さくらさんからの優しいお返し
さくらさんからの優しいお返し
午前中。
あなたは、隣の席に座るさくらさんに、ほんの少しだけ意地悪をした。
仕事の資料を渡すとき、わざと一瞬だけ手を引っ込めてみたり。
「さくらさん、今日もお仕事頑張ってますね」
「ありがとうございます。あなたも頑張っていらっしゃいますね」
「……あれ? 今日はずいぶん素直ですね?」
「ふふ。素直に褒めているだけですよ?」
そう言って微笑むさくらさん。
あなたは、その笑顔に心臓を撃ち抜かれそうになりながらも、なんとか平静を装った。
(危ない危ない……! 今の笑顔は反則だろ……!)
そして昼休み。
あなたは庭で一人、午前中の行動を反省していた。
「ちょっとだけ意地悪をしただけなのに……あの人、なんであんなにかわいいんだよ……」
頭を抱える。
「午後は絶対に普通に接しよう。余計なことはしない。目も合わせすぎない。変なことも言わない」
そう決意して、あなたはオフィスへ戻った。
しかし。
あなたは、まだ知らなかった。
さくらさんが、午前中のあなたの行動をきちんと覚えていたことを。
第一章 午後のさくらさんは、少しだけ違う
午後一時。
あなたが席に戻ると、さくらさんはパソコンに向かって仕事をしていた。
いつも通りの姿。
落ち着いた声。
丁寧な言葉遣い。
そして、隣にいるだけで安心するような雰囲気。
(よし。普通だ。さくらさんはいつも通りだ)
あなたは安心して仕事を始めた。
数分後。
「あなた」
「はい?」
「こちらの資料、確認していただけますか?」
「もちろんです」
あなたは資料を受け取ろうと手を伸ばした。
すると、さくらさんは資料を渡す直前に、すっと持ち上げた。
「あれ?」
もう一度手を伸ばす。
すっ。
また少しだけ上へ。
「……さくらさん?」
「はい。どうかなさいましたか?」
さくらさんは、にこりと微笑んでいる。
(……ん?)
あなたは彼女の顔を見つめた。
「資料をいただきたいのですが……」
「そうでしたね。失礼いたしました」
今度こそ、資料が手渡された。
あなたは受け取って、思わず小さくつぶやいた。
「……午前中の仕返し?」
「さて、何のことでしょう?」
さくらさんは、何食わぬ顔でキーボードを打ち始めた。
(この人……!)
あなたは口元を押さえた。
笑ってしまいそうだった。
いや、それよりも。
(かわいい……! いやいや、何を考えてるんだ僕は!)
隣から、くすっと小さな笑い声が聞こえた。
「ふふっ」
(聞こえてる!? 今の心の声、聞こえてるわけないよな!?)
もちろん、心の声までは聞こえていない。
ただ、あなたが慌てている様子が、さくらさんには面白かったのだ。
第二章 今度は、目をそらさせてくれない
午後二時。
二人は並んで、同じプロジェクトの資料を確認していた。
「この数字は、こちらの表と照らし合わせたほうがよさそうですね」
「なるほど。では、僕が確認しておきます」
「ありがとうございます。助かります」
いつも通りの仕事の会話。
あなたは少しずつ落ち着きを取り戻していた。
(よし。今度こそ平常心。さくらさんは教育係。隣の席の先輩。それ以上でもそれ以下でも――)
「あなた?」
「はいっ!?」
声が裏返った。
さくらさんが不思議そうに首をかしげる。
「そんなに驚かなくても大丈夫ですよ?」
「す、すみません! ちょっと考え事を!」
「そうですか。何を考えていらしたんですか?」
「えっ」
(言えるわけないだろ!!)
「……仕事のことです」
「本当ですか?」
さくらさんが、少しだけ顔を近づけた。
「私のことではなく?」
「…………」
あなたの思考が停止した。
カタカタと鳴っていたキーボードの音さえ、遠くに聞こえる。
(え?)
(ええ?)
(今、何て言いました?)
さくらさんは、あなたの顔をじっと見つめていた。
その表情は穏やかで、声も優しい。
けれど、瞳にはほんの少しだけいたずらっぽい光があった。
「ふふっ。冗談ですよ」
さくらさんは、すっと顔を戻した。
「お仕事に集中しましょうね」
「……は、はい」
あなたはパソコンに向き直った。
向き直ったのだが。
(待って待って待って!!)
(今のは何!? 冗談!? 本当に冗談!?)
(僕のこと、からかってる!?)
顔が熱い。
耳まで熱い。
心臓が、ドクン、ドクンと鳴っている。
その隣で、さくらさんは涼しい顔をして仕事を続けていた。
ただし。
キーボードを打つ指が、ほんの少しだけ止まっていたことに、あなたは気づかなかった。
(……少し、やりすぎましたでしょうか?)
さくらさんもまた、平静を装っていたのである。
第三章 優しいちょっかいは、まだ終わらない
午後三時。
休憩時間になり、あなたはコーヒーを取りに行こうと立ち上がった。
すると、さくらさんが声をかけた。
「あなた。コーヒーを取りに行かれるんですか?」
「はい。さくらさんもいかがですか?」
「ありがとうございます。お願いしてもよろしいですか?」
「もちろんです」
あなたは給湯スペースへ向かった。
そして数分後。
ブラックコーヒーを二つ持って戻ってきた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
さくらさんはコーヒーを受け取ると、ふとあなたの顔を見た。
「……あの」
「はい?」
「午前中、私に少し意地悪をなさいましたよね?」
「ぶっ!?」
危うくコーヒーをこぼしかけた。
「な、何のことでしょうか!?」
「資料を渡してくださるとき、わざと少しだけ引っ込めたり……」
「…………」
「それから、私が褒めたときも、少し楽しそうにしていらっしゃいましたね」
「…………」
「私、ちゃんと覚えていますよ?」
にっこり。
優しい笑顔。
しかし、あなたにはその笑顔が、なぜかとてもまぶしく見えた。
「……すみませんでした」
「いえ。怒ってはいませんよ」
さくらさんはコーヒーを一口飲んだ。
そして、少しだけ声を柔らかくした。
「ただ……あなたにばかり、からかわれるのも悔しいですから」
「……え?」
「ですから、午後は私の番です」
「……ええっ!?」
さくらさんは、楽しそうに笑った。
「ふふっ。覚悟してくださいね?」
(覚悟!?)
(何の覚悟!?)
あなたはコーヒーカップを持ったまま固まった。
その様子を見たさくらさんは、とうとう声を出して笑ってしまった。
「ふふふっ……! すみません。そんなに驚かれるとは思いませんでした」
「さくらさん……!」
「はい?」
「今日、ちょっと意地悪じゃありませんか……?」
あなたが抗議すると、さくらさんは少しだけ頬を緩めた。
「午前中のあなたほどではありませんよ?」
「うっ……!」
完全敗北だった。
第四章 最後の一撃は、帰り際に
午後五時半。
今日の業務が終わり、あなたはパソコンをシャットダウンした。
(なんとか終わった……)
午後は大変だった。
資料を渡すたびに、さくらさんが意味ありげに微笑む。
質問をすると、いつもより少しだけ優しい声で答えてくれる。
目が合えば、にこり。
あなたが慌てれば、くすり。
しかも、すべて自然な振る舞いなので、文句を言う隙がない。
(……もう、勘弁してください)
あなたは心の中で降参した。
すると、隣から声がした。
「あなた。今日はお疲れさまでした」
「お疲れさまでした、さくらさん」
「午前中から、ずいぶん楽しかったですね」
「……午後は特に、ですね」
「ふふっ。そうですね」
さくらさんは帰り支度を整え、あなたのほうを向いた。
「ところで」
「はい?」
「明日も、私にちょっかいをかけてくださるんですか?」
「…………えっ?」
「それとも、今日で懲りてしまいましたか?」
その笑顔は、いつもと同じように優しかった。
あなたは答えに困った。
ここで「もうしません」と言えば、負けたような気がする。
しかし、「またやります」と言えば、明日も今日のような午後が待っているかもしれない。
(どっちを選んでも、僕の心臓がもたない!!)
「……さくらさんが嫌でなければ」
あなたは、できる限り自然な声で答えた。
「また、少しだけなら」
言ってから、しまったと思った。
さくらさんが目を丸くする。
それから。
ふわり、と笑った。
「……そうですか」
その笑顔は、午後に見せていたいたずらっぽいものとは少し違っていた。
どこか嬉しそうで。
ほんの少し、照れているようにも見えた。
「では、明日も楽しみにしていますね」
「…………」
ドクン。
あなたの心臓が、大きく跳ねた。
「お、お疲れさまでした!!」
あなたは逃げるように立ち上がった。
「はい。お疲れさまでした」
さくらさんは、笑顔であなたを見送った。
あなたがオフィスを出ていく直前。
「……あ、あなた」
「は、はい!?」
振り返る。
さくらさんは、いつもの丁寧な口調で言った。
「明日は、私から先にちょっかいをかけるかもしれませんので」
にこっ。
「油断なさらないでくださいね?」
「…………」
あなたは無言で頭を下げ、オフィスを出た。
そして廊下の角を曲がった瞬間。
「~~~~っ!!」
声にならない声を上げ、壁に手をついた。
(明日も!?)
(先に!?)
(さくらさんから!?)
(そんなの、どうやって平常心でいればいいんだよ!!)
あなたは深呼吸を繰り返した。
一方、その頃。
オフィスに残ったさくらさんは、あなたが使っていた椅子をちらりと見ていた。
そして、小さくつぶやく。
「……本当に、かわいらしい方ですね」
言った瞬間、自分の発言に気づいた。
「……っ!」
さくらさんは、慌てて口元を押さえた。
「い、いえ……今のは、その……!」
誰もいないオフィスで、一人だけ赤くなる。
しばらくして、さくらさんは両手で頬を押さえながら、小さく笑った。
「……明日も、楽しみです」
その声は、いつもよりずっと柔らかかった。