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「落としてはいけない、僕だけの秘密のノート」

教育係のさくらには恋心を知られてはいけない。 — www.pixiv.net · All chapters

「落としてはいけない、僕だけの秘密のノート」

午前10時30分。

あなたは自分のデスクで、いつものように仕事を進めていた。

臨時社長が就任してから、会社の空気は少し変わっていた。

社員たちが考えた企画を自分の手柄として発表する。 失敗すれば部下の責任にし、成功すれば自分の功績にする。

あなたは最初に彼を見たときから、その態度に違和感を覚えていた。

(……やっぱり、あの人は信用できない)

とはいえ、証拠もないのに誰かを疑うわけにはいかない。

あなたは静かに仕事を続けていた。

「この資料は……よし、完成!」

書類をまとめ、次の作業に取りかかろうとした、そのとき。

デスクの端に置いてあったノートが、腕に当たった。

「あっ!」

パサッ。

ノートが床に落ち、数ページが開いてしまった。

あなたは別の資料を持っていたため、すぐに拾うことができなかった。

「しまった……あとで拾わないと」

ところが。

「おや?」

背後から、聞き覚えのある男性の声がした。

臨時社長だった。

彼は床に落ちたノートを拾い上げた。

「これは誰のノートだ?」

あなたは振り返った瞬間、顔から血の気が引いた。

(……え?)

(うそだろ)

(それは……それだけは駄目だ!!)

「社長! それ、僕のノートです!」

あなたは慌てて駆け寄った。

しかし、臨時社長はノートを渡そうとしなかった。

「ほう。君のものか」

彼は表紙を眺めたあと、何気なく中を開いた。

そして――。

「これは……面白いものを見つけたぞ」

彼の口元が、にやりと歪んだ。

あなたの心臓が、嫌な音を立てる。

ドクン。

ドクン、ドクン。

ノートの中身は、仕事の記録だけではなかった。

そこには、あなたがずっと胸の奥にしまってきた、さくらさんへの思いが書かれていたのだ。

1.ノートに書かれていた、秘密の言葉

臨時社長はページをめくっていった。

そこには、あなたが誰にも見せるつもりのなかった文章が並んでいた。

『今日のさくらさんは、いつもより少し笑顔が多かった』

『困っていた社員を助けていた。やっぱり、さくらさんは優しい人だ』

『今日、僕が別部署の人たちに責められていたとき、さくらさんが怒ってくれた』

『あのとき、本当に嬉しかった』

あなたは思わず手を伸ばした。

「社長、お願いします。それは個人的なノートです。返してください」

「待ちたまえ。まだ全部見ていない」

「ですが……!」

臨時社長は、あなたの制止を無視して、さらにページをめくった。

そこには、もっと個人的な思いが書かれていた。

『さくらさんが眠そうにしていたから、起こさないようにそっと布をかけた』

『夢の中で、さくらさんに信用しませんと言われた。起きたあとも、少し怖かった』

『さくらさんが笑ってくれると、今日も頑張ろうと思える』

そして、最後のほうのページ。

『教育係だった頃から、ずっと好きだった』

『今は上司になったけれど、気持ちは変わらない』

『いつか、この気持ちを伝えられたらいいな』

『でも……今の関係を壊したくない』

「やめてください!」

あなたの声が、思わず大きくなった。

オフィス中の視線が集まる。

臨時社長は、まるで貴重な証拠でも見つけたかのようにノートを掲げた。

「なるほど。君は仕事中に、こんなものを書いていたのか」

「それは……仕事の資料ではありません」

「ふむ。ならば、社員たちに発表してみるのも面白いかもしれないな」

その瞬間。

あなたの背中に冷たいものが走った。

(この人……本気で言っているのか?)

臨時社長は社員たちを見回した。

「皆さん、少し聞いていただきたい。この社員のノートには――」

「社長!」

あなたは一歩前に出た。

「それだけは、やめてください」

声が震えていた。

いつもなら、困っている社員を見つければ自然と体が動くあなたが、今だけは必死にノートを守ろうとしていた。

それは仕事の成果でも、企画書でもない。

あなた自身の気持ちだった。

誰にも笑われたくない。

何より、さくらさんに知られたくなかった。

臨時社長は、そんなあなたの様子を見て、楽しそうに笑った。

「どうしてだ? 何か知られては困ることでも書いてあるのか?」

「……っ」

あなたは言葉を失った。

そのときだった。

「社長。そのノートを、こちらへ渡していただけますか?」

落ち着いた女性の声が、オフィスに響いた。

あなたは、はっと顔を上げた。

さくらさんだった。

2.さくらさんが見た、あなたの表情

さくらさんは書類を抱えたまま、臨時社長の前に立っていた。

いつもの丁寧な表情。

けれど、その目は笑っていなかった。

「これは彼の私物です。業務上必要のない内容を、本人の許可なく公開するべきではありません」

臨時社長は肩をすくめた。

「しかし、私は会社の風紀を確認しているだけだよ」

「でしたら、業務に関係する資料をご確認ください。そのノートは違います」

「君はずいぶん彼をかばうんだね?」

その言葉に、さくらさんは一瞬だけ黙った。

あなたは慌てて口を挟んだ。

「さくらさん、僕は大丈夫です! これは僕の不注意なので……!」

本当は大丈夫ではなかった。

心臓はまだ、ドクドクと鳴っている。

けれど、さくらさんまで巻き込みたくなかった。

さくらさんはあなたを見た。

その目が、ほんの少しだけ優しくなる。

「あなたの不注意だったとしても、他人の秘密を勝手に公開していい理由にはなりません」

「……さくらさん」

「それに」

さくらさんは臨時社長へ視線を戻した。

「ご本人が返してほしいとおっしゃっています。お返しください」

臨時社長は、面白くなさそうに鼻を鳴らした。

「分かった、分かった。そんなに大切なものなら返そう」

彼はノートをあなたに差し出した。

あなたは両手で受け取った。

「……ありがとうございます」

ノートを胸元に抱えた瞬間、ようやく息ができた気がした。

しかし、臨時社長は去り際に小さくつぶやいた。

「ずいぶん必死だったな。ますます気になるじゃないか」

あなたは、その言葉を聞き逃さなかった。

(……やっぱり、油断できない)

彼はきっと、まだ諦めていない。

3.庭での、二人だけの会話

昼休み。

あなたはノートを鞄の奥にしまい、会社の庭へ向かった。

いつものベンチに座る。

「はぁ……本当に危なかった」

ノートを落とした自分が悪い。

そう分かっていても、臨時社長に中身を読まれたときのことを思い出すと、顔が熱くなる。

(もし、さくらさんへの気持ちを全部読まれていたら……)

(もし、それをみんなの前で発表されていたら……)

「……終わってた」

あなたは両手で顔を覆った。

すると。

「何が終わっていたのですか?」

「うわっ!?」

飛び上がりそうになって振り返る。

そこには、さくらさんが立っていた。

「さ、さくらさん!?」

「ふふっ。そんなに驚かなくても大丈夫ですよ」

さくらさんは小さく笑い、隣のベンチに腰掛けた。

あなたは慌てて姿勢を正す。

(近い!)

(いや、いつも仕事では話しているだろ!)

(落ち着け、僕!)

ドクン。

胸の音が、また大きくなる。

さくらさんは庭の木々を眺めながら、静かに尋ねた。

「ノート、無事でしたか?」

「はい。もう鞄の奥にしまいました」

「よかったです」

彼女はほっとしたように微笑んだ。

その笑顔を見て、あなたの胸が温かくなる。

「……さくらさん」

「はい?」

「さっきは、ありがとうございました。助けてもらって」

「いえ。私は当然のことをしただけです」

「でも、嬉しかったです」

思わず本音が出てしまった。

さくらさんが、こちらを向く。

「……嬉しかった、ですか?」

「えっ!? あ、その、困っていたので! 助けてもらえて、普通に嬉しかったという意味です!」

慌てて言い直すあなた。

さくらさんは、しばらくあなたを見つめていた。

そして。

「……そうですか」

いつもより、少し柔らかい声で言った。

「それなら、よかったです」

彼女は微笑んだ。

その表情が、あまりにも優しかったので。

あなたは思わず、ノートに書いた言葉を思い出してしまった。

『さくらさんが笑ってくれると、今日も頑張ろうと思える』

(……本当に、そのとおりなんだよな)

あなたは心の中で、小さく笑った。

4.さくらさんが気づいたこと

しばらくして、さくらさんが立ち上がった。

「では、そろそろ戻りましょうか」

「はい!」

あなたも立ち上がる。

しかし、さくらさんはすぐには歩き出さなかった。

「あの……ひとつ、聞いてもいいですか?」

「はい。何でしょう?」

「そのノートには、どんなことを書いているのですか?」

――時間が止まった。

「…………え?」

「いえ、無理に答えなくても大丈夫です。ただ、あれほど大切そうにしていらしたので、少し気になってしまって」

さくらさんは困ったように笑った。

「仕事の記録でしょうか? それとも、何か考えごとをまとめているのですか?」

あなたの頭の中で、警報が鳴り響いた。

(どうする!?)

(正直に言うわけにはいかない!)

(でも、嘘をつくのも変だ!)

あなたは数秒間考えたあと、できるだけ自然に答えた。

「……自分の気持ちや、日々の出来事を整理しているんです」

「気持ち、ですか?」

「はい。嬉しかったこととか、反省したこととか……。あと、忘れたくないことも」

さくらさんは目を丸くした。

「忘れたくないこと……」

「はい」

「素敵ですね」

その一言に、あなたは思わず彼女を見た。

さくらさんは、穏やかな笑顔を浮かべていた。

「私も、そういうノートを書いてみようかしら」

「えっ?」

「毎日、嬉しかったことや、頑張ったことを少しずつ。忙しいと、そういうことを忘れてしまいがちですから」

あなたは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

(……さくらさんなら、きっと素敵なノートを書くんだろうな)

そして、心の中で付け加える。

(できれば、そのノートに……僕と話したことも書いてくれたら嬉しいな)

もちろん、口には出さなかった。

「では、戻りましょう」

「はい!」

二人は並んでオフィスへ戻っていった。

その途中、さくらさんがあなたに気づかれないように、そっと横顔を見つめていたことを、あなたは知らない。

(あんなに必死に守っていたノート……)

(いったい、どんな思いが書かれているのでしょう)

さくらさんは、少しだけ頬を赤くした。

(……いえ。本人が話してくれるまでは、聞かないでおきましょう)

彼女は小さく微笑んだ。

そして、胸の奥で。

ドクン。

小さな音が鳴った。

5.その日の夕方、臨時社長は動き出す

午後5時。

あなたは今日の業務を終え、報告書を提出していた。

臨時社長は、あなたの提出した資料を眺めていた。

「なるほど。よくまとまっているじゃないか」

「ありがとうございます」

「この企画、明日の役員会で私から発表させてもらおう」

あなたの手が止まった。

「……社長。それは、僕が担当した企画です」

「もちろん、分かっているとも。だが、会社全体の成果として発表するのだから、問題ないだろう?」

「担当者の名前も、きちんと記載していただけますか?」

臨時社長の笑顔が消えた。

「君は私を疑っているのかね?」

あなたは静かに答えた。

「疑いたくはありません。ただ、誰が考え、誰が実行したのか。それを正しく記録しておきたいんです」

臨時社長は、しばらくあなたを睨んだ。

やがて、にっこりと笑った。

「……分かった。よく考えておこう」

その返事を聞いても、あなたは安心しなかった。

(絶対に、記録を残しておこう)

あなたは自分のデスクに戻り、企画の作成履歴や打ち合わせの記録を整理した。

その様子を、少し離れた場所からさくらさんが見ていた。

彼女はあなたのデスクに近づくと、静かに声をかけた。

「今日も、お疲れさまでした」

「さくらさんも、お疲れさまです!」

「……あの社長のこと、気をつけてくださいね」

あなたは顔を上げた。

「やっぱり、さくらさんも怪しいと思っていますか?」

「断定はできません。でも、あなたが大切にしている仕事を守るためにも、記録は残しておいたほうがいいと思います」

「分かりました。ありがとうございます」

さくらさんは、少しだけ微笑んだ。

「それと……」

「はい?」

「ノートも、今度から落とさないようにしてくださいね」

「…………はい」

あなたの顔が一瞬で赤くなった。

「き、気をつけます!」

「ふふっ。お願いしますね」

さくらさんは楽しそうに笑い、自分のデスクへ戻っていった。

あなたは、その後ろ姿を見送りながら、そっと鞄の中を確認した。

ノートは、きちんとそこにあった。

(……よかった)

そして、心の中でつぶやいた。

(さくらさんへの気持ちは、まだ秘密だ)

(でも、仕事で誰かの手柄を横取りするような人には、絶対に負けない)

あなたは新しいページを開き、今日の出来事を書き始めた。

『今日、さくらさんが僕を助けてくれた』

少し考えてから、もう一行。

『やっぱり、さくらさんは優しい。笑顔がかわいかった』

ペンが止まる。

「……いや、最後の一文は、さすがに誰にも見せられないな」

あなたは苦笑し、そのページにしっかりと目印をつけた。

そのとき。

背後から、さくらさんの声。

「何かおっしゃいましたか?」

「な、何でもありません!!」

オフィスに響く、あなたの大声。

周囲の社員たちが一斉に振り返った。

さくらさんはきょとんとしたあと、くすっと笑った。

「……不思議な方ですね」

あなたは真っ赤になってうつむいた。

臨時社長の危険な企みは、まだ終わっていない。

けれど、あなたには守りたい仕事がある。

そして、誰にも知られたくない、大切な恋心がある。

教育係のさくらさんには、まだ恋心を知られてはいけない。

――ただし。

さくらさんのほうも、あなたのことが少しずつ気になり始めていることを、あなたはまだ知らなかった。