「誰も知らない居酒屋と、追いかけてきた教育係」
「誰も知らない居酒屋と、追いかけてきた教育係」
第1話 いつも通りの専務
朝。
あなたはいつも通り、専務室に到着した。
「おはようございます、専務」
秘書の美咲さんが挨拶をする。
「おはようございます。今日の予定をお願いします」
「はい。午前中は取引先との会議が二件、午後は新規事業の進捗確認です」
「わかりました。ありがとう」
あなたは微笑み、パソコンを起動した。
いつも通りの仕事。
いつも通りの笑顔。
いつも通りの専務。
何も変わっていない。
……ただ、一つだけ。
(……さくらさん)
頭の中から、あの日の光景が消えなかった。
廊下の向こう。
さくらさんと、男性社員。
そして、聞こえてしまった告白の言葉。
あなたは、その場から逃げるように立ち去った。
(……おめでとうございます、さくらさん)
(……僕は、身を引きます)
そう決めたはずだった。
なのに。
「……はぁ」
思わず、ため息が漏れる。
「専務?」
「っ! な、なんでしょうか?」
「いえ……ため息が聞こえましたので。お疲れですか?」
「いえ、大丈夫です。少し考え事をしていただけです」
「そうですか。無理はなさらないでくださいね」
美咲さんは心配そうに微笑んで、部屋を出ていった。
あなたは椅子の背もたれに体を預けた。
(……忘れよう)
(仕事に集中すれば、きっと忘れられる)
そう思って、資料を開く。
しかし、ページをめくるたびに思い出してしまう。
さくらさんの笑顔。
困ったときに助けてくれたこと。
教育係として、いつもそばにいてくれたこと。
そして、あなたが彼女を好きになった日のこと。
「……駄目だな、僕は」
誰もいない専務室で、小さく呟いた。
第2話 久しぶりの隠れ家
その日の仕事は、いつも以上に順調だった。
会議を終え、部下たちの相談に乗り、滞っていた案件も片づけた。
時計を見ると、午後七時。
「……今日は、もういいかな」
あなたはパソコンを閉じた。
普段なら、もう少し仕事をする。
けれど今日は、どうしても一人になりたかった。
「美咲さん、今日はこれで失礼します」
「はい。お疲れさまでした、専務」
「美咲さんも、あまり遅くならないように」
「ふふっ。専務に言われてしまいましたね」
美咲さんに見送られ、あなたは会社を出た。
向かった先は、駅前の繁華街。
その賑やかな通りを抜け、細い路地を曲がった先に、小さな赤提灯がある。
居酒屋『夕凪』。
古びた木の扉。
控えめな看板。
カウンター席が七つほどしかない、小さな店。
ここは、あなたがまだ一般社員だった頃から通っている場所だった。
会社の人間は誰も知らない。
社長も、部長も、美咲さんも。
そして、さくらさんも。
ここだけは、専務という肩書きを忘れられる場所だった。
ガラガラッ。
「いらっしゃい!」
店主のおじさんが顔を上げた。
「……お久しぶりです」
「おお! あんたか! ずいぶん来なかったなあ!」
「ちょっと忙しくて」
「そうかい。いつもの席、空いてるよ」
あなたは、店の一番奥の席に座った。
「今日はどうする?」
「焼き鳥と、だし巻き卵。それから、温かいお茶をお願いします」
「はいよ!」
しばらくすると、料理が運ばれてきた。
湯気の立つだし巻き卵。
香ばしい焼き鳥。
温かいお茶。
あなたは、ゆっくりと箸を動かした。
「……おいしい」
自然と、笑みがこぼれた。
会社では、いつも誰かの期待に応えなければならない。
専務として、判断を間違えてはいけない。
社員たちを守らなければいけない。
けれど、ここでは違う。
ただの一人の人間として、座っていられる。
「……こういう時間も、必要だよな」
お茶を一口飲む。
そして、ふと思い出してしまった。
(……さくらさんも、こういうお店、好きそうだな)
落ち着いた雰囲気の店。
温かい料理。
ゆっくり話せる場所。
きっと、気に入ってくれるだろう。
……一緒に来られたら。
「……っ」
あなたは慌てて首を振った。
「いやいや。何を考えているんだ、僕は」
身を引くと決めたのだ。
彼女の幸せを願うと決めたのだ。
ならば、もう自分の気持ちを押しつけてはいけない。
「……ごちそうさまでした」
食事を終えたあなたは、しばらくカウンターに座っていた。
帰りたくなかったわけではない。
ただ、会社に戻れば、またさくらさんのことを考えてしまう気がした。
だから、もう少しだけ。
この静かな時間を過ごしていたかった。
第3話 見つけてしまった背中
その頃、会社では。
「……あれ?」
さくらさんは、専務室の前で足を止めていた。
「専務、もうお帰りになったんですか?」
美咲さんが書類を整理しながら答える。
「はい。今日は早めにお帰りになりましたよ」
「……そうですか」
「さくらさん?」
「い、いえ。何でもありません」
さくらさんは微笑んだ。
しかし、どこか落ち着かない。
最近のあなたは、少し変だった。
以前なら、仕事の相談をすると、さりげなく冗談を言ってくれた。
困っていれば、誰よりも先に気づいてくれた。
仕事が終わると、「お疲れさまでした」と、優しく笑ってくれた。
ところが、ここ数日は違う。
あなたは優しい。
いつも通り、礼儀正しい。
けれど。
どこか、さくらさんとの間に一歩分の距離を置いている。
目が合っても、すぐに逸らす。
二人きりになりそうになると、用事を思い出したように立ち去る。
話しかけても、以前より少しだけ早く会話を終わらせる。
まるで、自分から離れようとしているみたいに。
「……専務」
さくらさんは、誰にも聞こえない声で呟いた。
(私、何かしてしまったのでしょうか……)
胸の奥が、ちくりと痛む。
あの日のことを思い出す。
男性社員から告白されたこと。
その場で、さくらさんは自分の気持ちを整理しようとしていた。
けれど、あのとき。
廊下の向こうに、あなたの姿があったような気がした。
声をかけようとしたときには、もういなかった。
(……もしかして)
さくらさんは、鞄を手に取った。
「美咲さん、すみません。少し出てきます」
「えっ? もう退勤時間ですよ?」
「はい。でも……少し、確かめたいことがあるんです」
さくらさんは会社を飛び出した。
あなたがどこへ向かったのか、わからない。
けれど、なぜか思った。
今、あなたを放っておいてはいけない。
第4話 「専務、待ってください!」
居酒屋を出たあなたは、夜風に当たりながら歩いていた。
「……明日も仕事か」
少しだけ、気持ちが落ち着いた。
これなら、明日も普段通りに振る舞える。
さくらさんに会っても、笑顔で挨拶できる。
余計なことを考えずに、仕事を進められる。
そう思った、そのとき。
「……専務!」
聞き覚えのある声がした。
あなたの足が止まる。
(……え?)
振り返る。
そこには、息を切らしたさくらさんが立っていた。
「……さくら、さん?」
「はぁ……はぁ……っ。やっと……見つけました……!」
さくらさんは胸元に手を当て、呼吸を整えていた。
「ど、どうしてここに……?」
「それは、こちらの台詞です!」
思わず、あなたは目を丸くした。
「えっ?」
「急に帰ってしまうんですもの! それに最近、私を避けていませんか?」
「そ、そんなことは……」
「では、どうして目を合わせてくださらないんですか?」
「……っ」
答えられなかった。
好きだから。
好きすぎるから。
これ以上、あなたを好きになってしまう前に、距離を置こうとしたから。
でも、そんなことは言えない。
「……仕事が忙しかっただけですよ」
ようやく出てきた言葉は、それだった。
さくらさんは、じっとあなたを見つめた。
「……本当に?」
「はい」
「……嘘です」
「えっ?」
「専務は、嘘をつくとき、少しだけ右の眉が動くんです」
「そ、そんな癖があるんですか!?」
「あります」
あなたは思わず右の眉を押さえた。
さくらさんは、ほんの少しだけ笑った。
けれど、すぐに表情を曇らせる。
「……私、何か悪いことをしましたか?」
「……え?」
「最近、専務が遠く感じるんです。以前は、もっと……」
そこで、さくらさんは言葉を止めた。
「……もっと?」
あなたが尋ねる。
「……いえ。何でもありません」
今度は、さくらさんが目を逸らした。
その様子を見て、あなたの胸が苦しくなった。
本当は、今すぐ伝えたかった。
あなたは何も悪くない。
悪いのは、勝手に好きになって、勝手に身を引こうとしている僕なのだと。
けれど。
「……さくらさん」
「はい」
「僕は、大丈夫ですから」
「……大丈夫、ですか?」
「はい。だから、心配しないでください」
あなたは、いつもの専務の笑顔を作った。
さくらさんは、その笑顔を見て、なぜか泣きそうな顔になった。
「……そんな笑顔、見たくありません」
「……え?」
「専務は、いつも笑っていらっしゃいます。でも……今日は、全然楽しそうじゃありません」
あなたは何も言えなかった。
見抜かれている。
隠しているつもりなのに。
一番、気づいてほしくない人に。
第5話 誰も知らない場所で
「……ここ、どんなお店なんですか?」
さくらさんが、あなたの後ろにある赤提灯を見上げた。
「ああ……僕が昔から通っている居酒屋です」
「居酒屋……?」
「はい。会社の人には、誰にも教えていない場所なんです」
「……誰にも?」
「ええ」
言ってから、あなたはしまったと思った。
どうして、そんなことを正直に話してしまったのだろう。
さくらさんは、少し驚いたように目を瞬かせた。
「……では、私が初めてなんですね」
「え?」
「専務が、会社の方以外の時間を過ごす場所を教えてくださったのは」
「……っ」
そんな言い方をされると、期待してしまう。
特別なのだと。
自分だけは違うのだと。
でも、それはきっと自分の思い込みだ。
「……たまたまですよ」
あなたは、視線を逸らした。
「……そうですか」
さくらさんは小さく答えた。
それから、少し考えて。
「……あの、専務」
「はい?」
「もし、ご迷惑でなければ……少しだけ、一緒にいてもいいですか?」
「……え?」
「無理に理由を聞こうとは思いません。話したくないことなら、話さなくても構いません」
さくらさんは、あなたをまっすぐ見つめた。
「でも……一人で抱え込んでほしくないんです」
心臓が、大きく跳ねた。
ドクン。
(……やめてください)
ドクン、ドクン。
(……そんなに優しくしないでください)
あなたは、必死に笑顔を保った。
「……さくらさんは、本当にお優しいですね」
「……専務にだけは、そう思っていただきたいです」
「……え?」
「い、いえ! 今のは……その……!」
さくらさんの頬が、みるみる赤くなる。
あなたも、思わず固まった。
(……僕にだけ?)
聞き返したかった。
でも、聞いてしまえば、何かが変わってしまいそうだった。
あなたは、そっと店の扉を開けた。
「……どうぞ。ここのだし巻き卵、おいしいですよ」
「……はい!」
さくらさんの顔に、ようやく笑顔が戻った。
二人は並んで店に入った。
店主のおじさんが、あなたとさくらさんを交互に見た。
「おや? 今日はお連れさんかい?」
「え、ええ。会社の……」
「大切な方なんですねえ」
「ぶっ!?」
あなたは、思わずお茶を飲む前にむせた。
「お、おじさん!?」
「ははは! 冗談だよ!」
さくらさんは、隣で口元を押さえている。
「……ふふっ」
「さ、さくらさんまで……!」
「すみません。でも……専務がそんなに慌てるの、初めて見ました」
「……忘れてください」
「ふふっ。どうしましょうか」
久しぶりだった。
さくらさんと、こんなふうに笑い合うのは。
胸が温かくなる。
同時に、少しだけ苦しくなる。
この時間が終わったら、また身を引かなければならない。
そう思うと、箸を持つ手が止まった。
すると、さくらさんがそっと尋ねた。
「……専務」
「はい?」
「明日も……お話ししてくださいますか?」
「……え?」
「今日みたいに、普通に。仕事の話でも、何でもいいんです」
さくらさんは、少し不安そうに微笑んだ。
「……私、専務とお話しできなくなるのは、嫌です」
あなたの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
(……そんなことを言われたら)
(……身を引けなくなってしまうじゃないですか)
それでも、あなたは答えた。
「……もちろんです」
「……本当ですか?」
「はい。明日も、いつも通りに」
さくらさんは、ほっとしたように笑った。
「……よかったです」
その笑顔を見て、あなたも笑った。
今だけは。
今だけは、好きでいてもいいだろうか。
そんなことを、心の中で思いながら。
第6話 帰り道、二人だけの約束
居酒屋を出たのは、午後九時を少し過ぎた頃だった。
夜風が、二人の間を静かに通り抜ける。
「今日は、ありがとうございました」
さくらさんが丁寧に頭を下げた。
「いえ。こちらこそ、楽しかったです」
「……本当に?」
「はい」
「……なら、よかったです」
さくらさんは、嬉しそうに笑った。
駅へ向かう道を、二人でゆっくり歩く。
会社では、いつも上司と部下。
けれど今は、仕事の話をしなくてもいい。
沈黙が続いても、気まずくない。
あなたは、ふと思った。
(……こんな時間が、ずっと続けばいいのに)
しかし、すぐに首を振った。
(駄目だ。僕は……)
「専務?」
「……はい?」
「また、何か考えていらっしゃいましたね」
「い、いえ。何でもありません」
「……また右の眉が動いていますよ」
「そんなにわかりやすいですか!?」
「はい。とても」
二人は顔を見合わせ、笑った。
駅に着くと、さくらさんが改札の前で立ち止まった。
「……専務」
「はい」
「今日は、追いかけてきてよかったです」
あなたは、言葉を失った。
「……え?」
「このまま何も聞けなかったら、きっと明日も後悔していたと思いますから」
さくらさんは、少しだけ頬を赤くした。
「……それに、専務の知らない一面を見られましたし」
「……あまり格好のいいところは、お見せできませんでしたけど」
「そんなことありません」
さくらさんは、即座に答えた。
「今日の専務は……いつもより、少しだけ近く感じました」
ドクン。
あなたの心臓が跳ねた。
「……では、また明日」
さくらさんは、改札へ向かおうとした。
けれど、数歩進んだところで振り返る。
「あっ、専務!」
「はい?」
「……今度は、私にもお店を紹介してくださいね」
「……え?」
「また、一緒に行きたいですから」
そう言って、さくらさんは笑った。
そして、今度こそ改札の向こうへ消えていった。
あなたは、その場に立ち尽くした。
「…………」
しばらくして、片手で顔を覆う。
「……ああ、もう……」
心臓がうるさい。
ドクン、ドクン、ドクン。
(……身を引くって決めたのに)
(……どうして、こんなに嬉しいんだ)
夜空を見上げる。
さくらさんの気持ちは、まだわからない。
あの日の告白がどうなったのかも、きちんとは知らない。
それでも。
今日、彼女は自分を追いかけてきてくれた。
誰も知らない、自分だけの場所まで。
「……明日から、どうしよう」
あなたは小さく笑った。
恋心を隠す決意は、まだ変わらない。
けれど、今日一日で、たった一つだけ変わったことがあった。
もう、さくらさんから完全に離れることだけは、できそうになかった。
翌朝――専務室
「おはようございます、専務」
美咲さんが扉を開ける。
「おはようございます」
あなたは、いつも通りに微笑んだ。
「……あれ?」
「どうしました?」
「いえ。今日は少し機嫌がよさそうですね」
「そ、そうですか?」
「はい。昨日は少し寂しそうでしたから」
「……っ」
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
コツ、コツ、コツ。
「専務、おはようございます」
さくらさんだった。
あなたと目が合う。
一瞬だけ、二人とも昨日の夜を思い出した。
そして。
「……おはようございます、さくらさん」
「……はい。おはようございます」
さくらさんは、誰にも気づかれないくらい小さく微笑んだ。
あなたも、ほんの少しだけ笑い返した。
美咲さんは二人を交互に見て、首を傾げる。
「……お二人とも、何かありました?」
「「い、いえ! 何もありません!」」
声が、見事に重なった。
「……?」
美咲さんは不思議そうな顔をした。
その背後で、さくらさんがそっとあなたを見つめる。
そして、口元だけで囁いた。
「……また、行きましょうね」
あなたの心臓が、再び大きく跳ねた。
(……恋心を知られてはいけない)
そう思っているのに。
今日もまた、あなたはさくらさんの笑顔から目を逸らせなくなってしまうのだった。