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「廊下で見てしまった告白と、身を引くと決めた専務」

教育係のさくらには恋心を知られてはいけない。 — www.pixiv.net · All chapters

「廊下で見てしまった告白と、身を引くと決めた専務」

1. 朝、いつも通りの専務室

朝。

あなたはいつも通り、専務室に到着していた。

「……よし。今日も頑張りますか」

パソコンを起動し、今日の予定を確認する。

午前中は会議が二つ。午後は取引先との打ち合わせ。その合間に社員たちからの報告も受けなければならない。

忙しい一日になりそうだった。

けれど、あなたの頭に浮かんでいたのは仕事のことだけではなかった。

(……今日も、さくらさんに会えるな)

教育係だった頃から、ずっと好きだった人。

仕事に厳しいけれど、本当は誰よりも優しくて。

困っている人がいれば、さりげなく手を差し伸べてくれる。

あなたが疲れていると、誰よりも早く気づいてくれる。

そんなさくらさんに、あなたはいつの間にか恋をしていた。

もちろん、本人には秘密だ。

絶対に知られてはいけない。

「……よし。コーヒーでも取りに行こう」

あなたは専務室を出て、廊下を歩き始めた。

そして。

角を曲がろうとした、その瞬間だった。

「……あれ?」

聞き覚えのある声がした。

さくらさんの声だ。

あなたは思わず足を止めた。

廊下の向こう側。

そこには、さくらさんと男性社員が立っていた。

男性社員は、いつもよりずっと真剣な顔をしている。

そして――。

「さくらさん。以前から、あなたのことが好きでした」

あなたの足が止まった。

(……え?)

男性社員は深く頭を下げた。

「もしよければ、僕とお付き合いしていただけませんか?」

告白だった。

しかも、相手は。

あなたの大好きな、さくらさんだった。

2. 聞いてはいけない返事

あなたは慌てて、廊下の壁の陰に身を隠した。

(ま、待って……待ってください……!)

心臓が、嫌なくらい大きな音を立てていた。

ドクン。

ドクン。

ドクン。

(さくらさんが……告白されてる……)

普段なら、誰かが告白されている場面を見ても、ここまで動揺することはなかっただろう。

けれど、今回は違った。

相手が、さくらさんなのだ。

あなたは壁の陰から顔を出さないようにしながら、二人の会話に耳を傾けてしまった。

「……ありがとうございます」

さくらさんの声が聞こえた。

いつもの丁寧な声だった。

「そんなふうに思ってくださっていたなんて、知りませんでした」

(……うっ)

胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

男性社員は緊張した様子で、さくらさんの返事を待っていた。

そして、さくらさんは少しだけ視線を落とした。

「少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか。大切なことですので、きちんと考えてお返事したいんです」

「もちろんです! ありがとうございます!」

男性社員は嬉しそうに頭を下げた。

さくらさんも、優しく微笑んだ。

その笑顔を見た瞬間。

あなたは、そっと壁の陰に引っ込んだ。

(……ああ)

(そう、ですよね)

(さくらさんは……素敵な人ですから)

誰かが好きになるのも、当然だ。

仕事ができて、優しくて、綺麗で。

あなたなんかが独り占めしていい人ではないのかもしれない。

もちろん、あなたはさくらさんと付き合っているわけではない。

告白したことすらない。

それなのに。

(……なんで、こんなに苦しいんだろう)

あなたは小さく息を吐いた。

そして、誰にも見られないうちに専務室へ戻った。

3. 身を引こう

専務室に戻ると、あなたは椅子に座った。

パソコンの画面には、今日の予定が表示されている。

いつもなら、さくらさんと仕事の話をする時間を楽しみにしていた。

今日も、彼女が専務室に来るかもしれない。

「専務、おはようございます。本日の資料をお持ちしました」

そう言って、いつもの笑顔を見せてくれるかもしれない。

そのことを想像するだけで、嬉しくなっていたはずなのに。

「……はは」

あなたは乾いた笑いを漏らした。

「何を期待してたんだろうな、僕」

さくらさんが自分を好きになってくれる保証なんて、どこにもない。

自分がどれだけ頑張っても、どれだけ彼女を大切に思っていても。

彼女の気持ちは、彼女自身のものだ。

だったら。

「……身を引こう」

あなたは、ぽつりと呟いた。

「もう、変に期待するのはやめよう」

さくらさんに優しくされるたびに期待してしまうことも。

何気ない一言に浮かれてしまうことも。

二人きりになるたびに、心臓がうるさくなることも。

今日から、少しずつ終わりにしよう。

彼女が誰を選んでも、笑顔で祝福できるように。

「……よし」

あなたは仕事の資料を開いた。

「仕事に集中しよう」

そう決めた。

決めたはずだった。

けれど、資料の文字は、まるで頭に入ってこなかった。

(……さくらさん)

名前を思い浮かべるだけで、胸が痛くなった。

それでもあなたは、仕事を続けた。

誰にも気づかれないように。

いつも通りの専務でいるために。

4. いつもと違う専務

午前九時。

コンコン。

「失礼いたします」

扉が開いた。

「専務、おはようございます。本日の会議資料をお持ちしました」

さくらさんだった。

あなたは反射的に顔を上げた。

「お、おはようございます、さくらさん」

声が少し裏返った。

(落ち着け、僕! いつも通り、いつも通り……!)

さくらさんは机の上に資料を置くと、あなたの顔をじっと見つめた。

「……専務?」

「は、はい!」

「どうかなさいましたか?」

「い、いえ! 何でもありません!」

即答だった。

さくらさんは不思議そうに首を傾げた。

「そうですか? なんだか、いつもよりお元気がないように見えますが……」

(やめてください! そんなに優しくしないでください!)

あなたは心の中で叫んだ。

好きな人に心配される。

本当なら、それだけで嬉しい。

けれど、今日ばかりは違った。

「大丈夫ですよ。少し寝不足なだけです」

「……本当に?」

「はい!」

あなたは無理に笑った。

さくらさんはしばらくあなたを見つめていたが、やがて小さく頷いた。

「無理はなさらないでくださいね。専務が倒れてしまったら、私も困りますから」

「……ありがとうございます」

さくらさんは微笑んだ。

その笑顔に、あなたの心が揺れた。

(……ああ、やっぱり好きだな)

どれだけ身を引こうと決めても。

どれだけ諦めようとしても。

好きな気持ちは、簡単には消えてくれなかった。

「それでは、失礼いたします」

さくらさんが扉へ向かう。

その背中を見ながら、あなたは思った。

(これからは、少し距離を置こう)

彼女が困らないように。

自分の気持ちを押しつけないように。

「……さくらさん」

気づけば、声をかけていた。

「はい?」

彼女が振り返る。

あなたは一瞬だけ迷い、それから微笑んだ。

「いつも、ありがとうございます。さくらさんには、本当に感謝しています」

「……え?」

さくらさんが目を丸くした。

「急に、どうなさったんですか?」

「いえ。改めて、お礼を言いたくなっただけです」

「……そうですか」

さくらさんは少しだけ頬を緩めた。

「私こそ、いつもありがとうございます。専務のお役に立てているなら、嬉しいです」

そして、部屋を出ていった。

扉が閉まる。

あなたはしばらく、その扉を見つめていた。

「……好きです」

誰にも聞こえない声で呟いた。

「本当は、ずっと……」

けれど、その先は言えなかった。

5. さくらさんの違和感

一方、その頃。

廊下を歩いていたさくらさんは、先ほどの会話を思い返していた。

(……専務、どうされたのでしょう)

いつもなら、もう少し冗談を言ったり、仕事の話から脱線したりすることもある。

なのに、今日はどこかよそよそしかった。

そして、最後の言葉。

『いつも、ありがとうございます』

まるで。

何かを終わらせる前の、挨拶のようだった。

「……気のせい、ですよね」

さくらさんは小さく呟いた。

そのとき、先ほど告白してきた男性社員が向こうから歩いてきた。

「あ、さくらさん! 先ほどはありがとうございました!」

「いえ。こちらこそ、お話ししてくださってありがとうございます」

さくらさんは丁寧に頭を下げた。

男性社員は少し照れたように笑い、去っていった。

その姿を見送ったあと、さくらさんは再び専務室の扉を振り返った。

(……専務)

なぜだろう。

いつもなら、仕事に戻れば気にならなくなるはずなのに。

今日は、あなたの寂しそうな笑顔が頭から離れなかった。

「……もう一度、お話ししてみようかしら」

さくらさんはそう呟いた。

けれど、彼女自身もまだ気づいていなかった。

あなたの態度が変わったことを、こんなにも気にしている理由に。

6. 昼休み、ひとりの庭で

昼休み。

あなたは社員食堂で食事を済ませると、会社の庭へ向かった。

いつも、さくらさんと会話したことを思い返したり、次の仕事の計画を考えたりする場所。

今日は、ベンチに座って空を眺めた。

「……いい天気だな」

雲ひとつない空だった。

こんな日なのに、心は晴れなかった。

あなたはポケットからスマートフォンを取り出した。

さくらさんとのメッセージ画面。

仕事の連絡が並んでいる。

その中には、体調を気遣ってくれた言葉もあった。

以前のあなたなら、それを見て嬉しくなっていただろう。

けれど、今日はスマートフォンをそっと閉じた。

「……期待しちゃ、駄目だ」

好きでいることまで、すぐにやめられるわけではない。

だからこそ、せめて自分から距離を置こう。

そうすれば、いつか。

彼女の恋を、心から祝福できる日が来るかもしれない。

「……頑張ろう」

あなたは立ち上がった。

そのとき。

「専務?」

後ろから声がした。

振り返ると、さくらさんが立っていた。

「……さくらさん?」

「ここにいらしたんですね」

さくらさんは、少し息を弾ませていた。

どうやら、あなたを探していたらしい。

「何か、ご用ですか?」

あなたはできる限り、いつも通りに尋ねた。

さくらさんは一瞬だけ言葉に詰まった。

「いえ……その」

彼女はあなたの顔を見つめた。

「最近、私を避けていらっしゃいませんか?」

「……え?」

予想していなかった質問だった。

「そんなこと、ありませんよ」

あなたは笑った。

「気のせいです」

「……そうでしょうか」

さくらさんは納得していない様子だった。

「私、何か専務に失礼なことをしてしまいましたか?」

「いえ! そんなことは絶対にありません!」

思わず、声が大きくなった。

さくらさんが驚く。

あなたは慌てて声を落とした。

「……本当に、何もありませんから」

「……専務」

彼女の表情が、少し寂しそうになった。

あなたは、その顔を見てしまった。

本当は。

本当は、全部話してしまいたかった。

今朝、告白の場面を見てしまったこと。

さくらさんが誰かの恋人になるかもしれないと思ったこと。

それが苦しくて、自分から身を引こうと決めたこと。

そして。

ずっと、あなたが好きだったこと。

けれど、言えなかった。

「……そろそろ、午後の仕事に戻りますね」

あなたは頭を下げた。

「さくらさんも、休憩を取ってください」

そう言って、彼女の横を通り過ぎようとした。

その瞬間。

「専務、待ってください」

さくらさんの声がした。

あなたは足を止めた。

「……私は」

彼女は何かを言いかけた。

けれど、言葉を選ぶように唇を閉じた。

そして、静かに尋ねた。

「……私と、今まで通りにお話ししていただけませんか?」

あなたの胸が、痛いほど鳴った。

ドクン。

(……そんなことを言われたら)

身を引くと決めたのに。

諦めようと決めたのに。

また、期待してしまう。

それでもあなたは、振り返らずに答えた。

「……もちろんです」

少しだけ声が震えた。

「僕は、いつも通りですよ」

そして、歩き出した。

さくらさんを残して。

7. その夜、専務室で

仕事を終えた夜。

あなたは専務室で、ひとり残っていた。

今日一日、何とかいつも通りに振る舞えただろうか。

さくらさんに、気持ちを悟られていないだろうか。

「……よし」

パソコンを閉じる。

「明日からも、ちゃんと仕事をしよう」

さくらさんが誰を選んでも、彼女を困らせない。

それだけは守ろう。

あなたは椅子から立ち上がった。

すると、机の端に一枚のメモが置かれていることに気づいた。

『専務へ

今日は少し心配になりました。

何か悩んでいらっしゃるなら、ひとりで抱え込まないでくださいね。

私でよければ、いつでもお話を聞きます。

さくら』

「……っ」

あなたは、そのメモをそっと手に取った。

優しい文字だった。

いつもと変わらない、さくらさんの気遣いだった。

「……ずるいですよ、さくらさん」

思わず、笑ってしまった。

「そんなことされたら……」

また好きになってしまうじゃないか。

いや。

本当は、最初からずっと好きなのだ。

あなたはメモを大切にしまい、電気を消した。

そして、誰もいない専務室で、小さく呟いた。

「……おやすみなさい、さくらさん」

明日も、あなたは彼女に会う。

いつも通りの専務として。

恋心を隠したまま。

彼女の幸せを願いながら。

――ただひとつだけ、あなたはまだ知らなかった。

さくらさんが、あの男性社員にまだ返事をしていないことを。

そして彼女自身も、自分の心が誰に向いているのか、まだ答えを出せずにいた。

その夜。

さくらさんは自宅で、あなたに渡したメモと同じ言葉を、何度も頭の中で繰り返していた。

(……どうして、あんなに寂しそうだったのでしょう)

いつもなら、仕事が終われば安心できる。

けれど今日は、違った。

あなたが自分から離れていくような気がして。

胸の奥が、落ち着かなかった。

「……明日は、ちゃんとお話ししたいです」

さくらさんはスマートフォンを手に取った。

あなたにメッセージを送ろうとして、少し迷う。

そして――。

「……いえ。明日、直接お話ししましょう」

そう呟いて、スマートフォンを置いた。

明日の朝。

二人のすれ違いは、さらに大きくなってしまうのか。

それとも、さくらさんがあなたの心に気づくきっかけになるのか。

まだ、誰にも分からない。