――「それだけだと、寂しいな」
――「それだけだと、寂しいな」
昼休みが終わる少し前。
あなたはいつものように、会社の庭にあるベンチに座っていた。
手には、午後の業務で使う資料。 頭の中では、今日の仕事の段取りを考えていた……はずだった。
「……そういえば」
ふと、あなたは手を止めた。
「さくらさんの教育係って、いつまでなんだろう」
あなたの教育係である、さくらさん。
仕事で困ったときには助けてくれる。 失敗したときには、怒るのではなく、どうすれば次に成功できるのかを丁寧に教えてくれる。
あなたが別部署の社員たちに責められたときには、普段の敬語を忘れるほど怒って守ってくれたこともあった。
体調を崩したときには、お見舞いにまで来てくれた。
そして何より――。
あなたは、さくらさんと話す時間が好きだった。
もちろん、そんなことは本人には絶対に言えない。
なぜなら。
あなたは、教育係のさくらさんに恋をしているからだ。
「……教育係が終わったら、どうなるんだろう」
あなたは資料を見つめながら考えた。
「一人前になったら、教育係じゃなくなるよな」
それは当然のことだった。
いつまでも教育係と新人という関係が続くわけではない。
あなたが成長すれば、さくらさんの役目も変わる。
「……そしたら、普通の上司と部下になるのかな」
そう考えた瞬間。
胸の奥が、ほんの少しだけ重くなった。
今は、仕事の報告をするだけでも自然に話しかけられる。
わからないことがあれば、さくらさんに相談できる。
業務が終わったあとだって、教育係として声をかけてもらえる。
けれど。
教育係という理由がなくなったら?
わざわざ自分に話しかけてくれることも、少なくなるのだろうか。
庭で偶然会っても、今までのように気軽に話せなくなるのだろうか。
「…………」
あなたは少しだけうつむいた。
そして、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
「……それだけだと、寂しいな」
その声は、庭の風に溶けてしまいそうなほど小さかった。
本人も、まさか誰かに聞かれるとは思っていなかった。
――そう。
あなたの後ろに、さくらさんが立っていることにも。
1.聞こえてしまった、たった一言
「…………」
さくらさんは、手に持っていた書類を胸元に抱えたまま、立ち止まっていた。
実は、あなたに午後の資料を渡しに来たところだった。
声をかけようとした、その瞬間。
あなたの呟きが聞こえたのだ。
『……それだけだと、寂しいな』
「……えっ」
さくらさんの目が、わずかに見開かれた。
(それだけだと……寂しい?)
彼女は、あなたの背中を見つめた。
あなたはまだ気づいていない。
(教育係が終わったあとのことを、考えていらっしゃるのでしょうか……?)
さくらさんは、手元の書類をぎゅっと握った。
あなたが成長して、自分の手を離れていく。
教育係としては、それは喜ばしいことだ。
むしろ、そうなることを目指して指導してきた。
なのに。
(……寂しい、ですか)
さくらさんの胸が、ドクン、と鳴った。
(それは……私が教育係でなくなったら、私と話す機会が減ってしまうから……?)
考えれば考えるほど、顔が熱くなっていく。
もちろん、あなたが何を思ってその言葉を口にしたのか、さくらさんには断言できない。
ただ。
あなたの声が、いつもより少し寂しそうだったことだけは、確かだった。
(……そんなふうに思ってくださっていたのですね)
さくらさんは、ほんの少しだけ微笑んだ。
けれど、その笑顔には、どこか照れくさそうな色も混じっていた。
(……私だって)
そこまで考えて。
「……っ!」
さくらさんは、慌てて口元を押さえた。
(い、いけません! 今は仕事中です!)
自分の気持ちにまで教育係としての規律を持ち込もうとしているあたり、彼女らしかった。
2.何も知らないあなた
「……よし」
あなたは資料をまとめて立ち上がった。
「考えても仕方ないか。今は仕事を頑張ろう」
そして、くるりと振り返る。
「うわっ!?」
「きゃっ!?」
目の前にいたのは、さくらさんだった。
あなたは思わず後ずさった。
「さ、さくらさん!? いつからそこに!?」
「つ、つい先ほどです!」
「そ、そうですか……!」
(よかった……!)
あなたは心の中で胸をなで下ろした。
小さな呟きが聞かれていたなんて、夢にも思っていない。
しかし。
さくらさんは、いつもより少しだけあなたを見つめていた。
「……あの」
「は、はい?」
「先ほど、何か考え事をされていたようですが……」
「えっ」
(まさか!?)
あなたの心臓が跳ねた。
ドクンッ!
(聞かれた!? いや、でも小さな声だったし……!)
「い、いえ! 特に何も!」
「……そうですか?」
さくらさんが、じっとこちらを見る。
「本当に?」
「ほ、本当です!」
「……ふふっ」
「えっ?」
さくらさんは、珍しく少しだけいたずらっぽく笑った。
「それなら、よろしいのですが」
(な、何だ今の笑顔!?)
あなたの心臓が、さらに忙しくなる。
(かわいい……じゃなくて! 落ち着け、僕!)
さくらさんは書類を差し出した。
「こちら、午後の会議で使用する資料です。確認をお願いいたします」
「は、はい! ありがとうございます!」
あなたが資料を受け取ろうとすると、さくらさんはふと手を止めた。
「……それと」
「はい?」
「教育係としての役目が終わったあとも、私に相談してくださって構いませんからね」
「…………え?」
時が止まった。
あなたは、思わず彼女の顔を見つめた。
「……えっ、あの……どうして、その話を?」
「……さあ、どうしてでしょう?」
「ええっ!?」
さくらさんは、すっと視線をそらした。
耳が、ほんのり赤い。
「私も、あなたが一人前になったからといって、急に他人のように接するつもりはありませんので」
「…………」
「困ったことがあれば、いつでも声をかけてください。もちろん、お仕事以外のことでも……私に答えられることであれば」
最後の言葉だけ、ほんの少し小さかった。
あなたは、しばらく何も言えなかった。
(……え?)
(それって……)
(いや、深読みするな! さくらさんは優しいから、きっと誰にでも……!)
そう考えようとした。
しかし。
「……ありがとうございます」
あなたは、自然と笑っていた。
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
その笑顔を見た瞬間。
さくらさんの胸が、またドクンと鳴った。
(……ああ)
(やっぱり、私は……)
そこから先は、考えないことにした。
少なくとも、今は。
3.さくらさんの、小さな本音
午後の業務が始まった。
あなたはデスクで資料を確認し、必要な箇所にメモを入れていく。
いつもどおりの仕事。
いつもどおりの職場。
けれど、あなたの心には、先ほどの言葉が残っていた。
『教育係としての役目が終わったあとも、私に相談してくださって構いませんからね』
「……優しいなあ」
ぼそっと呟く。
もちろん、今度は周囲に誰もいないことを確認していた。
その頃、少し離れたデスクでは。
さくらさんが書類を整理していた。
けれど、ペンがなかなか進まない。
(……教育係が終わったら)
(私は、あの方のそばにいる理由を、一つ失うのですね)
今までは、指導するためという理由があった。
仕事を教えるため。 進捗を確認するため。 困っていないか尋ねるため。
けれど、それがなくなったら。
自分から話しかける理由を、どう作ればいいのだろう。
「…………」
さくらさんは、書類に視線を落とした。
(……何を考えているのでしょう、私は)
(教育係なのですから、喜んで送り出して差し上げるべきです)
そう思う。
本当に、そう思っている。
それなのに。
あなたが寂しそうに呟いた声を思い出すと、胸の奥が温かくなる。
(……私も、少しだけ)
彼女は、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……寂しい、かもしれませんね」
その直後。
「さくらさん?」
「ひゃっ!?」
同僚の声に、さくらさんは飛び上がった。
「ど、どうしました!?」
「いや、さっきから書類を同じページで止めてるけど……大丈夫?」
「だ、大丈夫です! 何も問題ありません!」
「顔、赤いけど?」
「問題ありません!」
「そ、そう……?」
同僚は首をかしげながら去っていった。
さくらさんは、両手で頬を押さえた。
(……もう!)
(今日は、どうしてこんなに落ち着かないのでしょう……!)
そして、ちらりとあなたのデスクを見る。
あなたは真剣な顔で仕事をしていた。
その横顔を見て、さくらさんは小さく微笑んだ。
(……教育係でなくなっても)
(私は、あなたと……)
そこまで考えたところで、また顔が熱くなった。
「……仕事です。仕事!」
自分に言い聞かせるように呟く。
しかし、ペンを持つ手元には、さっきまでなかった小さな笑みが浮かんでいた。
4.定時直前、二人きりの廊下
夕方。
あなたは今日の業務を終え、さくらさんに報告をしていた。
「以上です。今日の作業はすべて完了しました」
「確認いたしました。今日もお疲れさまでした」
「ありがとうございます!」
あなたは頭を下げ、帰ろうとした。
すると。
「……あの、少しよろしいですか?」
「はい?」
さくらさんが、少しだけためらいながら声をかけてきた。
「もし、教育係としての指導が終わったら……」
「……はい」
「あなたは、私に話しかけにくくなりますか?」
「…………え?」
あなたは固まった。
(な、何で!?)
(何で、今それを聞くんですか!?)
さくらさんは、あなたの返事を待っている。
その表情は、いつもどおり落ち着いていた。
けれど、指先だけが、書類の端をそっと握っていた。
あなたは考えた。
ここで正直に答えるべきか。
それとも、いつもどおり平然と振る舞うべきか。
本当は。
本当の本当は。
教育係でなくなっても、さくらさんと話したい。
仕事のことだけじゃなく、今日あった小さな出来事も。 庭で見つけた花のことも。 休日に見た映画のことも。
できることなら、今までと同じように笑い合いたい。
けれど、それを全部言ってしまったら。
恋心まで、こぼれてしまいそうだった。
だからあなたは、少しだけ笑って答えた。
「……話しかけにくくなんて、なりませんよ」
「……本当ですか?」
「はい。さくらさんは、僕にとって大切な人ですから」
「…………っ」
言ってから気づいた。
(あっ)
(しまったあああああ!!)
大切な人。
何という危険な言葉を口にしてしまったのだろう。
あなたは慌てて付け加えた。
「い、いえ! 仕事を教えてくださった方として、です! もちろん、それもありますし! ええと、その……!」
「……ふふっ」
さくらさんが笑った。
「はい。わかっています」
「……ほ、本当ですか?」
「ええ」
そう言いながらも、さくらさんは少しだけうつむいていた。
その頬は、夕日のせいだけではない色に染まっていた。
「……でも」
「はい?」
さくらさんは、ゆっくりと顔を上げた。
「私も、あなたが一人前になったあとも……今までのように、お話しできたら嬉しいです」
ドクン。
あなたの心臓が、大きく鳴った。
「……さくらさん」
「ですから、あまり心配なさらないでくださいね」
彼女はいつもの丁寧な笑顔を浮かべた。
ただし、その笑顔はいつもより少しだけ柔らかかった。
「これからも、よろしくお願いいたします」
「…………はい!」
あなたは、今までで一番嬉しそうに笑ってしまった。
その顔を見て、さくらさんも微笑んだ。
そして二人は、それぞれの帰り支度を始めた。
――お互いに、相手の本音を少しだけ知ったまま。
5.帰宅後。それぞれの本音
その夜。
あなたは自宅の机に向かっていた。
ノートを開き、今日の出来事を書き留める。
仕事の反省点。 明日の予定。 新しい企画のアイデア。
そして、最後のページ。
そこには、誰にも見せられない秘密があった。
あなたはペンを持ち、少し迷ってから書いた。
『教育係が終わっても、さくらさんと話していたい』
『できれば、今よりもっと仲良くなりたい』
「…………」
ペンを止める。
「……好きなんだよなあ」
小さく呟き、ノートを閉じた。
「……知られたら、どうなるんだろう」
あなたは天井を見上げた。
一方、その頃。
さくらさんも自宅で、温かい飲み物を片手に考え事をしていた。
今日、あなたが言った言葉。
『さくらさんは、僕にとって大切な人ですから』
「…………」
思い出しただけで、胸がドクンと鳴る。
「……もう」
さくらさんは、カップを両手で包み込んだ。
「そんなことを、あんなに優しい顔でおっしゃるなんて……」
誰も見ていないのに、頬が熱い。
そして、彼女はそっと呟いた。
「……教育係でなくなっても」
少し間を置いて。
「……私も、あなたとお話ししたいです」
その声は、誰にも届かなかった。
まだ、あなたにも。
けれど。
翌日から、さくらさんはあなたに話しかける回数が、ほんの少しだけ増えた。
「おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」
「この資料、面白い企画ですね。少し詳しく聞かせていただけますか?」
「お昼はもう召し上がりましたか? よろしければ、ご一緒しませんか?」
どれも、仕事の延長として説明できる言葉だった。
だからあなたは、まだ気づかない。
さくらさんが、教育係という理由がなくてもあなたと話すための、小さなきっかけを作り始めていることに。
そして、さくらさんもまだ知らない。
あなたが毎晩、ノートの最後に同じ言葉を書いていることを。
『さくらさんと、ずっと話していたい』
二人の恋心は、まだ秘密のまま。
ただし――。
「……さくらさん、今日もかわいいな」
あなたが小声で呟いた、その直後。
「……今、何かおっしゃいましたか?」
「いえっ!? 何も!!」
「……そうですか?」
さくらさんは、少しだけ目を細めた。
「……ふふっ。では、そういうことにしておきますね」
(聞こえてる!? 今度こそ聞こえてる!?)
あなたの心臓は、今日も忙しい。
そして、さくらさんの胸もまた。
ドクン、と小さく鳴っていた。