「会社のお祭りと、二人きりの視察デート」
「会社のお祭りと、二人きりの視察デート」
今日は、会社が地域交流の一環として開催する、年に一度のお祭りの日だった。
会場にはたくさんの屋台が並び、社員たちが法被を着て走り回っている。焼きそばの香り、楽しそうな笑い声、遠くから聞こえる太鼓の音。
普段の会社とはまるで違う、にぎやかな一日だった。
あなたは専務として、会場の運営状況を確認するために視察に来ていた。
「よし……各部署の出店も問題なさそうだな」
手元のチェックリストを確認しながら歩いていると、後ろから聞き慣れた声がした。
「専務、お疲れさまです」
振り返ると、そこにはさくらさんがいた。
いつもの落ち着いた笑顔。今日は仕事用の服装に、イベント用の小さな名札をつけている。
「さくらさん! お疲れさまです。今日はよろしくお願いします」
「はい。私も視察のお手伝いをさせていただきますね」
「ありがとうございます。では、一緒に回りましょう」
「はい♪」
……今、笑顔がいつもよりかわいくなかったか?
いやいや、落ち着け。
これは仕事だ。
あくまでも視察。
そう、自分に言い聞かせながら、あなたは歩き始めた。
しかし、この時点ではまだ知らなかった。
今日の視察が、あなたにとって忘れられない一日になることを。
第一話 お祭りの視察……のはずだった
「専務、こちらの屋台は社員食堂の皆さんが担当されているそうです」
「へえ、焼きそばにたこ焼き、綿あめまであるんですね」
「そうですね。どれもおいしそうです」
さくらさんは屋台を眺めながら、楽しそうに微笑んだ。
あなたはその横顔を見て、思った。
(……さくらさん、お祭り好きなのかな)
「さくらさんは、こういうお祭りって好きですか?」
「はい。実は、結構好きなんです」
「そうなんですか?」
「ええ。ただ、仕事で来ることが多いので、ゆっくり見て回る機会はあまりなくて……」
「なるほど。今日は視察ですけど、少しくらい楽しんでもいいと思いますよ」
あなたがそう言うと、さくらさんは少し驚いた顔をした。
「……専務は、そういうところがお優しいですね」
「えっ?」
「いえ、何でもありません」
さくらさんは口元を押さえ、ほんの少しだけ顔をそらした。
(……今の、どういう意味だ?)
あなたの心臓が、ドクンと鳴る。
(いやいやいや! 褒められただけだ! 変な期待をするな、僕!)
恋心を知られてはいけない。
それが、あなたの絶対に守るべきルールだった。
……なのに。
「専務、次はこちらへ行きましょう?」
「は、はい!」
さくらさんに笑顔で呼ばれるだけで、あなたの心は落ち着かなくなるのだった。
第二話 まさかの二人きり
会場の奥へ進んでいくと、運営本部から連絡が入った。
『専務、申し訳ありません! 急きょ別の場所で確認事項が発生しました。各部署の担当者も対応に向かいます!』
「わかりました。こちらは僕たちで確認しておきます」
通話を終えたあなたは、さくらさんを見た。
「どうやら、皆さん忙しくなってしまったみたいですね」
「そうですね……。こちらの確認は、私たち二人で進めましょうか」
「ええ、お願いします」
こうして、気がつけば二人だけで会場を回ることになった。
周囲には楽しそうな家族連れ。
浴衣姿の人々。
手を振り合う社員たち。
そして、あなたの隣にはさくらさん。
(…………)
(……待て)
(これ……)
あなたは屋台の看板を見つめながら、心の中で叫んだ。
(これ、デートじゃん!!)
いや、違う。
これは会社のイベントだ。
仕事である。
正式な視察であり、決してデートなどではない。
……ないはずだ。
「専務?」
「は、はいっ!?」
「先ほどから、ずいぶん静かですね。お疲れでしょうか?」
さくらさんが心配そうに顔をのぞき込んでくる。
距離が近い。
いつもより近い。
(待って待って待って! 顔が近い!)
「い、いえ! 大丈夫です! まったく疲れてません!」
「そうですか? でも、少し顔が赤いような……」
「こ、これは! お祭りで暑いからです!」
「ふふっ。そうですね。今日は少し暑いですものね」
さくらさんは納得したように笑った。
(危なかった……!)
あなたは胸をなで下ろした。
しかし、さくらさんはその横で、小さくつぶやいていた。
「……二人きり、ですね」
「えっ?」
「いえ、何でもありません♪」
(聞こえてます! 聞こえてますからね!?)
あなたの心臓は、すでに仕事どころではなかった。
第三話 さくらさんと、りんご飴
しばらく歩いていると、さくらさんが一軒の屋台の前で立ち止まった。
「……あ」
「どうしました?」
「いえ。りんご飴があるな、と思いまして」
屋台には、赤くつやつやしたりんご飴が並んでいた。
さくらさんは少しだけ目を輝かせている。
(……もしかして、食べたいのかな?)
「さくらさん、よかったら買っていきませんか?」
「えっ? ですが、視察中ですし……」
「少しくらいなら大丈夫ですよ。僕も、運営の皆さんへの差し入れを買おうと思っていましたから」
「……では、お言葉に甘えて」
さくらさんは嬉しそうに頷いた。
あなたはりんご飴を二つ購入し、一つを彼女に渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。……ふふっ、何だか懐かしいですね」
「子どもの頃にも食べたんですか?」
「はい。お祭りに行くと、必ず買ってもらっていたんです」
「へえ、いい思い出ですね」
さくらさんはりんご飴を見つめ、優しく笑った。
その表情を見て、あなたも自然と微笑んでいた。
「……専務?」
「はい?」
「今日は、いつもより楽しそうですね」
「えっ、そうですか?」
「はい。会社では、いつもお仕事のことばかり考えていらっしゃるので」
「……そうかもしれませんね」
あなたは少しだけ照れくさくなった。
「でも、今日は……」
言いかけて、止まる。
(危ない! 今、何を言おうとした!?)
さくらさんが首をかしげた。
「今日は?」
「……お祭りが、楽しいなと思いまして!」
「……そうですか」
さくらさんは一瞬だけあなたを見つめたあと、ふわりと微笑んだ。
「私もです」
その笑顔に、あなたはまた胸を撃ち抜かれた。
(……好きだなあ)
心の中だけで、そっと認める。
(やっぱり、僕はさくらさんが好きだ)
けれど、口には出せない。
絶対に、知られてはいけないのだから。
第四話 観覧席で、まさかの休憩
視察も終盤に差しかかった頃、二人は会場の端にある休憩用のベンチへやってきた。
「少し休憩しましょうか。ずっと歩いていましたから」
さくらさんが提案する。
「そうですね。僕も少し休みたいです」
二人並んでベンチに腰を下ろした。
目の前では、子どもたちが楽しそうに輪投げをしている。
遠くからは太鼓の音。
夕方の風が、心地よく吹いていた。
「……こうしていると、仕事を忘れてしまいそうですね」
さくらさんが、ぽつりと言った。
「確かに。会社の中にいると、なかなかこういう時間はありませんから」
「はい。……でも」
「でも?」
さくらさんは、りんご飴の包みを丁寧にたたみながら、少しだけ声を小さくした。
「今日、専務と一緒に回れてよかったです」
「…………え?」
あなたの思考が、一瞬停止した。
「さくらさん……今、何と?」
「ですから、一緒に回れてよかった、と」
「そ、それは……仕事として、ですよね?」
思わず確認してしまった。
すると、さくらさんは目を丸くした。
「……仕事として?」
「い、いえ! 何でもありません!」
(何を聞いてるんだ僕はあああああ!!)
あなたは両手で顔を覆いたくなった。
すると、隣から小さな笑い声が聞こえてきた。
「ふふっ……専務って、時々かわいらしいですね」
「…………」
今度こそ、完全に固まった。
(かわいい!? 今、かわいいって言った!?)
「さ、さくらさん……それは、その……」
「冗談ですよ♪」
そう言いながらも、さくらさんの頬はほんのり赤かった。
(……本当に冗談なのかな)
そんな期待を抱いてしまう自分が、どうしようもなく恥ずかしかった。
第五話 帰り道の、ずるい一言
日が傾き、会場の提灯に明かりが灯り始めた。
視察は無事に終了。
運営状況も問題なく、社員たちからも好評だった。
「今日はお疲れさまでした、専務」
「さくらさんも、お疲れさまでした。おかげで助かりました」
「いえ。私も楽しかったです」
二人は帰路についた。
会社へ戻る道の途中、さくらさんがふと足を止めた。
「……専務」
「はい?」
「また、こういうイベントがあったら……」
「はい」
「……一緒に回っていただけますか?」
「…………」
あなたは、危うくその場で立ち止まるところだった。
(それは……!)
(それはもう……!)
(次のデートのお誘いじゃないですか!?)
もちろん、口に出すことはできない。
あなたは必死に平静を装い、いつもの専務らしい笑顔を作った。
「もちろんです。仕事ですからね!」
……言った瞬間、後悔した。
(仕事ですからね、って何だよ! もっと言い方があっただろ!)
しかし、さくらさんは怒るどころか、くすっと笑った。
「……はい。お仕事、ですね」
その言い方が、なぜか少しだけ意味深だった。
そして彼女は、いつもより柔らかい声で続けた。
「でも、今日みたいに楽しいお仕事なら、私は大歓迎です」
「……っ!」
心臓が、ドクンッと大きく跳ねた。
あなたは顔をそらし、夕焼けを眺めた。
「……そうですね。僕も、楽しかったです」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
さくらさんは、そんなあなたを横目で見て、優しく微笑んでいた。
(……専務)
(今日、何度も顔を赤くされていましたね)
(もしかして……)
彼女はそこまで考えて、小さく首を振る。
(……いえ。まだ、確かめるのは早いですね)
そして、何事もなかったように歩き始めた。
「専務、帰りましょう?」
「は、はい!」
あなたは慌てて後を追った。
エピローグ 専務室にて
その日の夜。
あなたは専務室の椅子に座り、今日のチェックリストを整理していた。
仕事は完璧。
視察も成功。
問題は何一つない。
……ただし。
「…………」
あなたは机に突っ伏した。
(今日……何だったんだ……)
りんご飴を買って。
二人でベンチに座って。
さくらさんに「一緒に回れてよかった」と言われて。
挙げ句の果てには、次も一緒に回りたいとまで言われた。
(いや、仕事だ。仕事なんだ……)
(でも……)
あなたは顔を上げ、窓の外を見つめた。
「……デートみたいだったな」
ぽろりと、本音がこぼれた。
その瞬間。
コンコン。
「専務、まだいらっしゃいますか?」
「!?」
聞き慣れた声。
さくらさんだった。
「は、はい! どうぞ!」
扉が開き、さくらさんが顔をのぞかせる。
「お疲れさまです。忘れ物をしてしまいまして……」
「ああ、そうだったんですね」
さくらさんは机の上の書類を確認したあと、ふとあなたを見た。
「……専務」
「は、はい?」
「今日は、本当にありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
「……また、一緒に行きましょうね」
にこっ。
最高に優しい笑顔。
あなたの心臓が、ドクンッ!!
「は、はい! ぜひ!」
さくらさんは満足そうに頷き、扉の前で振り返った。
「それでは、お先に失礼いたします。……おやすみなさい、専務♪」
扉が閉まる。
静寂。
そして――。
「…………」
あなたはゆっくりと椅子にもたれかかった。
「……もう、無理だ」
両手で顔を覆う。
「好きになっちゃうだろ……こんなの……」
もちろん、すでに好きだった。
とっくの昔から。
ただ、その気持ちを知られてはいけないだけで。
一方、その頃。
廊下を歩くさくらさんも、誰もいない場所でそっと頬に手を当てていた。
「……今日の専務、いつも以上にかわいらしかったですね」
そして、ほんの少しだけいたずらっぽく微笑む。
「次のお祭りも……楽しみです♪」
――こうして、会社のお祭り視察は無事に終了した。
ただし。
専務の心の中では、恋心がこれまでにないほど大騒ぎしていたのだった。
そして、さくらさんがそのことに気づいているのかどうかは……まだ、誰にもわからない。
いや。
もしかしたら、彼女はもう、とっくに気づいているのかもしれない。