「記憶を失った僕と、悲しそうに微笑む教育係」
「記憶を失った僕と、悲しそうに微笑む教育係」
第一話 目が覚めたら、知らない世界だった
「……ん?」
朝。
あなたはいつものように目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝日。枕元のスマートフォン。机の上には、昨日まで使っていた仕事の資料。
いつもと変わらない朝のはずだった。
しかし。
「……ここ、どこだ?」
自分の部屋だということは、なんとなく分かる。
けれど、自分の名前が思い出せない。
昨日、何をしていたのかも分からない。
そして、自分がどんな人間だったのかさえ、はっきりしなかった。
「え、待って。僕……誰?」
慌ててスマートフォンを手に取る。
画面には会社の予定が表示されていた。
【本日:出社】 【午前九時:さくらさんとの打ち合わせ】
「さくらさん……?」
名前を見ても、何も思い出せない。
ただ、なぜかその名前を見つめていると、胸の奥が少しだけざわついた。
「……大事な人なのかな?」
理由は分からない。
それでも、あなたは会社へ向かうことにした。
第二話 「あなたは……私のことを覚えていないのですか?」
午前九時。
あなたが専務室に入ると、秘書の美咲さんが書類を抱えてやってきた。
「あ、おはようございます、専務! 今日もよろしくお願いします!」
「……すみません」
「はい?」
「あなたは……どなたですか?」
「…………え?」
美咲さんの笑顔が固まった。
「え、ええええっ!? 専務!? 私ですよ、私! 美咲です!」
「み、美咲さん……?」
「まさか、私のことまで忘れちゃったんですか!?」
あなたは申し訳なさそうに頭を下げた。
「どうやら……今朝から記憶がなくなってしまったみたいで」
「ええっ!? ちょ、ちょっと待ってください! すぐに皆さんを呼びます!」
美咲さんは慌てて部屋を飛び出していった。
そして数分後。
コンコン。
「失礼いたします」
扉を開けて入ってきたのは、さくらさんだった。
いつもどおりの落ち着いた表情。
いつもどおりの丁寧な言葉遣い。
「専務、記憶を失われたと伺いましたが……お加減はいかがですか?」
「ええ、体調は大丈夫です。ただ……」
あなたは彼女を見つめた。
綺麗な人だと思った。
優しそうな人だとも思った。
しかし、名前を聞いても、顔を見ても、記憶が戻ってこない。
「すみません。あなたのお名前を教えていただけますか?」
その瞬間。
さくらさんの表情から、すっと笑顔が消えた。
「……私の、名前を?」
「はい。本当に申し訳ありません」
「…………」
さくらさんは手に持っていた書類を、ぎゅっと握りしめた。
「私は……さくらです」
「さくらさん……」
「はい。以前から、あなたの教育係を務めておりました」
「そうだったんですね。いつもお世話になっていたんですね」
あなたは、ほっとしたように笑った。
「ありがとうございます。これからもよろしくお願いしますね、さくらさん」
その笑顔を見た瞬間。
さくらさんの胸が、きゅっと締めつけられた。
以前なら、あなたは彼女を見るだけで、ほんの少し緊張していた。
仕事の相談をするときも、必要以上に丁寧になっていた。
何気ない会話のあとには、照れくさそうに目を逸らしていた。
そして時折、彼女が笑うと、あなたは嬉しそうに微笑んでいた。
――その小さな変化が、さくらさんには愛おしかった。
けれど、今のあなたは違った。
まるで初対面の相手に向けるような、穏やかな笑顔。
「……よろしく、お願いいたします」
さくらさんは微笑み返した。
けれど、その声はほんの少しだけ震えていた。
第三話 忘れられた思い出
午前中。
さくらさんは、あなたの仕事をサポートすることになった。
「こちらが本日の予定です。無理に思い出そうとせず、分からないことがあれば何でもお尋ねください」
「ありがとうございます。さくらさんがいてくださると助かります」
「……っ」
不意打ちだった。
あなたは何気なく言っただけだ。
それなのに、さくらさんは一瞬、言葉を失ってしまった。
「……私が、いてもよろしいのですか?」
「え?」
「いえ……何でもありません」
彼女は視線を落とした。
本当は、聞きたかった。
今までの自分たちは、どんな関係だったのか。
あなたは、自分のことをどう思っていたのか。
あの優しい笑顔の裏に、何か特別な気持ちはあったのか。
けれど、今のあなたに尋ねることはできなかった。
あなたが忘れてしまったものを、無理に問いただしたくはなかったから。
昼休み。
あなたは机の引き出しを整理していると、一冊の小さなノートを見つけた。
表紙には、こう書かれていた。
『今日の振り返り』
「……なんだろう、これ?」
ページを開く。
そこには、仕事の反省や明日の予定が書かれていた。
そして、あるページに目が止まった。
『今日のさくらさん、すごく優しかった』
「…………?」
その下には、少し乱れた文字で続きが書かれていた。
『笑顔が可愛かった。話しているだけでドキドキする』
『でも、絶対に気づかれてはいけない』
『この気持ちを知られたら、今までの関係が変わってしまうかもしれない』
あなたは、じっとその文章を見つめた。
「……僕は、さくらさんのことが好きだったのかな?」
そのとき。
「専務?」
扉の向こうから声がした。
慌てて顔を上げると、さくらさんが立っていた。
「あ……さくらさん」
「何をご覧になっていたのですか?」
「いえ、このノートを見つけまして」
あなたは少し迷ってから、正直に答えた。
「どうやら僕は、さくらさんのことが好きだったみたいです」
「…………えっ?」
さくらさんの顔が、一気に赤くなった。
「い、いえ! このノートにそう書いてあっただけです! 今の僕には、まだ何も思い出せませんけど……」
「そ、そう……なのですね」
さくらさんは顔を逸らした。
胸がドクン、ドクンと鳴っている。
嬉しかった。
本当は、とても嬉しかった。
あなたが自分を特別に思ってくれていたかもしれない。
それを知れただけでも、嬉しかった。
なのに。
「……でも、今の僕には、その気持ちが分からないんです」
その言葉を聞いた途端、さくらさんの胸に冷たいものが広がった。
「……そう、ですよね」
彼女は笑おうとした。
いつもどおり、優しく。
あなたを困らせないように。
「記憶が戻るまでは、焦らずに過ごしましょう。お仕事のことは、私がお手伝いいたしますから」
「ありがとうございます、さくらさん」
あなたが微笑む。
さくらさんも微笑む。
けれど、彼女は知らなかった。
あなたがノートを閉じたあと、もう一度だけ彼女の名前を見つめていたことを。
そして、なぜだか胸が寂しくなったことを。
第四話 さくらさんの涙
午後三時。
さくらさんは、書類を届けるために専務室へ戻ってきた。
すると、あなたは窓の外を眺めていた。
「専務、少し休憩なさってはいかがですか?」
「……さくらさん」
「はい?」
「僕は、以前どんな人間だったんでしょうか?」
さくらさんは足を止めた。
「……どうして、そのようなことを?」
「みんな、僕のことを知っているのに。僕だけが、みんなのことを覚えていないんです」
あなたは困ったように笑った。
「さっき、美咲さんにもすごく心配をかけてしまいました。さくらさんにも……」
「専務……」
「僕、誰かを傷つけてしまったんでしょうか?」
さくらさんは、すぐに首を横に振った。
「いいえ。あなたは、誰かが困っていたら、放っておけない方でした」
「そうなんですか?」
「はい。ご自分のお仕事が忙しくても、社員の方々を気にかけて……誰かが失敗しても、頭ごなしに叱るのではなく、一緒に解決しようとなさっていました」
彼女は、ひとつひとつ思い出すように話した。
「それから……」
言葉が止まった。
あなたが自分のためにしてくれたこと。
こっそり仕事を手伝ってくれたこと。
疲れている自分を気遣ってくれたこと。
何気ない言葉に、何度も胸をときめかせてしまったこと。
全部、覚えている。
自分だけは、覚えているのに。
「……それから?」
あなたが尋ねる。
さくらさんは唇を結んだ。
「……とても、優しい方でした」
「そっか……」
あなたは少しだけ安心したように笑った。
「なら、記憶が戻っても、そういう自分でいたいですね」
その言葉に、さくらさんはうつむいた。
「……はい」
声がかすれた。
「さくらさん?」
「申し訳ありません。少し……失礼いたします」
彼女は急いで専務室を出ていった。
廊下の曲がり角。
誰もいない場所まで来ると、さくらさんは壁にそっと手をついた。
「……どうして」
声が震える。
「どうして、こんなに悲しいのでしょう……」
あなたが無事でよかった。
記憶が戻る可能性もあると聞いている。
一日経てば、元に戻るかもしれない。
それなのに。
自分を見ても、何も思い出してくれないあなたが、どうしようもなく寂しかった。
「……明日になったら、また……」
いつものあなたに戻ってくれるだろうか。
また、照れくさそうに目を逸らしてくれるだろうか。
自分が笑ったとき、あの優しい表情を見せてくれるだろうか。
「……私、こんなにも……」
さくらさんは、それ以上言葉にできなかった。
第五話 記憶がなくても、あなたはあなた
夕方。
あなたが帰る準備をしていると、さくらさんが専務室に戻ってきた。
「本日は、お疲れさまでした」
「さくらさんも、お疲れさまでした」
あなたは鞄を持ち上げた。
そして、ふと思いついたように彼女を見た。
「……あの、さくらさん」
「はい」
「明日も、僕のことを助けていただけますか?」
さくらさんは驚いたように目を見開いた。
「もちろんです。私でよろしければ」
「よかった」
あなたは、心からほっとしたように笑った。
「今日一日、知らないことばかりで不安だったんです。でも、さくらさんがいてくれたから、少し安心できました」
「…………」
「記憶がなくても、さくらさんは信頼できる人なんだなって思いました」
その瞬間。
さくらさんの目に、また涙が浮かびそうになった。
「……専務」
「はい?」
「そのようなお言葉を、簡単におっしゃらないでください……」
「えっ!? ぼ、僕、何か変なことを!?」
「いいえ……違います」
さくらさんは、慌てて首を横に振った。
「嬉しかったのです」
小さな声だった。
「……とても」
あなたは不思議そうに彼女を見つめた。
けれど、それ以上は尋ねなかった。
ただ、優しく微笑んだ。
「それなら、よかったです」
さくらさんは、その笑顔を見つめた。
記憶を失っても、あなたは優しかった。
彼女を覚えていなくても、彼女を安心させようとしてくれた。
その事実が、嬉しくて、悲しくて、愛おしかった。
「……お帰りの際は、お気をつけくださいね」
「はい。また明日、さくらさん」
「……はい。また明日」
あなたが部屋を出ていく。
さくらさんは、閉じた扉をしばらく見つめていた。
「……明日こそ」
明日になれば、きっと元に戻る。
そう信じて、彼女は小さく微笑んだ。
第六話 翌朝、戻ってきた恋心
翌朝。
あなたは目を覚ました。
「…………ん?」
見慣れた天井。
いつもの部屋。
枕元のスマートフォン。
そして――。
「……あっ」
頭の中に、昨日の記憶が一気に戻ってきた。
美咲さんに驚かれたこと。
さくらさんの名前を聞いたこと。
自分のノートを見つけたこと。
そして。
悲しそうに微笑んでいた、さくらさんの顔。
「……そうだ。僕、昨日、記憶喪失になってたんだ……」
あなたは額を押さえた。
「しかも……さくらさんに、僕が好きだったことまで話しちゃった!?」
一気に顔が熱くなる。
「うわああああっ! 何やってるんだ、僕ぅぅぅ!!」
布団に顔を埋める。
しかし、昨日の彼女の表情を思い出すと、笑ってばかりもいられなかった。
特に、あの悲しそうな顔。
「……さくらさん、悲しんでたよな」
自分のことを覚えていなかったから。
自分との思い出が、すべて消えてしまったように感じたから。
「……謝ろう」
あなたは急いで支度を済ませ、会社へ向かった。
午前九時。
専務室。
コンコン。
「失礼いたします」
さくらさんが入ってきた。
あなたは立ち上がった。
「あ、あの! さくらさん!」
「はい? どうかなさいましたか?」
「昨日は、本当にご迷惑をおかけしました! 記憶、ちゃんと戻りました!」
さくらさんは、目を見開いた。
「……本当ですか?」
「はい! 美咲さんのことも、会社のことも、全部思い出しました!」
「……よかった」
さくらさんの表情が、ふっと緩んだ。
心の底から安心したような笑顔。
その笑顔を見た瞬間。
あなたの心臓が、ドクンッと大きく跳ねた。
「…………っ」
しまった。
やっぱり、可愛い。
いや、違う。
いつも可愛い。
昨日だって、記憶がなくても、彼女の笑顔に惹かれていた。
あなたは慌てて視線を逸らした。
「そ、それで! 昨日は、その……」
「昨日?」
「僕がさくらさんのことを覚えていなくて……悲しい思いをさせてしまったなら、すみませんでした」
さくらさんは、静かにあなたを見つめた。
「……少しだけ、悲しかったです」
「……っ」
正直な言葉だった。
「あなたに忘れられてしまったことが、寂しかったのです。もちろん、あなたが悪いわけではありません。どうか、気になさらないでください」
「……さくらさん」
あなたは胸の奥が締めつけられるのを感じた。
本当は、今すぐに伝えたかった。
あなたを忘れたくない。
あなたとの思い出を大切にしたい。
そして――あなたのことが好きです、と。
けれど。
「……もう、忘れませんから」
結局、口から出たのはそれだけだった。
さくらさんは、一瞬きょとんとした。
「……え?」
「あっ、いえ! そういう意味ではなくて! その、昨日みたいなことがあっても、さくらさんとの思い出は大切にしたいというか……!」
しどろもどろになるあなた。
さくらさんは、しばらくあなたを見つめたあと。
ふわり、と微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その笑顔があまりにも優しくて。
あなたの心臓は、またドクン、ドクンと鳴り始めた。
(だ、駄目だ……!)
(昨日、記憶を失っても好きだったんだぞ……!?)
(むしろ、記憶が戻った今のほうが、もっと好きになってるじゃないか……!)
あなたは必死に平静を装った。
一方、さくらさんも書類を持つ手に、そっと力を込めていた。
(……よかった)
(本当に、よかったです……)
昨日は、あなたに忘れられてしまったと思った。
けれど、今は違う。
あなたが昨日のことを覚えていてくれた。
自分との時間を、大切に思ってくれていた。
それだけで、胸がいっぱいだった。
「専務」
「は、はいっ!?」
「本日も、よろしくお願いいたしますね」
「は、はい! よろしくお願いします!」
二人は、いつものように仕事を始めた。
ただし。
あなたは、さくらさんが微笑むたびにドキドキ。
さくらさんは、あなたが照れながら目を逸らすたびにドキドキ。
昨日までと同じようで、少しだけ違う一日が始まった。
そして、さくらさんは心の中でそっと呟いた。
(……今度は、私があなたとの思い出を、もっと大切にしていきますね)
あなたはその気持ちを知らない。
自分の恋心が、まだ知られていないと思っている。
けれど、さくらさんの頬がほんのり赤くなっていることには――気づいてしまった。
(……あれ?)
(今日のさくらさん、いつもより優しくないか……?)
そしてあなたは、今日もまた。
恋心を隠すことに、失敗しかけるのだった。