「休日のデートと、隣にいる教育係」
「休日のデートと、隣にいる教育係」
朝、あなたは鏡の前でネクタイを直していた。
今日は仕事が休み。
なのに、いつもより早く起きてしまった。
「……よし。準備は完璧だ」
髪型を確認して、服装を確認して、スマートフォンを確認する。
そして、もう一度、今日の予定を確認した。
待ち合わせは午前十時。
相手は――さくらさん。
「…………」
ドクン。
ドクン、ドクン。
「いやいやいや! 落ち着け、僕! 今日はただのお出かけだ! そう、ただのお出かけ!」
自分に言い聞かせる。
そもそも、なぜこうなったのか。
昨日の夕方。
仕事を終えたさくらさんが、あなたの専務室を訪ねてきたのだ。
「専務。明日、お休みですよね?」
「え? あ、はい。そうですが……」
「実は、以前から気になっていたカフェがあるんです。一人で行くのも少し寂しいので……もしよろしければ、ご一緒していただけませんか?」
その瞬間。
あなたの頭の中は真っ白になった。
「ぼ、僕でよろしいんですか!?」
「はい。専務と一緒なら、楽しそうだなと思いまして」
にこっ。
さくらさんは、いつもの優しい笑顔を見せた。
あなたの心臓は、盛大に跳ねた。
「も、もちろんです! よろこんで!」
「ありがとうございます。では、明日よろしくお願いしますね」
そう言って去っていくさくらさん。
残されたあなたは、椅子に座ったまま固まっていた。
(……これ、デートじゃないか?)
いや、違う。
さくらさんは、ただカフェに行きたいだけだ。
自分を意識しているわけではない。
そう考えることにした。
……考えることにしたのだが。
翌朝。
「デート……デート……」
口に出してしまった。
「……違う! 今のは練習だ!」
誰もいない部屋で、一人慌てる専務だった。
1.待ち合わせ場所のさくらさん
午前九時五十分。
あなたは待ち合わせ場所に到着していた。
早すぎる。
明らかに早すぎる。
(いや、遅刻するよりいいだろう。うん)
そう自分を納得させていると。
「あっ、専務!」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
そこには、私服姿のさくらさんが立っていた。
いつもの仕事用の服装とは違う、落ち着いた色合いのワンピース。髪も普段より少しだけ柔らかくまとめられている。
「お待たせしてしまいましたか?」
「い、いえ! 僕も今来たところです!」
嘘だった。
実際には二十分前からいた。
「そうですか。よかったです」
さくらさんはほっとしたように笑った。
「……あの、今日の服装、変ではありませんか?」
「えっ?」
「普段は会社でお会いすることが多いので……私服を見られるのは、少し恥ずかしくて」
さくらさんが、照れたように視線をそらした。
ドクンッ!
(待ってください! そんなことを言われたら、まともに顔を見られないんですが!?)
あなたは必死に平静を装った。
「と、とてもお似合いです!」
「……本当ですか?」
「はい!」
「ふふっ。ありがとうございます」
さくらさんは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、あなたは心の中で頭を抱えた。
(今日一日、心臓がもつだろうか……)
2.カフェで始まる大事件
二人が訪れたのは、街の一角にある落ち着いたカフェだった。
窓際の席に案内され、あなたとさくらさんは向かい合って座る。
「わあ……素敵なお店ですね」
「そうですね。僕もこういうお店は久しぶりです」
「専務は、いつもお忙しそうですから」
さくらさんはメニューを開きながら、少し心配そうに言った。
「お仕事ばかりでは、疲れてしまいますよ?」
「はは……気をつけます」
「本当ですか?」
「ほ、本当です!」
「ふふっ。でしたら、今日はお仕事の話は禁止です」
「えっ!?」
「せっかくのお休みですから。今日は仕事を忘れて、楽しみましょう?」
さくらさんが、いたずらっぽく笑う。
あなたは思わず頷いた。
「……はい」
(仕事の話は禁止。つまり、さくらさんと二人きりで雑談をするということか……!)
難易度が高すぎる。
注文したコーヒーとケーキが運ばれてくる。
さくらさんは嬉しそうにケーキを眺めた。
「見てください。とても可愛いです」
「本当ですね」
「写真を撮ってもいいですか?」
「もちろんです」
さくらさんはスマートフォンを取り出し、ケーキを撮影した。
そして、ふとあなたを見る。
「……専務も、一緒に写りませんか?」
「…………え?」
「せっかく二人で来た記念ですから」
ドクンッ!
「い、いいんですか?」
「もちろんです」
さくらさんが隣の席へ移動してきた。
距離が近い。
いつも会社で向かい合って仕事をしている人が、今はすぐ隣にいる。
「では、撮りますね」
「は、はい!」
「もっとこちらに寄ってください」
「こ、こうですか?」
「はい。……ふふっ、専務、緊張していますか?」
「そ、そんなことは!」
「お顔が赤いですよ?」
「コーヒーが熱いからです!」
「まだ一口も飲んでいませんよ?」
「…………」
しまった。
さくらさんは一瞬きょとんとしたあと、くすくすと笑った。
「もう、専務ったら」
カシャッ。
写真が撮影された。
画面には、隣り合って笑う二人の姿が映っていた。
あなたはその写真を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
(……宝物にしよう)
そう思ったことは、もちろん秘密だ。
3.手が触れそうになった瞬間
カフェを出た二人は、近くの商店街を歩くことにした。
雑貨屋をのぞき、書店に立ち寄り、途中で小さな公園を見つける。
「少し休憩しませんか?」
「そうですね」
ベンチに並んで座る。
休日の公園は穏やかで、子どもたちの笑い声が遠くから聞こえていた。
「こうしていると、不思議ですね」
さくらさんが空を見上げながら言った。
「何がですか?」
「会社では、いつも専務と教育係という関係でしょう? でも、今日は違いますから」
「……そうですね」
「なんだか、新鮮です」
さくらさんは微笑んだ。
「専務のことを、少し違った角度から知ることができそうです」
あなたは固まった。
(違った角度!? それはどういう意味ですか!?)
聞きたい。
でも、聞けない。
聞いてしまったら、自分の気持ちまで見透かされそうだった。
「……僕も、さくらさんのことをもっと知りたいです」
気づけば、そう口にしていた。
さくらさんがこちらを向く。
「……私のこと、ですか?」
「は、はい! いつも会社でお世話になっていますから!」
慌てて付け加える。
しかし、さくらさんはすぐには返事をしなかった。
やがて、少しだけ頬を赤くして笑った。
「……そう言っていただけると、嬉しいです」
そのときだった。
さくらさんがベンチから立ち上がろうとし、あなたも同時に立ち上がった。
「あっ」
指先が、ほんの少し触れた。
二人とも動きを止める。
「…………」
「…………」
ドクン。
ドクン。
あなたの心臓が、うるさいくらいに鳴っていた。
「す、すみません!」
あなたが慌てて手を引くと、さくらさんも少し慌てた様子で首を振った。
「い、いえ! こちらこそ、すみません!」
なぜか二人そろって謝っている。
数秒後。
さくらさんが小さく笑った。
「……なんだか、私まで緊張してしまいました」
「えっ?」
「今日は、いつもと違いますから」
さくらさんはそう言って、少しだけあなたのほうへ顔を向けた。
「……でも、楽しいです」
その言葉に、あなたは何も言えなくなった。
ただ、胸の音だけが鳴り続けていた。
4.帰り道、教育係からのお願い
夕方。
二人は駅へ向かって歩いていた。
今日は本当に楽しかった。
けれど、楽しい時間ほど終わりが近づくのが早い。
「今日はありがとうございました、専務」
「いえ、こちらこそ。僕も楽しかったです」
「よかったです」
さくらさんは少し考えるように視線を落とした。
それから、あなたを見上げる。
「あの……また、ご一緒していただけますか?」
「…………え?」
「今日、いろいろなお話ができて嬉しかったので。今度は、映画や水族館にも行ってみたいです」
ドクンッ!!
(次も!? また二人で!?)
嬉しい。
嬉しすぎる。
けれど、ここで浮かれてはいけない。
あなたは必死に落ち着いた声を作った。
「……もちろんです。僕でよければ、ぜひ」
「本当ですか?」
「はい!」
「ふふっ。約束ですよ?」
さくらさんは小指を少しだけ差し出しかけて、途中で恥ずかしくなったのか、そっと手を引っ込めた。
「あ……すみません。なんだか子どもっぽかったですね」
「い、いえ!」
あなたは思わず笑った。
「約束、です」
そう言って、しっかりと頷いた。
さくらさんは安心したように笑顔を見せた。
「では、また予定を合わせましょうね」
「はい」
駅で別れる直前、さくらさんが振り返った。
「……今日は、専務の普段見られない一面も知ることができました」
「そ、そうですか?」
「はい。緊張すると、少し早口になるんですね」
「…………!」
「それから、褒めるとすぐに顔が赤くなるところも」
「さくらさん!?」
さくらさんは楽しそうに笑った。
「ふふっ。内緒にしておきますね」
そう言って、手を振りながら去っていった。
あなたは、その後ろ姿を見送った。
(……絶対に、恋心がばれてはいけない)
そう思う一方で。
(……また、二人で出かけられるんだ)
自然と頬が緩んでしまう。
スマートフォンを見ると、さくらさんからメッセージが届いていた。
『今日はありがとうございました。とても楽しかったです。またご一緒しましょうね』
その下には、カフェで撮った二人の写真が添付されていた。
あなたは画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
「…………よし」
小さく呟く。
「明日からも、いつも通りに接するぞ!」
……その決意が、翌朝どれほど難しいものになるか。
このときのあなたは、まだ知らなかった。
なぜなら――。
さくらさんもまた、帰りの電車の中で、同じ写真を見つめていたからだ。
「……今日は、本当に楽しかったな」
そして、誰にも聞こえない声で、そっと呟いた。
「……また、二人で行きたいな」
彼女の頬も、ほんのり赤くなっていた。
恋心を隠したい専務と、少しずつ専務を意識し始めた教育係。
二人の秘密の休日は、まだ始まったばかりだった。