「予定のない一日と、専務をこっそり手伝う女性秘書」
「予定のない一日と、専務をこっそり手伝う女性秘書」
朝。
あなたは専務室でパソコンを開き、今日の予定を確認していた。
「……よし。予定なし」
画面には、会議も打ち合わせも来客予定も表示されていない。
「久しぶりに、のんびりできそうだなぁ……」
あなたは椅子に深く腰掛け、ボカロの曲を流し始めた。
一曲聴き終わると、ふと思い立ったように立ち上がる。
「……そうだ。今日は時間があるし、久しぶりに清掃員さんのお手伝いでもしようかな」
実はあなた、専務という立場になってからも、時々こっそり清掃を手伝っていた。
理由は単純。
いつも会社を綺麗にしてくれている清掃員さんたちに、感謝しているからだ。
それに、普段は忙しくて話せない社員たちとも交流できる。
「よし。専務室を出る前に、清掃道具を借りてこよう」
あなたは誰にも気づかれないよう、そっと専務室を後にした。
もちろん、本人は気づいていない。
このあと、思わぬ人物がやってくることを。
1.専務を探す女性秘書
午前十時。
専務室の前に、一人の女性がやって来た。
女性秘書のゆりさんである。
手には書類の入ったファイル。
「専務に、先ほどの報告をしなければ……」
ゆりさんは軽くノックした。
コンコン。
「失礼いたします。専務、いらっしゃいますか?」
……返事がない。
もう一度、ノックする。
「専務?」
やはり返事はなかった。
ドアを少しだけ開けて中を確認するが、あなたの姿はない。
「……あら? お出かけでしょうか?」
机の上には、きちんと整えられた書類。
パソコンの画面には、今日の予定が表示されていた。
『本日、予定なし』
ゆりさんは首を傾げた。
「予定がないとおっしゃっていたはずですが……」
どこかへ出かけたのだろうか。
そう思いながら廊下を歩いていると、遠くから聞き慣れた声がした。
「すみません、この辺りも拭いておきますね!」
ゆりさんは足を止めた。
「……今の声、まさか?」
声のする方へ向かう。
そして、角を曲がった瞬間。
「……えっ?」
ゆりさんは思わず目を丸くした。
そこにいたのは――。
スーツの袖を少しまくり、モップを手に持ったあなた。
しかも、清掃員さんと楽しそうに話しながら、床を磨いていた。
「この辺り、結構汚れがたまりますね。いつもありがとうございます」
「いえいえ、専務にまで手伝っていただいて、こちらこそ恐縮です!」
「いやいや、普段お世話になっていますから!」
ゆりさんは、口元を押さえた。
(……専務!?)
(どうして専務が清掃を……!?)
驚きのあまり、声をかけることもできない。
けれど、すぐにゆりさんの表情が柔らかくなった。
(……そっか)
(こういうところ、本当にお優しいのね)
そして彼女は、あることを思いついた。
(……よし。私もお手伝いしよう)
ただし。
あなたに気づかれないように。
2.正体を隠したお手伝い
ゆりさんは、いったん廊下の角へ戻った。
そして、近くにいた清掃員さんに小声で尋ねる。
「すみません。私も少しお手伝いしたいのですが、道具をお借りできますか?」
清掃員さんは驚いたものの、すぐに笑顔になった。
「もちろんですよ!」
「ありがとうございます。あの……専務には、私が来たことを内緒にしていただけますか?」
「ふふっ、かしこまりました」
ゆりさんはモップと布巾を受け取り、あなたから少し離れた場所で清掃を始めた。
キュッ、キュッ。
床を拭きながら、あなたの様子をちらちらとうかがう。
あなたは、まったく気づいていない。
「うーん……この汚れ、なかなか手強いですね」
ゴシゴシ。
「でも、綺麗になっていくのを見ると気持ちいいなぁ」
その言葉を聞いて、美月さんは小さく笑った。
(……専務、楽しそう)
普段のあなたは、専務室で仕事をこなし、社員の相談に乗り、時には誰よりも遅くまで残っている。
そんなあなたが、今日はモップを持って笑っている。
ゆりさんにとっては、少し新鮮な光景だった。
すると、あなたが突然立ち上がった。
「あっ、そうだ。あっちの窓も拭いておこう!」
ゆりさんは慌てて顔を伏せた。
(あっ、こっちに来る!)
あなたは布巾を手に、窓の方へ歩いてくる。
ゆりさんは、何食わぬ顔で窓の反対側を拭き始めた。
あなたは隣に立つと、軽く会釈した。
「お疲れさまです!」
「お、お疲れさまです!」
ゆりさんは、声が少し裏返りそうになるのを必死にこらえた。
あなたは気づかず、窓を拭き始める。
「今日はいい天気ですねぇ」
「そ、そうですね」
「こうして掃除していると、気分転換になりますね」
「……はい。本当に」
(だめ……!)
(いつもと同じように返事をするだけなのに、妙に緊張する……!)
ゆりさんは、あなたの横顔をちらりと見た。
あなたは真剣な顔で窓を拭いている。
そして、汚れが落ちたのを確認すると――。
「よしっ! 綺麗になりました!」
満面の笑顔。
ゆりさんは、一瞬だけ手を止めた。
(……あ)
(その笑顔、ずるいです……)
なぜか胸が温かくなった。
けれど、あなたは相変わらず気づかない。
「それじゃ、次はあっちですね!」
元気よく移動するあなた。
ゆりさんは、慌てて後を追った。
(……もう少しだけ、お手伝いしよう)
3.専務、まさかの迷推理
しばらくして。
あなたは廊下の床を拭きながら、ふと首を傾げた。
「……あれ?」
ゆりさんの心臓が跳ねた。
(えっ!? 気づかれた!?)
あなたはモップを止め、周囲を見渡す。
「なんだか、今日の清掃……いつもより進みが早い気がする」
ゆりさんは、顔を伏せたまま布巾を動かす。
(……!)
「さっきから、拭こうと思ったところが、もう綺麗になってるんですよね」
あなたは真剣に考え込んだ。
「もしかして……清掃員さんたち、今日は特別な作戦でも立てているのかな?」
(違います! 私です!)
ゆりさんは心の中で叫んだ。
あなたはさらに考える。
「いや、もしかしたら……清掃の効率化を極めた、伝説の清掃チームがいるのかもしれない!」
「ぷっ……!」
思わずゆりさんの口から小さな笑い声が漏れた。
あなたが振り返る。
「……あれ? 今、誰か笑いました?」
ゆりさんは、すぐに咳払いした。
「こ、こほん。失礼しました」
「大丈夫ですか? 風邪ですか?」
「いえ! 大丈夫です!」
「そうですか。無理しないでくださいね」
「……ありがとうございます」
(優しい……!)
(しかも、私が正体を隠していることに、まったく気づいていない……!)
ゆりさんは、思わず笑顔になった。
その後も、あなたは真剣に清掃を続けた。
そしてついに、廊下全体がピカピカになった。
「おおお……!」
あなたは、光を反射する床を見て感動した。
「すごい! 今日は本当に綺麗になりましたね!」
ゆりさんも、隣でうなずく。
「……はい。とても綺麗です」
「皆さんのおかげですね!」
あなたが嬉しそうに言うと、ゆりさんは少しだけ視線を逸らした。
(……専務のおかげでもありますよ)
けれど、それはまだ秘密だった。
4.報告に来たはずなのに
清掃がひと段落したところで、あなたは時計を確認した。
「おっと、もうこんな時間か。そろそろ専務室に戻ろう」
ゆりさんは、心の中で慌てた。
(あっ! 報告!)
(そうだった、私は報告に来たんだった!)
あなたは清掃員さんたちに頭を下げた。
「皆さん、今日はありがとうございました! また時間があったら手伝わせてください!」
「こちらこそ、ありがとうございました!」
あなたは満足そうに専務室へ戻っていった。
その背中を見送ってから、ゆりさんも慌てて清掃道具を返却した。
そして、少し時間を空けてから専務室へ。
コンコン。
「失礼いたします。専務、先ほどのご報告に参りました」
「はい、どうぞ!」
あなたはいつも通り、椅子に座っていた。
スーツも整え、パソコンの前で仕事を始めている。
ゆりさんは、思わずさっきの光景を思い出した。
(……さっきまで、モップを持っていたのに)
(今はもう、いつもの専務ですね)
あなたは書類を受け取り、目を通した。
「なるほど……。ありがとうございます。内容は確認しました。後ほどこちらで対応しておきますね」
「かしこまりました」
報告は滞りなく終わった。
しかし、ゆりさんはなかなか部屋を出ようとしなかった。
あなたが顔を上げる。
「……ゆりさん? 何かほかにも報告が?」
「い、いえ! そういうわけでは……!」
「?」
ゆりさんは、少し迷った。
せっかくなので、聞いてみたい。
「あの、専務」
「はい?」
「今日は……どこかへお出かけになっていたのですか?」
あなたは、きょとんとした。
「え? いえ、ずっと社内にいましたけど」
「……そうなのですね」
「午前中はちょっと、清掃のお手伝いをしていました」
「……!」
ゆりさんは、思わず固まった。
あなたは、特に隠すつもりもなかったらしい。
「あ、でも、皆さんには内緒ですよ? 専務が掃除しているなんて知られたら、気を遣わせちゃうかもしれませんから」
そう言って、あなたは困ったように笑った。
「もちろん、清掃員さんたちには感謝していますけどね」
ゆりさんは、しばらくあなたを見つめていた。
それから、ふっと微笑んだ。
「……専務らしいですね」
「えっ?」
「いえ。とても素敵だと思います」
「そ、そうですか? ありがとうございます……?」
あなたは少し照れくさそうに頭をかいた。
ゆりさんは、心の中で決めた。
(……さっきのことは、秘密にしておきましょう)
(でも、また専務がお手伝いをされる日があったら……)
(今度は、もっと自然にお手伝いできるようにしよう)
彼女は一礼して、専務室を出ていった。
扉が閉まる直前。
「……あっ、そうだ」
ゆりさんが振り返った。
「専務。今日はお疲れさまでした」
「? はい! ゆりさんもお疲れさまです!」
あなたはいつも通りの笑顔で返した。
ゆりさんは、その笑顔を見て小さく笑う。
「……ふふっ」
そして、今度こそ扉を閉めた。
5.そして、さくらさんに知られかける
午後。
あなたが専務室でボカロを聴きながら仕事をしていると、さくらさんがやって来た。
「失礼いたします。専務、少しよろしいでしょうか?」
「はい、さくらさん。どうぞ!」
さくらさんは書類を机に置き、あなたの顔を見た。
「……今日は、ずいぶんご機嫌ですね?」
「えっ? そうですか?」
「はい。朝から、なんだか楽しそうです」
(まずい……!)
あなたは内心、焦った。
まさか清掃をしていたことがバレたのだろうか。
「い、いやぁ……今日は予定がなかったので、気分転換ができたんですよ!」
「そうですか?」
さくらさんは、じっとあなたを見つめた。
「……何か、いいことでもありましたか?」
「な、ないですよ!?」
「……ふふっ。そんなに慌てなくても大丈夫ですよ」
さくらさんは優しく微笑んだ。
しかし、その視線があなたの袖口に止まった。
「……あら?」
「えっ?」
「専務。袖に、少しだけ白い繊維がついていますよ?」
「…………」
あなたの顔が固まった。
(清掃用の布巾……!)
さくらさんは、ゆっくりと首を傾げる。
「……もしかして」
「ち、違います!」
「まだ何も言っていませんよ?」
「……あっ」
しまった。
完全に墓穴を掘った。
さくらさんは口元を押さえて、くすっと笑った。
「……もしかして、また清掃のお手伝いをされたのですか?」
「…………はい」
あなたは観念してうなずいた。
「皆さんに、いつもお世話になっていますから……。少しでもお返しできればと思いまして」
さくらさんは、しばらく黙っていた。
そして、ふわりと微笑んだ。
「……本当に、専務はお優しいですね」
「い、いえ……そんな大したことでは……」
「いいえ。私は、そういうところも素敵だと思いますよ」
「…………っ!?」
ドクン。
心臓が跳ねた。
(ま、待って!?)
(今、素敵って言いました!?)
さくらさんは何事もなかったように書類を開いた。
「ただし、清掃をされる際は、どうか無理をなさらないでくださいね。専務のお仕事もございますから」
「は、はい……!」
「約束ですよ?」
優しい声。
柔らかい笑顔。
あなたは、顔が熱くなるのを感じながら、必死にうなずいた。
「……や、約束します」
さくらさんは満足そうに微笑んだ。
「よろしいです」
そのまま仕事の話を始めるさくらさん。
しかし、あなたはもう、仕事どころではなかった。
(……素敵って)
(さくらさんに……素敵って言われた……)
ドクン、ドクン。
心臓の音が止まらない。
さくらさんは、そんなあなたを横目で見ながら、少しだけ頬を赤くした。
(……清掃をしている姿も、きっと素敵だったのでしょうね)
実は、ゆりさんから、あなたが清掃を手伝っていたことをこっそり聞いていたのだ。
ただし、ゆりさんが一緒に手伝っていたことは、まだ秘密。
さくらさんは、あえて何も言わなかった。
(……次は、私もお手伝いしてみようかしら)
そんなことを考えながら、いつも通り優しく仕事を教えるのだった。
エピローグ:秘密の清掃仲間
その日の夕方。
廊下で偶然顔を合わせた美月さんとさくらさん。
ゆりさんが小声で尋ねた。
「……さくらさん。専務に、清掃のことをお話しになったのですか?」
「ええ。少しだけ」
「ふふっ。実は私も、今日こっそりお手伝いしたんです」
「まあ……!」
さくらさんは目を丸くした。
「専務には気づかれませんでした?」
「まったくです。伝説の清掃チームだと思われていました」
「……ふふっ!」
さくらさんは、思わず笑ってしまった。
「専務らしいですね」
「はい。とても楽しそうでした」
二人は顔を見合わせ、くすくすと笑った。
そしてゆりさんが、そっと提案した。
「……今度、さくらさんも一緒にいかがですか?」
「えっ?」
「専務に気づかれないように、こっそり清掃するんです」
さくらさんは少し考えたあと、柔らかく微笑んだ。
「……そうですね。面白そうです」
「決まりですね!」
「ただし、専務に無理をさせないことが第一ですよ?」
「もちろんです!」
二人は、秘密の約束を交わした。
一方その頃。
専務室のあなたは、ボカロを聴きながら、のんびりと椅子に座っていた。
「……今日はいい一日だったなぁ」
まさか、自分が清掃していた姿を見て、二人の女性がこっそり笑い合っていたなんて。
そして次回は、さくらさんまで清掃に参加する計画が立てられているなんて。
あなたは、まだ知る由もなかった。
「……明日も予定がなかったら、また掃除しようかな?」
その瞬間。
廊下の向こうで、さくらさんとゆりさんの声が聞こえた。
「……次こそは、私たちも気づかれないようにしましょうね」
「はい、さくらさん!」
あなたは首を傾げた。
「……ん? 何か楽しそうな話をしているな?」
そして、いつものように仕事へ戻る。
恋心も、秘密の清掃仲間も、まだまだあなたには知られてはいけないのでした。