「美咲さんの笑顔と、何度もこちらを見るさくらさん」
「美咲さんの笑顔と、何度もこちらを見るさくらさん」
朝、出社すると、あなたは新しく中途入社した美咲さんと顔を合わせた。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
「おはようございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
美咲さんは、まだ少し緊張している様子だった。
入社してから少しずつ仕事にも慣れてきたものの、まだ分からないことも多いらしい。
そんな彼女が、午前中の仕事を終えた頃、あなたのデスクへやってきた。
「あの……少し、ご相談してもよろしいでしょうか?」
「はい、大丈夫ですよ。どうしました?」
美咲さんは手元の資料をぎゅっと握った。
「午後のプレゼンなのですが……資料は作れたんですけど、説明の順番がうまくまとまらなくて……。このままだと、ちゃんと発表できるか不安で」
あなたは資料を受け取り、目を通した。
なるほど。
必要な情報はきちんとそろっている。ただ、伝えたいことが多すぎて、聞く側が少し混乱してしまいそうだった。
「大丈夫ですよ。これ、内容はしっかりしています。あとは順番を整理すれば、きっと伝わりやすくなります」
「ほ、本当ですか?」
「ええ。一緒に考えましょう」
美咲さんの表情が、ほんの少し明るくなった。
その様子を、少し離れた場所から見ていた人物がいた。
教育係のさくらさんである。
さくらさんは書類を持ったまま、あなたと美咲さんの方をちらりと見た。
そして、小さく首をかしげた。
「……あら?」
しかし、すぐに何事もなかったかのように自分の仕事へ戻った。
あなたは、その視線に気づいていなかった。
1.プレゼンの準備と、頼れる先輩
「まず、最初に結論を伝えましょう。そのあとに理由、具体例、最後にまとめ。こういう流れにすると、聞いている人も理解しやすいです」
「なるほど……!」
あなたは美咲さんと一緒に資料を並べ替え、説明の文章を整えていった。
途中で美咲さんが迷うたび、あなたは急かさずに説明した。
「ここは、無理に難しい言葉を使わなくても大丈夫です。美咲さんが理解していることを、自分の言葉で伝えればいいんですよ」
「自分の言葉……」
「はい。資料を読むだけじゃなくて、相手に説明するつもりで話してみてください」
美咲さんは、少し恥ずかしそうに笑った。
「……あなたさんって、教えるのが上手なんですね」
「そうですか? ありがとうございます」
「はい。私、まだ分からないことだらけで……。迷惑をかけてばかりだと思っていたので」
「迷惑なんて思っていませんよ。分からないことを聞いてくれる方が、こちらも安心しますから」
その言葉を聞いた美咲さんは、ほっとしたように息を吐いた。
「……ありがとうございます」
その笑顔を見て、あなたは少しだけ思った。
(ああ、よかった。最初に相談してきたときは、すごく不安そうだったからな)
もちろん、その程度のことだった。
あなたにとっては、困っている同僚を手伝った。それだけの話である。
――ただし。
少し離れた席にいるさくらさんは、なぜか何度もこちらを見ていた。
一度目。
あなたが美咲さんの資料を指さして説明しているとき。
二度目。
美咲さんが笑顔でお礼を言っているとき。
三度目。
あなたが自分の飲み物を一口飲み、美咲さんと一緒に資料を確認しているとき。
そして四度目。
さくらさんは、とうとう手元の書類から顔を上げた。
「……ずいぶん、楽しそうですね」
小さな声だった。
誰にも聞こえていない。
本人以外には。
2.本番、そして美咲さんの笑顔
午後。
いよいよプレゼンの時間になった。
美咲さんは会議室の前で、資料を抱えながら緊張していた。
「うう……。やっぱり緊張します……」
「大丈夫です。準備したことを、そのまま伝えればいいんです」
「……はい!」
あなたがうなずくと、美咲さんも深呼吸をした。
そして、プレゼンが始まった。
最初こそ少し声が硬かったものの、次第に落ち着きを取り戻していく。
説明の順番も分かりやすく、資料の要点もしっかり伝わっていた。
最後に美咲さんが一礼する。
「以上で、私からの説明を終わります。ありがとうございました」
会議室に拍手が広がった。
「分かりやすかったよ」
「資料もよくまとまっていたね」
上司からも好評だった。
美咲さんは驚いたように目を丸くし、それから嬉しそうに頭を下げた。
プレゼンは、大成功だった。
会議室を出たあと、美咲さんはあなたを見つけると、ぱたぱたと駆け寄ってきた。
「あ、あの! ありがとうございました!」
「いえいえ。美咲さんがしっかり準備したからですよ」
「そんなことないです! あなたさんが一緒に考えてくれたおかげです!」
「そう言ってもらえると、手伝った甲斐がありますね」
「本当に、ありがとうございます!」
美咲さんは、もう一度、深々と頭を下げた。
顔を上げた彼女は、緊張から解放されたような、柔らかな笑顔を浮かべていた。
あなたは思わず微笑んだ。
「成功してよかったですね」
「……はい!」
その一瞬の笑顔を、さくらさんは廊下の向こうから見ていた。
そして――。
ぴたり。
足が止まった。
(……あんな笑顔で、お礼を言われているんですね)
さくらさんは手に持った書類を胸元に寄せた。
(いえ、もちろん、仕事を手伝っただけです。分かっています。分かっていますけれど……)
あなたが美咲さんに優しく笑いかける。
美咲さんも、あなたに笑顔を返す。
さくらさんは、なぜかその光景から目を離せなかった。
「…………」
しばらくして、はっと我に返る。
「……私、何を見ているのでしょう」
頬を軽く押さえ、足早にその場を離れた。
もちろん、あなたは最後まで気づいていなかった。
3.夕方、ひとり庭で振り返る
仕事が終わった夕方。
あなたは今日の業務を片づけ、会社の庭へ出た。
夕日が木々の隙間から差し込み、ベンチの周りを淡いオレンジ色に染めている。
あなたはベンチに腰を下ろし、今日一日を振り返った。
「……ふう」
少しだけ息を吐く。
(今日は、美咲さんのプレゼンを手伝ったな)
資料の並べ替え。
説明の練習。
本番前の緊張した顔。
そして、成功したあとの笑顔。
あなたは、ふと思い出して小さく笑った。
「美咲さん、終わったあと、たくさんお礼を言われたな」
何度も何度も、ありがとうございます、と言ってくれた。
あれほど喜んでもらえると、手伝った側としても嬉しい。
「……ちょっとだけ笑顔、かわいかったな」
ぽつり。
言った直後、あなたは自分で少し照れた。
「……いやいや。そういう意味じゃないからな。嬉しそうでよかったって話だ」
誰もいない庭で、ひとり言い訳をする。
そして、ふと別のことを思い出した。
「そういえば……」
今日一日、さくらさんが何度もこちらを見ていた気がする。
資料を確認しているとき。
美咲さんに説明しているとき。
プレゼンが終わったあと。
何度も、何度も。
「……何だったんだろう?」
あなたは腕を組んで考え込んだ。
(僕、何かミスしたかな?)
いや、仕事の報告はきちんとした。
(さくらさんに確認してもらう資料、何か抜けていた?)
それも思い当たらない。
(……もしかして、美咲さんの教育について何か問題があったのかな?)
あなたは真剣な顔で考えた。
「うーん……分からない」
結局、答えは出なかった。
あなたはベンチの背もたれに寄りかかり、空を見上げる。
「まあ、明日聞いてみるか」
そのときだった。
「……何を、聞いてみるのですか?」
「うわっ!?」
突然、後ろから声がした。
振り返ると、そこにはさくらさんが立っていた。
「さ、さくらさん!?」
「こんばんは。お仕事、お疲れさまです」
いつもどおりの丁寧な口調。
いつもどおりの、落ち着いた笑顔。
……ただし。
なぜか、あなたの心臓が跳ねた。
ドクン。
(い、いつからいたんだ!?)
「お、お疲れさまです! えっと、さくらさんも今お帰りですか?」
「はい。その前に、少し庭を通ろうと思いまして」
「そ、そうなんですね!」
さくらさんは、あなたの隣のベンチを見た。
「……隣、よろしいですか?」
「も、もちろんです!」
さくらさんが隣に腰を下ろす。
少しだけ距離が空いている。
なのに、あなたは妙に落ち着かない。
(まずい。さっきの独り言、聞かれてないよな……?)
さくらさんは穏やかな表情で、あなたを見た。
「今日は、美咲さんのお手伝いをされていたのですね」
「えっ? あ、はい。プレゼンの準備で困っていたみたいなので」
「そうでしたか」
「無事に成功してよかったです。美咲さんも、すごく喜んでくれましたし」
「……そうですね」
さくらさんは一度うなずいた。
そして、少し間を置いてから尋ねた。
「美咲さんとは、もうずいぶん仲良くなられたのですか?」
「え? いえ、まだ入社して間もないですから。仕事の相談に乗ったくらいですよ」
「……そうですか」
さくらさんは微笑んだ。
「あなたさんは、本当にお優しいですね」
「い、いえ! 困っていたら、誰だって手伝いますよ」
「ふふっ。そうですね」
さくらさんは小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間。
あなたの胸が、ドクン、と鳴った。
(……やっぱり、さくらさんの笑顔は反則だ)
もちろん、そんなことは口に出せない。
絶対に。
あなたは視線をそらし、庭の木々を眺めた。
すると、さくらさんがぽつりと言った。
「……私も」
「はい?」
「私も、あなたさんにお手伝いしていただきたいことがあるのですが」
「えっ!? もちろんです! 何でも言ってください!」
思わず勢いよく返事をしてしまった。
さくらさんは少し目を丸くしたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。では、明日、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「はい!」
(よかった。何か仕事の相談かな?)
あなたは安心した。
しかし、さくらさんの胸の内は、あなたが想像しているものとは少し違っていた。
(……本当は、仕事のことだけではないのですけれど)
美咲さんに向けられた、あなたの優しい笑顔。
何度もお礼を言われていた、あなたの姿。
そして、さっき庭でひとり、何かを考えていたあなた。
さくらさんは、どうしても気になってしまっていた。
(……今日、あなたさんは美咲さんのことを、どう思っていらっしゃったのでしょう)
聞きたい。
でも、聞けない。
そんなことを尋ねたら、自分の気持ちまで知られてしまいそうだから。
さくらさんは、いつものように穏やかに微笑んだ。
「それでは、明日もよろしくお願いいたしますね」
「はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」
あなたは笑顔で答えた。
その瞬間、さくらさんの胸が――。
ドクン。
(……ああ、もう)
さくらさんは、心の中でそっとつぶやいた。
(どうして、そんなに無邪気に笑うのですか……)
あなたは、さくらさんの微妙な変化に気づかないまま、立ち上がった。
「では、そろそろ帰りますね。さくらさんも、お気をつけて!」
「はい。あなたさんも、お気をつけて」
あなたが庭を出ていく。
さくらさんは、その背中を見送った。
そして、誰もいなくなった庭で、小さく頬を押さえる。
「……明日、少しだけ……お話しできるといいですね」
夕暮れの庭に、さくらさんの小さな声が溶けていった。