~アイコンタクト、微笑み、そして反則級のウインク~
~アイコンタクト、微笑み、そして反則級のウインク~
朝、午前7時。
あなたは、誰よりも早く会社に出社した。
「……よし。今日は昨日よりも集中して仕事をしよう」
昨日、社内に貼り出された成績表。
あなたの順位は、ついに5位まで上がっていた。
本来なら喜ぶべきことなのだが、あなたには気がかりなことがひとつあった。
それは――。
教育係のさくらさんが、堂々の1位だったこと。
「……さすが、さくらさんだよな」
あなたは小さくつぶやきながら、自分の席に座った。
パソコンの電源を入れ、今日の予定を確認する。
静かなオフィス。
まだ誰も来ていない。
「よし……この時間なら、誰にも邪魔されずに仕事ができる」
そう思った、そのときだった。
「おはようございます」
「……っ!?」
隣から聞こえた、聞き慣れた優しい声。
振り向くと、そこには。
「さ、さくらさん!?」
いつの間にか、さくらさんが隣の席に座っていた。
「はい。おはようございます。今日も早いですね」
「お、おはようございます! さくらさんも早いですね!」
「ふふっ。あなたがいらっしゃると思って、少し早めに来てみました」
「…………え?」
今、なんて?
あなたがいると思って?
「……あ、ありがとうございます」
平静を装ってパソコンに向き直る。
(待って。今のってどういう意味!?)
(いやいや、深読みするな! さくらさんは教育係! きっと仕事の話だ!)
そう自分に言い聞かせ、キーボードに手を置いた。
すると。
「……♪」
隣から、楽しそうな気配がする。
ちらっ。
あなたが横を見ると――。
さくらさんと、目が合った。
にこっ。
「…………っ!?」
さくらさんが、優しく微笑んでいた。
「どうかなさいましたか?」
「い、いえ! 何でもありません!」
あなたは慌てて前を向いた。
(朝から笑顔がかわいいんですけど!?)
(落ち着け、僕! 仕事だ、仕事!)
ところが。
「……あの」
「は、はい!?」
「こちらを見ていただけませんか?」
「えっ、あ、はい……」
おそるおそる顔を向ける。
すると、さくらさんは少しだけ首を傾けて――。
ひらひらっ。
あなたに向かって、小さく手を振った。
「おはようございます。改めて、今日もよろしくお願いしますね」
「~~~~っ!!」
「……? お顔が赤いようですが、暑いですか?」
「暑くないです!!」
「そうですか?」
さくらさんは不思議そうにしながらも、また微笑んだ。
(この人……絶対に僕を動揺させている!)
(いや、そんなはずはない! さくらさんに限って……!)
あなたは、必死に仕事の画面を見つめた。
しかし、ここからが本当の戦いだった。
午前9時。最初のアイコンタクト。
社員たちが次々と出社してきた。
「おはようございます!」
「おはようございます!」
あなたも挨拶を交わし、仕事を始める。
今日は女性社員たちから頼まれている資料の確認もある。
(よし。忙しくなれば、さくらさんのことを考える暇もなくなるはず……!)
そう考えたあなたは、集中してキーボードを打ち始めた。
カタカタカタ……。
カタカタカタ……。
順調だった。
そのときまでは。
ふと、視線を感じた。
右隣。
さくらさんがこちらを見ていた。
目が合う。
にこっ。
「…………」
あなたは、そっと視線をパソコンに戻した。
数秒後。
ちらっ。
また目が合った。
にこっ。
「…………」
今度は書類を見る。
数秒後。
ちらっ。
にこっ。
(なんで!?)
(なんで顔を上げるたびに目が合うんですか!?)
さくらさんは何事もなかったかのように、資料を確認している。
しかし、あなたがもう一度だけ横を見ると――。
ぱちっ。
さくらさんが、ウインクした。
「ぶっ……!?」
あなたは危うく、飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。
「だ、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です!」
「ふふっ。よかったです」
(よくない!! 僕の心臓がよくない!!)
胸が、ドクン。
もう一度、ドクン。
(さくらさん……今、ウインクしたよね!?)
(僕に!? いや、僕以外に誰も見てないんだけど!?)
さくらさんは、口元に手を添えて小さく笑った。
「……今日のあなた、少し面白いですね」
「えっ?」
「いえ、何でもありません」
絶対に何かある。
あなたは確信した。
午前10時。逃げ場のない隣の席。
「すみません、こちらの資料を確認していただけますか?」
「はい、もちろんです!」
あなたは女性社員から受け取った資料を確認した。
修正点を丁寧に説明し、改善案も添える。
「ありがとうございます! すごく分かりやすいです!」
「いえいえ。お役に立ててよかったです」
女性社員が笑顔で戻っていく。
(よし。今度こそ仕事に集中できる!)
あなたが満足してパソコンに向き直ると。
「……あなた」
「は、はい?」
さくらさんが、こちらを向いていた。
「先ほどの説明、とても丁寧でしたね」
「あ、ありがとうございます。分かりやすく伝えられたならよかったです」
「ええ。さすが、成績5位の方ですね」
「い、いやいや! まだまだです! さくらさんは1位ですし!」
「ふふっ。そんなに謙遜なさらなくても」
さくらさんは微笑み、あなたの成績表の話を続けた。
「私は、あなたが努力なさっていることを知っていますから」
「…………」
「5位、おめでとうございます」
その言葉は、とても優しかった。
あなたは少しだけ照れながら、頭を下げる。
「……ありがとうございます。さくらさんにそう言ってもらえると、嬉しいです」
「本当ですか?」
「はい」
「では……」
さくらさんは、少しだけ身を乗り出した。
「今日も、たくさん褒めて差し上げますね」
「…………え?」
「頑張っているところを見つけたら、ですけれど」
にこっ。
(待って待って待って!!)
(そんなこと言われたら、余計に頑張っちゃうじゃないですか!!)
あなたは顔を逸らした。
しかし、その瞬間。
さくらさんが、あなたの視界の端で小さく手を振った。
ひらひらっ。
「……?」
ちらっ。
にこっ。
「…………っ!」
あなたは、再び正面を向いた。
(だめだ! この人、今日どうしたんだ!?)
午前11時。ウインクの追い打ち。
仕事は順調に進んでいた。
あなたは複数の資料を整理し、午後の会議に必要な準備を終わらせていく。
一方、隣のさくらさんも、さすが成績1位というべき仕事ぶりだった。
無駄のない操作。
的確な判断。
美しい資料のまとめ方。
(やっぱり、さくらさんはすごいな……)
あなたは思わず、尊敬の眼差しで隣を見た。
すると。
さくらさんも、あなたを見ていた。
「あっ……」
目が合った。
さくらさんは少し嬉しそうに微笑む。
そして、口だけを動かした。
「……どうしました?」
声は聞こえない。
けれど、唇の動きで分かった。
あなたは慌てて首を横に振る。
(いやいや! 今のは見ていただけです! 尊敬していただけです!)
さくらさんは、そんなあなたを見て――。
ぱちっ。
また、ウインク。
「…………」
あなたの手が止まった。
マウスを持ったまま、完全に固まる。
「……あなた?」
「…………」
「もしもし?」
「はっ! はいっ!」
「大丈夫ですか? 先ほどから、何度か固まっていらっしゃいますが」
「だ、大丈夫です! パソコンが少し重くて!」
「まあ。パソコンが?」
「そ、そうなんです!」
さくらさんは、あなたのパソコンをちらっと見た。
画面は正常。
動作も問題なし。
「……そうですか」
そして、にっこり。
「では、私が応援して差し上げますね」
「応援……?」
「頑張ってください」
さくらさんは小さく拳を握り、控えめに応援のポーズをした。
「ふぁいと、です」
「…………」
(かわいい)
(いや、待て。今、僕は何を考えた!?)
あなたは必死に頭を振った。
さくらさんは、ますます楽しそうだった。
「ふふっ。今日のあなた、本当にかわいらしい反応をなさいますね」
「……っ!?」
「……あら?」
さくらさんは、少し首を傾げた。
「もしかして、照れていらっしゃいますか?」
「照れてません!!」
即答だった。
あまりにも即答だった。
近くの席にいた男性社員が、思わず振り返る。
「えっ、何? どうしたの?」
「な、何でもありません!」
あなたは慌てて頭を下げた。
さくらさんは口元を押さえて、肩を小さく揺らしている。
笑っている。
完全に笑っている。
(さくらさん……絶対、楽しんでる……!)
正午。昼休みの静かな攻防。
昼休み。
あなたはお弁当を持って、いつもの庭へ向かおうとした。
ところが。
「あなた」
「は、はい!」
振り返ると、さくらさんが立っていた。
「今日は、こちらで召し上がるのですか?」
「あ、いえ。庭で食べようかと」
「そうですか」
さくらさんは一瞬だけ考えたあと、微笑んだ。
「では、私もご一緒してよろしいでしょうか?」
「…………えっ?」
「ご迷惑でしたか?」
「い、いえ! 全然! もちろんです!」
声が大きくなってしまった。
近くの女性社員が、にやりと笑う。
「あれ? お二人、仲いいですね?」
「そ、そんなことは!」
「ふふっ。そうでしょうか?」
さくらさんは否定しなかった。
むしろ、あなたの隣に並んだ。
(お願いだから、否定してください!!)
庭に着き、二人でベンチに座る。
あなたはお弁当を開き、なるべく自然に話しかけた。
「さくらさん、午前中の資料、もう確認されたんですか?」
「はい。あなたがまとめてくださった部分も、とてもよかったですよ」
「ありがとうございます」
「特に、最後の提案が素晴らしかったです」
「そ、そんな……」
褒められる。
嬉しい。
けれど、顔を見るとまた目が合う。
にこっ。
あなたは慌ててお弁当に視線を落とした。
すると、さくらさんがそっと言った。
「……ねえ、あなた」
「はい?」
「今日は、あまりこちらを見てくださらないのですね」
「…………え?」
「朝から何度も目が合うのに、すぐに逸らしてしまわれます」
「そ、それは……!」
「私、何かしてしまいましたか?」
少しだけ寂しそうな声。
あなたは慌てて顔を上げた。
「ち、違います! さくらさんは何も悪くないです!」
「本当ですか?」
「本当です!」
「では……」
さくらさんは、いつもの優しい笑顔を浮かべた。
「もう少し、私のことを見てくださいますか?」
「…………」
あなたは、完全に言葉を失った。
(そんなことを言われたら……!)
(見たいに決まってるじゃないですか……!)
しかし、それを口にするわけにはいかない。
あなたは意を決して、さくらさんの顔を見た。
優しい瞳。
柔らかな微笑み。
そして――。
ぱちっ。
また、ウインク。
「~~~~っ!!」
「ふふっ」
さくらさんは、とうとう声を出して笑った。
「ごめんなさい。つい、かわいらしくて」
「……さくらさん」
「はい?」
「今日、僕をからかってませんか……?」
あなたが恐る恐る尋ねると、さくらさんは少し考えた。
それから。
「……秘密です」
にこっ。
その笑顔が、一番の追い打ちだった。
午後2時。アイコンタクト地獄、再開。
午後の業務が始まった。
あなたは会議資料の最終確認を行い、数字の間違いがないか慎重にチェックしていた。
(午後こそ、絶対に集中する……!)
(午前中は少し調子を崩したけど、今度こそ大丈夫だ!)
カタカタカタ。
よし。
カタカタカタ。
順調。
ちらっ。
……さくらさん。
目が合った。
にこっ。
(見ない!)
あなたはすぐに画面へ戻った。
数分後。
ちらっ。
ひらひらっ。
(手を振らないでください!!)
さらに数分後。
ちらっ。
さくらさんは、頬杖をついてあなたを見ていた。
目が合うと、微笑む。
あなたは慌てて視線を逸らす。
すると、さくらさんが小さく身を乗り出してきた。
「……あなた」
「は、はいっ!」
「私の顔に、何かついていますか?」
「えっ!? い、いえ!」
「では、なぜ何度もこちらを見てくださるのですか?」
「…………」
(あなたがこっちを見ているからです!!)
もちろん、言えない。
「えっと……その……」
必死に考えた末、あなたは答えた。
「さくらさんが、仕事を頑張っていらっしゃるので……参考にしようと!」
「まあ」
さくらさんは、ぱっと嬉しそうな顔をした。
「私の仕事ぶりを参考にしてくださっているのですね」
「は、はい!」
「嬉しいです」
そして、少しだけ声を落とした。
「でも……」
「……?」
「お仕事以外の理由でも、見てくださっていたら嬉しいのですが」
「………………」
時が止まった。
あなたは、キーボードの上に置いた指を動かせなくなった。
さくらさんは何事もなかったように、自分の画面へ向き直る。
「……ふふっ」
小さな笑い声。
(今の何!?)
(仕事以外の理由って何!?)
(僕の気持ち、ばれてる!?)
あなたは、顔が熱くなるのを感じた。
そして、心の中で叫んだ。
(教育係のさくらさんには、恋心を知られてはいけないんだ!!)
しかし、隣から聞こえてきた声は、あまりにも優しかった。
「……あなた」
「は、はい……」
「今日も、隣に座れて嬉しいです」
ドクン。
胸が大きく鳴った。
あなたは、ゆっくりと横を向いた。
さくらさんは、目を細めて微笑んでいた。
いつもの仕事中の表情とは、ほんの少し違う。
どこか嬉しそうで。
どこか、あなたの反応を待っているようで。
「……私、あなたとお仕事をする時間が好きなんです」
「…………っ」
あなたは、もう何も言えなかった。
「もちろん、教育係として、ですよ?」
さくらさんはそう付け加えた。
けれど。
その直後。
ぱちっ。
またウインク。
(教育係としてのウインクって何ですかああああ!!)
あなたは、机に突っ伏しそうになるのを必死でこらえた。
午後5時。最後の一撃。
定時が近づいていた。
あなたは何とか今日の業務を終わらせ、報告書をまとめた。
「……よし。終わった」
長い一日だった。
仕事そのものは順調だった。
成績5位に恥じない働きもできた。
女性社員たちの相談にも対応した。
問題は、ただひとつ。
隣の教育係だった。
あなたはパソコンを閉じ、深く息を吐いた。
「お疲れさまでした」
隣から声がした。
「さくらさんも、お疲れさまでした」
「今日は、たくさん頑張っていらっしゃいましたね」
「ありがとうございます」
「5位の実力、しっかり見せていただきました」
「……あはは」
あなたは照れ笑いを浮かべた。
すると、さくらさんがこちらを向いた。
「それから……」
「はい?」
「今日、一日」
さくらさんは、指を一本立てた。
「私と何度も目が合いましたね」
「…………」
「手も振りましたし、微笑みましたし……」
そこで、さくらさんは少しだけいたずらっぽい表情になった。
「ウインクもしました」
「さくらさん!!」
思わず声が出た。
さくらさんは、驚いたあと――。
くすくすと笑い始めた。
「ふふっ、ごめんなさい。そんなに慌てないでください」
「だ、だって……!」
「はい。分かっています」
さくらさんは優しく頷いた。
「今日は、少しあなたに構っていただきたかったんです」
「…………え?」
「最近、女性社員の皆さんからも頼られていらっしゃいますし、いつも忙しそうでしょう?」
「そ、それは……」
「だから、今日くらいは」
さくらさんは、そっと微笑んだ。
「私のことも、少し気にしていただきたかったんです」
「…………」
あなたの胸が、ドクンと鳴った。
さくらさんは、少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「……なんて。少しわがままでしたね」
「い、いえ!」
あなたは思わず身を乗り出した。
「そんなことないです! 僕は……!」
そこまで言って、口を閉じた。
(危ない!!)
(今、好きですって言いそうになった!!)
さくらさんは、じっとあなたを見ている。
「……僕は?」
「…………」
あなたは必死に言葉を探した。
そして、ようやく。
「……さくらさんと一緒に仕事ができて、嬉しいです」
そう答えた。
さくらさんは一瞬、目を丸くした。
そのあと、ふわっと頬を緩めた。
「……ありがとうございます」
声が、いつもより少しだけ柔らかい。
「私も、嬉しいです」
そして。
最後の最後に。
さくらさんはあなたに向かって、小さく手を振った。
ひらひらっ。
「明日も、隣に座ってもよろしいですか?」
「……もちろんです!」
あなたが答えると、さくらさんは最高に嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「ふふっ。約束ですよ?」
ぱちっ。
本日、最後のウインク。
「…………」
あなたは静かに天井を見上げた。
(……明日も、これが続くの?)
(僕の心臓、持つのかな……)
その隣で、さくらさんは帰り支度をしながら、小さくつぶやいた。
「……明日は、もう少し大胆にしてみようかしら」
「……え?」
「何でもありませんよ?」
にこっ。
あなたは、その笑顔を見た瞬間、すべてを悟った。
(明日も絶対に何かある……!!)
そして、さくらさんは楽しそうに笑いながら、あなたと一緒にオフィスを後にしたのだった。
――恋心を隠したいあなたと、何やら楽しそうなさくらさん。
成績表の順位は5位。
けれど、さくらさんの笑顔に対するあなたの耐久力は――。
本日、最下位だった。
「……明日は絶対に平常心でいこう」
あなたはそう決意した。
その数秒後。
「あなた?」
「は、はい!?」
「明日も、たくさん目を合わせましょうね?」
「~~~~っ!!」
廊下に、さくらさんの楽しそうな笑い声が響いた。
そしてあなたは、心の中でそっと叫ぶのだった。
(教育係のさくらさんには、恋心を知られてはいけない――!!)
なお、さくらさんがどこまで気づいているのかは、まだ秘密である。