」
いや。
本当に助かったのだろうか。
さくらさんは、ファイルの中身を確認していないようだった。
しかし、あの反応は何だったのだろう。
「……まさか、変に思われてないよな?」
あなたは頭を抱えた。
「もう、メールを送る前には添付ファイルを三回確認しよう……」
そのころ。
廊下を歩くさくらさんは、誰もいない場所で立ち止まっていた。
そして、タブレットの画面をもう一度見た。
『恋人用_特別な日の計画案』
「…………恋人用、ですか」
さくらさんの頬が、じわじわと赤くなる。
「……専務にも、そういうことを考える方がいらっしゃるのですね」
しばらく画面を見つめたあと、彼女は小さくつぶやいた。
「……どなたと、なのでしょうか」
胸元に手を当てる。
ドクン。
「…………」
ドクン、ドクン。
「……いえ。私には関係のないことです」
そう言いながらも、さくらさんはなぜか、その場からすぐに動けなかった。
そして、ふと。
「……もしも」
小さな声がこぼれた。
「もしも……私だったら……」
「――――っ!?」
自分の言葉に驚いたさくらさんは、慌てて首を振った。
「な、何を考えているのですか、私は……!」
顔を真っ赤にしながら、足早に歩き出す。
その背中は、いつもより少しだけ落ち着きがなかった。
4.夕方、二人の秘密
夕方。
あなたは、さくらさんから届いたメールを確認していた。
件名:会議資料について。
本文には、資料を確認したことと、明日の会議に向けた簡単な連絡が書かれていた。
そして最後に、一文。
『なお、添付ファイルについては、どうぞお気になさらないでくださいね』
「…………」
あなたは画面を見つめた。
「……優しい」
本当に優しい。
怒られてもおかしくない失敗だったのに、さくらさんは責めなかった。
「……明日、ちゃんと謝ろう」
そう決めたあなたは、返信メールを作成し始めた。
ところが。
『さくらさん、今日はありがとうございました。明日もよろしくお願いします。大好き……』
「………………」
あなたは慌ててキーボードから手を離した。
最後の一言は、音声入力が勝手に拾ったものだった。
「危なぁぁぁぁぁ!!」
今度こそ、あなたは送信前の確認を徹底した。
宛先。
件名。
本文。
添付ファイル。
すべて問題なし。
「……よし」
送信ボタンを押す。
今度は無事に送れた。
その瞬間、あなたは大きく息を吐いた。
「今日だけで寿命が縮んだ気がする……」
一方、さくらさんのデスク。
届いたメールを確認した彼女は、静かに微笑んだ。
「……明日も、よろしくお願いします、ですか」
そして、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
「……私も、明日が楽しみです」
そこへ、美咲さんがやってきた。
「さくらさん? 何だか嬉しそうですね?」
「えっ!? そ、そんなことはありませんよ?」
「ふふっ。そうですか?」
「美咲さんこそ、今日は嬉しそうですね。正社員登用、おめでとうございます」
「ありがとうございます! 専務が私の頑張りを認めてくださったんです!」
「……そうですね」
さくらさんは、専務室の方向をちらりと見た。
「本当に……よく頑張っていらっしゃる方ですから」
「はい! 私、これからも頑張ります!」
美咲さんは元気よく答えた。
そして、二人は顔を見合わせて笑った。
ただし、二人とも知らない。
あなたが今、専務室で――。
「もう絶対に添付ファイルを間違えない……! 絶対にだ……!」
と、パソコンに向かって固く誓っていることを。
そして、さくらさんが今夜、あのファイル名を思い出してしまうたびに、少しだけ胸がドキドキしてしまうことも。
恋心を隠したい専務と、知らないうちに恋心を揺さぶられた教育係。
明日もまた、二人の秘密は増えていくのだった。