「社員名簿のさくらさんと、突然決まった課長昇進」
「社員名簿のさくらさんと、突然決まった課長昇進」
朝。
あなたは専務室に到着すると、いつものようにパソコンを起動した。
「さて……今日は何から始めようかな」
コーヒーを机に置き、マウスを握る。
カチッ。
画面には社員たちの情報が一覧で表示されていた。
勤務状況、業務実績、最近の評価、昇進候補者。
あなたは専務として、社員たち一人ひとりの頑張りを確認していた。
「おっ、この人、最近すごく頑張ってるな。こっちの人も仕事が早くなってる……」
画面をスクロールしていく。
そして。
あなたの指が、ぴたりと止まった。
「……あ」
そこに表示されていた名前。
さくら。
「…………」
あなたは思わず背筋を伸ばした。
「いやいや、仕事だ。これは仕事。社員の評価を確認しているだけだからな」
誰もいない専務室で、わざわざ自分に言い聞かせる。
しかし、名前を見つめていると。
ドクン。
「……っ」
ドクンドクン。
胸の音が、いつもより大きくなった。
「な、なんでだよ……。名前を見ただけだぞ?」
もちろん、画面の中のさくらさんは、いつもと変わらない。
けれど、あなたにとっては違った。
教育係だった頃から、仕事を教えてくれたこと。
困っていると助けてくれたこと。
あなたが無理をすると、心配そうに声をかけてくれること。
そして、ときどき見せてくれる、あの優しい笑顔。
思い出すたびに、胸が落ち着かなくなる。
「……仕事に集中しよう」
あなたは慌てて別の社員の項目をクリックした。
カチッ。
「よし、次……」
カチッ。
「……さくらさん」
また名前を見つけてしまった。
ドクンドクン!
「だから、なんでだよ!?」
思わず小声でツッコミを入れるあなた。
当然、返事はない。
「……はあ。誰にも見られてなくてよかった」
あなたは深呼吸をして、改めて画面を確認することにした。
すると、あることに気づいた。
「ん? 待てよ……」
社員配置の一覧を開く。
部長、課長、主任、一般社員。
各部署の役職を確認していくと、ひとつの部署に課長の席が空いていた。
「そういえば、ここ……課長がいないんだったな」
あなたは椅子の背もたれに寄りかかった。
その部署は最近、業務量が増えている。
社員たちもよく頑張っているが、現場をまとめる人が不足していた。
「新しく課長を置いたほうがいいな。現場の負担も減るだろうし……」
そこで、あなたはふと思い出した。
最近、社員たちの相談に乗り、後輩の仕事も手伝い、難しい案件まで丁寧に処理している人がいた。
そう。
さくらさんだ。
「…………」
ドクン。
「いや、待て待て待て」
あなたは自分の頬を軽く叩いた。
「好きだから昇進させるなんて、そんなことは絶対に駄目だ。ちゃんと実績で判断しないと」
あなたは改めて、さくらさんの評価記録を確認した。
業務の正確さ。
後輩への指導。
部署間の調整。
トラブルへの対応。
どれも、以前より明らかに成長していた。
さらに、周囲の社員からの評価も高い。
あなたは小さくうなずいた。
「……うん。これなら十分だ」
そして、内線電話を手に取った。
「人事の美月さんをお願いします」
しばらくすると、電話がつながった。
『はい、人事部の美月です。どうされましたか、専務?』
「美月さん、今ちょっと相談したいことがあるんだけど」
『はい。何でしょう?』
「課長の席がひとつ空いているでしょう? 最近、業務量が増えている部署があるから、そこに課長を置きたいんだ」
『なるほど。候補者はいらっしゃいますか?』
「……さくらさんを考えている」
電話の向こうで、少し間が空いた。
『さくらさんですか?』
「うん。最近の実績を確認したんだけど、かなり頑張ってる。後輩の指導もできるし、部署間の調整も上手になっている。本人の能力と実績を考えると、候補に入れていいと思うんだ」
『確かに、最近のさくらさんは目覚ましい成長をされていますね。人事の記録でも評価が上がっています』
「やっぱりそうか」
『ただ、課長になると責任も増えます。本人の希望や、異動先の業務との相性も確認したいですね』
「もちろん。そこは丁寧に進めよう。無理に押しつけるつもりはないから」
『承知しました。それでは、昇進候補として正式に検討しましょう。必要な確認を進めます』
「ありがとう、美月さん。助かるよ」
通話を終えたあなたは、パソコンに向き直った。
そして、さくらさんの名前をもう一度見た。
「……課長か」
これまで教育係としてあなたを支えてくれた人。
今では、あなたの会社を支える大切な社員のひとりだ。
「さくらさんなら、きっとできると思う」
自然と、笑みがこぼれた。
その瞬間。
ドクンドクン。
「……うっ」
また胸が鳴った。
「いや、今のは純粋に応援したい気持ちだから! たぶん!」
誰も聞いていないのに、必死に言い訳をする専務だった。
◆ 午後、人事部の美月さんが動き出す
昼過ぎ。
人事部では、美月さんがさくらさんの評価資料を確認していた。
「やっぱり、専務の見ているところは細かいわね……」
資料には、さくらさんの最近の成果が整理されていた。
後輩の成長を支え、困っている社員を助け、難しい案件も着実に進めている。
「本人は、きっと自分の頑張りを当たり前だと思っているんでしょうね」
美月さんは微笑んだ。
「これは、本人の希望も聞いてみないと」
一方、その頃。
さくらさんは自分の席で書類を整理していた。
「……ふう。これで今日の分は終わりですね」
書類をそろえ、パソコンを閉じようとしたとき、同僚が声をかけてきた。
「さくらさん、最近ますます頼りになりますね!」
「い、いえ。そんなことはありませんよ。皆さんが協力してくださるおかげです」
「またまた。後輩の相談にも乗っているじゃないですか」
「困っている方がいたら、お手伝いしたいですから」
さくらさんは、いつもの穏やかな笑顔を見せた。
けれど、その胸の内には別の思いもあった。
(……専務も、頑張っていらっしゃいますよね)
最近、あなたが社員たちのために動いている姿を何度も見かけていた。
仕事を割り振り、社員の相談に乗り、ときには自分で清掃までしてしまう。
(もう少し、ご自分のことも大切にしていただきたいのですが……)
さくらさんは小さく息をついた。
そして、ふと専務室のほうを見た。
(……今日も、お忙しいのでしょうか)
なぜか、あなたの顔が浮かぶ。
その瞬間、さくらさんの頬がほんのり赤くなった。
「……っ。い、いけません。仕事に集中しないと」
彼女は慌てて書類に目を落とした。
実は、あなたと同じように。
さくらさんもまた、あなたのことを意識してしまっていたのだった。
◆ 夕方、専務室に届いた報告
夕方。
コンコン。
「失礼します、専務」
「どうぞ」
入ってきたのは、美月さんだった。
「さくらさんの件ですが、昇進候補として検討を進めています。本人の希望も確認したうえで、正式な人事手続きを行う予定です」
「そうか。ありがとう」
あなたは安心したようにうなずいた。
「さくらさん、最近本当に頑張ってるからね。ちゃんと評価されてほしいんだ」
「……専務は、社員のことをよく見ていらっしゃいますね」
「え?」
「いえ。さくらさんのことも、よく見ていらっしゃると思いまして」
「そ、それは専務として当然だよ!」
あなたは即座に答えた。
速すぎる返事だった。
美月さんは、じっとあなたを見つめた。
「……そうですか?」
「そうです!」
「ふふっ。分かりました」
美月さんは、それ以上追及せずに書類をまとめた。
「では、進展があればご報告しますね」
「よろしくお願いします!」
美月さんが退室する。
扉が閉まった瞬間、あなたは机に突っ伏した。
「……危なかった」
ドクンドクン。
「なんで、さくらさんのことになると、こんなに動揺するんだ……」
机の上には、まだ確認するべき書類が山ほどある。
それでも、あなたは最後にもう一度だけ社員一覧を開いた。
さくらさんの名前を見つめる。
「……頑張ってるな、さくらさん」
誰にも聞こえないくらいの小さな声で、そうつぶやいた。
「課長になったら、もっと忙しくなるかもしれないけど……困ったことがあったら、いつでも相談してほしいな」
その言葉には、専務としての責任感だけではない気持ちも混ざっていた。
けれど、あなた自身はまだ、それをうまく言葉にできなかった。
ただ。
さくらさんが笑顔で働ける会社であってほしい。
それだけは、心から願っていた。
「……よし。残りの仕事も片づけるか!」
あなたは再びマウスを握った。
カチッ。
画面に表示された名前。
さくら。
ドクンドクン!
「だから、まだ鳴るのかよ……!」
専務室に、あなたの小さな悲鳴が響いた。
もちろん、廊下を通りかかった社員には聞こえていなかった。
……と思ったのだが。
扉の向こうでは、美咲さんが足を止めていた。
「……今、専務の声が聞こえたような?」
その隣にいたさくらさんも、不思議そうに首をかしげる。
「何かあったのでしょうか?」
美咲さんは、にっこり笑った。
「さあ? でも、ちょっと気になりますね」
「……専務、大丈夫でしょうか」
さくらさんは心配そうに専務室の扉を見つめた。
その胸もまた、ほんの少しだけ高鳴っていた。
こうして、あなたが決めた昇進候補の話は、まだ本人に知らされないまま進んでいく。
そして、あなたは知らない。
課長への昇進をきっかけに、さくらさんがあなたをますます意識することになるなんて――。