――恋心を隠したままでも、さくらさんと付き合えるのか。結論、できる。
――恋心を隠したままでも、さくらさんと付き合えるのか。結論、できる。
第1話 絶対に知られてはいけない恋
「……好きだなぁ」
昼休み。
僕は会社の庭にあるベンチに座り、空を見上げていた。
頭に浮かぶのは、いつだって同じ人。
教育係のさくらさん。
仕事を教えてくれたときの優しい声。 失敗して落ち込んだときに、そっと励ましてくれた笑顔。 誰も見ていないところで、疲れた顔をしていた彼女が、僕の前ではいつものように微笑んでくれたこと。
そのすべてが、僕の心に残っていた。
「……でも、知られるわけにはいかない」
僕は両手で顔を覆った。
恋心を知られてしまったら、今までどおりに接することができなくなるかもしれない。
さくらさんは僕の教育係だ。
仕事で迷惑をかけたくない。 気まずい関係にもなりたくない。
だから、決めた。
僕は、さくらさんへの恋心を絶対に隠し通す。
たとえ、どれほど胸がドキドキしても。
「……よし。午後も頑張ろう」
そうして立ち上がった僕は、まだ知らなかった。
自分の恋心を隠す作戦が、すでに最初の段階から危うくなっていることを。
第2話 教育係の笑顔は反則です
「おはようございます。今日もよろしくお願いしますね」
翌朝。
出社した僕を、さくらさんが迎えてくれた。
「お、おはようございます!」
……危なかった。
今、思わず声が裏返りそうになった。
「ふふっ。どうしました? 今日は少し緊張していませんか?」
「い、いえ! そんなことありません!」
「そうですか?」
さくらさんは不思議そうに首をかしげた。
その仕草が、また可愛い。
(落ち着け、僕! 相手は教育係だ! いつもどおりに接するんだ!)
僕は心の中で自分に言い聞かせた。
「では、今日の仕事について説明しますね」
「はい!」
さくらさんが資料を広げる。
僕は真剣に説明を聞いた。
……聞いていたはずだった。
「ここまでで、何か質問はありますか?」
「はい! さくらさんは今日も可愛いですね!」
「…………え?」
「…………え?」
時間が止まった。
僕は自分の発言を頭の中で再生した。
さくらさんは今日も可愛いですね。
さくらさんは今日も可愛いですね。
さくらさんは今日も――。
(何を言ってるんだ、僕ぅぅぅっ!?)
「ち、違います! 今のは、その! 資料が! 資料が可愛いというか!」
「資料が……可愛い?」
「はい!」
「……ふふっ。変な人ですね」
さくらさんは口元に手を当てて笑った。
助かった。
笑ってくれた。
でも。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、嬉しいです」
「…………っ!」
今度こそ、僕の心臓が跳ねた。
(いや、待て。今のは普通のお礼だ。深い意味はない。ないんだ……!)
必死に平静を装う僕。
そんな僕を見ながら、さくらさんはほんの少しだけ目を細めていた。
まるで、何かに気づいているように。
第3話 さくらさんの小さな疑問
その日の昼休み。
さくらさんは同僚の美咲さんと一緒に、給湯室で話していた。
「ねえ、さくら」
「はい?」
「最近、あなたの教育係の子、ちょっと変じゃない?」
「……そうでしょうか?」
「あなたと話しているときだけ、すごく緊張している気がするのよね」
さくらさんは、手に持っていたカップを見つめた。
「そうですね……」
思い当たることは、いくつもあった。
目が合うと慌てて視線をそらす。
褒めると顔を赤くする。
困っていると、誰よりも早く助けてくれる。
そして、ときどき。
自分が疲れていることに気づくと、何も言わずに仕事を手伝ってくれる。
「……優しい方なんです」
さくらさんは、ふっと微笑んだ。
「私が忙しいときも、さりげなく助けてくれますし。仕事も一生懸命です」
「へえ。ずいぶん嬉しそうね?」
「そ、そんなことはありません!」
さくらさんの頬が、ほんのり赤くなった。
美咲さんは見逃さなかった。
「あれ? もしかして、さくらのほうも?」
「美咲さん!」
「はいはい。何も言いませんよー」
美咲さんは笑いながら、その場を離れた。
一人になったさくらさんは、カップを両手で包み込んだ。
「……どうしてでしょう」
最近、彼が自分に向ける笑顔を見ると、嬉しくなる。
彼が別の社員と楽しそうに話していると、ほんの少しだけ気になってしまう。
そして、彼が自分の前で慌てると。
(……可愛い、と思ってしまうんです)
さくらさんは、小さく息を吐いた。
「まさか……ね」
けれど、その頬の赤みは、なかなか消えなかった。
第4話 恋心を隠すための作戦
僕は、作戦を練り直すことにした。
作戦名は――。
『さくらさんに恋心を悟られず、なおかつ仲良くなる作戦』。
作戦その一。
さくらさんを見つめすぎない。
……成功率、低い。
作戦その二。
褒めるときは仕事のことだけにする。
……先ほど「今日も可愛いですね」と言いかけた前科あり。
作戦その三。
二人きりになっても、落ち着いて話す。
……さくらさんと二人きりになった瞬間、頭の中が真っ白になる。
「…………無理じゃないか?」
僕は机に突っ伏した。
恋心を隠すというのは、こんなにも難しいのか。
そのとき。
「何をしているんですか?」
「うわっ!?」
顔を上げると、さくらさんが立っていた。
「さ、さくらさん!? いつからそこに!?」
「今来たところです。何か悩み事ですか?」
「い、いえ! 仕事のことを考えていました!」
「そうですか」
さくらさんは僕の隣に座り、資料を机に置いた。
「もし仕事以外のことでも悩んでいたら、相談してくださいね」
「……え?」
「私はあなたの教育係ですから。困ったときは頼ってほしいんです」
優しい声だった。
僕のためを思ってくれているのが、伝わってきた。
だからこそ。
(好きだ……)
胸の奥で、気持ちが大きくなる。
けれど僕は、笑顔で答えた。
「ありがとうございます。さくらさんが教育係で、本当によかったです」
「……っ」
今度は、さくらさんが一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「そ、そうですか。よかったです」
彼女は資料に視線を落とした。
その耳が赤くなっていることに、僕は気づかなかった。
そして、さくらさんも。
僕がその言葉を伝えるために、どれほど勇気を振り絞ったのかは知らなかった。
第5話 隠しているつもりなのに
数週間が過ぎた。
僕は仕事を覚え、さくらさんと一緒に過ごす時間も増えていた。
仕事の相談。
昼休みの何気ない会話。
帰り際の「お疲れさまでした」。
どれも普通のことだ。
ただ、僕にとっては特別だった。
ある日の夕方。
仕事を終えた僕が帰ろうとすると、さくらさんが声をかけてきた。
「少し、時間はありますか?」
「はい。どうしました?」
「……お話ししたいことがあるんです」
その声がいつもより真剣で、僕は思わず背筋を伸ばした。
会議室に移動し、二人きりになる。
さくらさんはしばらく黙っていたが、やがて僕を見つめた。
「最近、あなたと一緒に仕事をするのが、とても楽しいんです」
「……!」
「最初は、私が教える立場だから、しっかりしなければと思っていました。でも、今は……」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「あなたが出社してくると、嬉しいんです」
僕は息をのんだ。
「あなたが笑っていると、私も嬉しくなります。あなたが落ち込んでいると、何とかしてあげたいと思うんです」
「さくらさん……」
「だから、少し不思議で」
彼女は困ったように微笑んだ。
「あなたは、私のことをどう思っているんでしょうか?」
――来た。
ついに来てしまった。
僕が最も恐れていた質問。
ここで「好きです」と答えれば、恋心が知られてしまう。
でも、嘘をついて「何とも思っていません」と言うのも嫌だった。
僕は深呼吸した。
「……大切な人だと思っています」
「大切な人……」
「はい。仕事でも、仕事以外でも。これからも、ずっと仲良くしていたい人です」
恋心を隠したまま。
それでも、自分の気持ちのすべてを否定しない答え。
さくらさんは、僕の顔をじっと見つめた。
そして。
「……そうですか」
少し寂しそうに笑った。
(え……?)
「私は……あなたにとって、もう少し特別な人になりたいと思っていたんですけど」
「…………え?」
今、何と言った?
もう少し特別な人?
僕の思考が停止した。
さくらさんは顔を赤くしながら、続けた。
「もし、あなたも同じ気持ちなら……私と、お付き合いしていただけませんか?」
「…………」
「……あの?」
「…………はい?」
「ふふっ。返事を聞かせてください」
僕は慌てて立ち上がった。
「よ、喜んで!」
声が大きすぎた。
廊下から「何事!?」という声が聞こえた。
僕は慌てて座り直した。
「す、すみません……!」
さくらさんは、とうとう笑い出した。
「もう……本当に、あなたは面白い人ですね」
その笑顔を見て、僕は思った。
ああ。
この人が好きだ。
これからも、ずっと。
最終話 結論、恋心を隠したままでも付き合える
交際を始めてから、数日後。
僕たちは、会社の庭で並んで座っていた。
「……不思議ですね」
さくらさんが言った。
「何がですか?」
「あなたとお付き合いすることになったのに、会社では今までどおりなんです」
「そうですね。仕事中は、これまでどおりに頑張りたいです」
「ふふっ。真面目ですね」
さくらさんは微笑んだ。
それから、少しだけ僕のほうに近づいた。
「でも、二人きりのときは……少しくらい、甘えてもいいんですよ?」
「…………っ!?」
心臓が跳ねた。
ドクン。
ドクン、ドクン。
(待って。恋人になったからって、急にそんなことを言われたら……!)
「顔が赤いですよ?」
「き、気のせいです!」
「本当ですか?」
「本当です!」
さくらさんは、いたずらっぽく笑った。
「……私、あなたのそういうところも好きですよ」
「…………!」
もう駄目だった。
顔を隠した僕を見て、さくらさんは嬉しそうに笑う。
「ねえ」
「は、はい……」
「これからも、よろしくお願いしますね」
僕は顔を上げた。
「……こちらこそ。よろしくお願いします」
今度は、逃げずに彼女の目を見て答えた。
恋心を隠していた僕。
恋心に気づきかけていたさくらさん。
お互いに少しずつ距離を縮めて、ようやく恋人になれた。
もちろん、会社では仕事に集中する。
教育係と教わる側という関係も、きちんと大切にする。
でも、二人きりのときは。
「……さくらさん」
「はい?」
「……好きです」
「……っ!」
今度は、さくらさんの顔が真っ赤になった。
「も、もう……! 急に言わないでください……!」
「さくらさんが言ってもいいって……」
「そ、それとこれとは別です!」
二人で顔を赤くして、しばらく黙り込む。
やがて、どちらからともなく笑い出した。
恋心を隠したままでも、付き合えるのか。
結論――できる。
ただし。
恋心を隠すことに成功したから付き合えたのではない。
隠していた気持ちを、少しずつ相手に伝えられたから。
そして、さくらさんも同じ気持ちだったから。
「……大好きですよ、さくらさん」
「……私もです」
その日、僕はようやく理解した。
恋心を知られてはいけないと思っていた相手が、いつの間にか、恋心を伝えたい一番大切な人になっていたことを。
――そして翌朝。
「おはようございます、さくらさん!」
「おはようございます」
いつもの挨拶。
いつもの笑顔。
ただし。
「……ところで、昨日の『大好き』、もう一度言っていただけませんか?」
「えっ!?」
「だ、だって……嬉しかったので……」
「…………っ!」
恋心を隠す作戦は、恋人になったあとも、まだまだ続くのでした。
おしまい。