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「さくらさんの婚約者……だと思った人」

教育係のさくらには恋心を知られてはいけない。 — www.pixiv.net · All chapters

「さくらさんの婚約者……だと思った人」

朝。

新しい会社のオフィスには、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。

僕は今日も、デスクで書類を整理していた。

「おはようございます。今日も早いですね」

聞き慣れた優しい声。

振り向くと、さくらさんが立っていた。

「おはようございます、さくらさん。昨日のうちに、今日の仕事を少し進めておいたんです」

「まあ。相変わらず頑張り屋さんですね。でも、無理はなさらないでくださいね?」

そう言って、さくらさんはふわりと微笑んだ。

……かわいい。

今日もかわいい。

いや、待て。

僕は心の中で頭を抱えた。

僕は、この人が好きだ。

初めて会った日からずっと。

でも、その気持ちを知られるわけにはいかない。

「ありがとうございます。気をつけますね」

「はい。では、今日もよろしくお願いします」

さくらさんは自分のデスクへ戻っていった。

僕はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。

今日も、この気持ちは秘密だ。

そう思っていた。

まさか、あんな出来事が起こるなんて知らずに。

1.突然現れた男性

午前十時過ぎ。

会社の受付から、さくらさん宛てに来客があるという連絡が入った。

「さくらさん、お客様だそうです」

僕が伝えると、さくらさんは不思議そうに顔を上げた。

「私にですか? 今日は来客の予定はなかったはずですが……」

そう言いながら、受付へ向かう。

僕も書類を届けるため、少し遅れて廊下へ出た。

すると。

「おお、さくら! 久しぶりだな!」

明るい男性の声が響いた。

そこにいたのは、背の高い、落ち着いた雰囲気の男性だった。

さくらさんを見るなり、親しげに手を振っている。

「……えっ?」

さくらさんが目を丸くした。

「ちょっと! どうして突然来るんですか!」

いつもの丁寧な敬語とは違う。

少し慌てた、素の声だった。

男性は楽しそうに笑った。

「いやあ、近くまで来たからな。元気にしてるかと思って!」

「もう……連絡くらいしてください!」

僕は廊下の角で、二人の様子を見ていた。

男性は、さくらさんのことをよく知っているようだった。

距離も近い。

さくらさんも、驚きながらどこか嬉しそうにしている。

そして、男性が言った。

「そうだ。お前、そろそろいい人でもいるのか?」

「なっ……! な、何を言っているんですか!」

さくらさんの顔が、みるみる赤くなった。

「ははは! なんだ、その反応は!」

「もう! ここは会社ですよ!」

二人のやり取りを聞いて、僕の胸がざわついた。

……もしかして。

いや、まさか。

けれど、男性はとても親しげだった。

それに、さくらさんのあの表情。

僕の知らないさくらさんだった。

そのとき、男性が僕の存在に気づいた。

「おっ? そちらの青年は?」

さくらさんが振り向く。

「あ、こちらは私の部下で……」

「いつもお世話になっております」

僕はすぐに頭を下げた。

「彼はとても優秀なんですよ。仕事も丁寧ですし、周りの方への気遣いもできて……」

さくらさんは、僕のことを褒めてくれた。

本当に嬉しかった。

けれど。

男性は僕とさくらさんを交互に見て、ニヤリと笑った。

「へえ……なるほどなあ」

「な、何がなるほどなんですか!」

「いやいや、なんでもない!」

……なんだろう。

この二人の雰囲気。

僕には、どうしても聞けないことがあった。

2.僕が勝手に出した答え

昼休み。

僕は庭のベンチに座っていた。

いつもなら、外の景色を眺めながら新しい企画を考える時間だ。

けれど、今日は何も頭に浮かばなかった。

さっきの男性の顔が、何度も思い浮かぶ。

さくらさんに親しげに話しかけていた姿。

さくらさんの、あんなに慌てた表情。

そして、あの言葉。

――そろそろいい人でもいるのか?

もしかしたら。

さくらさんには、婚約者がいるのかもしれない。

まだ公表していないだけで、将来を約束した人が。

僕は膝の上で、ぎゅっと両手を握った。

「……そっか」

声に出すと、胸の奥がひどく痛んだ。

「そうだよな……」

さくらさんは優しくて、綺麗で、誰にでも気遣いができる人だ。

そんな人に、大切な相手がいても不思議じゃない。

僕が勝手に好きになっただけ。

さくらさんが僕を特別に思っているなんて、考えるほうがおかしい。

それなのに。

一緒に仕事ができるだけで嬉しかった。

名前を呼んでもらえるだけで、幸せだった。

笑顔を向けてもらえるたび、明日も頑張ろうと思えた。

……でも、それも今日までなのかもしれない。

僕は空を見上げた。

青い空が、少しだけ滲んで見えた。

「……お幸せに、か」

まだ何も聞いていない。

婚約者だと決まったわけでもない。

それなのに、僕はもう、別れの言葉を考えていた。

好きだからこそ。

さくらさんには幸せでいてほしかった。

たとえ、その隣にいるのが僕じゃなくても。

僕は目元を拭い、立ち上がった。

「よし……仕事に戻ろう」

頬には、涙が一筋だけ残っていた。

3.「お幸せに」

午後三時。

僕はさくらさんから頼まれていた書類を届けるため、会議室へ向かった。

扉を開けると、そこにはさくらさんと、朝の男性がいた。

男性は椅子に座り、楽しそうにお茶を飲んでいる。

「ありがとうございます、さくらさん。いやあ、昔からお前は気が利くなあ」

「もう……子ども扱いしないでください」

「子どもって、お前、いくつになったと思ってるんだ?」

「それは……!」

さくらさんが頬を膨らませた。

……かわいい。

こんなときでも、僕はそう思ってしまった。

でも。

僕は、もうこの人の隣に立つ未来を想像してはいけないのかもしれない。

「さくらさん。ご依頼の書類をお持ちしました」

「あ、ありがとうございます。そこに置いていただけますか?」

「はい」

僕は書類を置き、男性に向き直った。

「初めまして。いつもさくらさんにはお世話になっております」

「ああ、こちらこそ。さくらが迷惑をかけていないといいんだが」

「いえ。さくらさんには、本当にお世話になっています」

心からそう思っていた。

僕に仕事を教えてくれた人。

困ったときに助けてくれた人。

僕が誰かに責められたとき、初めて本気で怒ってくれた人。

そして、僕が一番大切に思っている人。

だからこそ。

僕は男性に向かって、できる限り優しく微笑んだ。

「……さくらさんのこと、よろしくお願いします」

「え?」

男性が目を瞬かせた。

僕は続けた。

「さくらさんは、とても素敵な方ですから」

一瞬、喉が詰まった。

それでも、僕は最後まで言った。

「どうか……お幸せに」

さくらさんが、ぴたりと動きを止めた。

「……え?」

僕は頭を下げた。

そして、顔を上げたとき。

男性の表情が視界に入った。

驚いたような顔。

さくらさんも、何かを言おうとしている。

でも、僕はもう耐えられなかった。

笑顔を崩さないように、必死だった。

「それでは、失礼します」

僕は会議室を出た。

廊下を歩く。

一歩。

もう一歩。

誰にも見られないように、早足になる。

そして、角を曲がった瞬間。

頬を、一筋の涙が伝った。

「……っ」

僕は慌てて拭った。

泣くな。

泣いちゃ駄目だ。

自分で決めたことじゃないか。

さくらさんの幸せを願うって。

そう思っているのに。

「……好き、だったなあ……」

小さな声が、誰もいない廊下に消えていった。

4.さくらさんが追いかけてきた

「待ってください!」

背後から声がした。

僕はびくりと肩を震わせた。

振り向くと、さくらさんが走ってきていた。

「さ、さくらさん……?」

息を少し弾ませながら、さくらさんは僕の前で立ち止まった。

「どうして……どうして、あんなことをおっしゃったんですか?」

「……え?」

「お幸せに、って……」

さくらさんの声が震えていた。

僕は目を伏せた。

「……すみません。余計なことを言いました」

「余計なこと?」

「はい。僕が口を出すことじゃありませんでした」

「そんなことを聞いているんじゃありません!」

さくらさんが、珍しく強い声を出した。

僕は思わず顔を上げた。

さくらさんの瞳には、困惑が浮かんでいた。

「どうして、そんなに悲しそうなお顔をなさっているんですか?」

「……!」

しまった。

見られていた。

僕は慌てて顔を背けた。

「べ、別に……悲しくなんかありません」

「嘘です」

即答だった。

「さっき、頬に涙が……」

「目にゴミが入っただけです!」

「……では、どうして私と目を合わせてくださらないんですか?」

何も言えなかった。

さくらさんは、ゆっくりと僕の前に立った。

「……私、何かあなたを傷つけるようなことをしましたか?」

違う。

さくらさんは何も悪くない。

僕が勝手に勘違いして。

勝手に好きになって。

勝手に傷ついただけだ。

「……違います」

僕は小さく首を振った。

「さくらさんは、何も悪くありません」

「それなら……」

「ただ……」

言いかけて、口を閉じた。

言えるわけがない。

あなたが好きだから。

あなたの隣に、知らない誰かがいるのを想像するだけで、胸が痛いから。

そんなこと、言えるわけがない。

僕は無理やり笑った。

「……さくらさんには、幸せになってほしいんです」

その言葉を聞いた瞬間。

さくらさんは、目を見開いた。

そして。

「……もう!」

頬を赤くして、僕の袖をそっとつかんだ。

「何を勘違いなさっているんですか!」

「えっ?」

「ですから! あの方は……!」

そのときだった。

「おーい、さくら! 説明してやらなくていいのか?」

廊下の向こうから、朝の男性が歩いてきた。

さくらさんは顔を真っ赤にした。

「お兄ちゃん! 今は黙っていてください!」

「お、お兄ちゃん……?」

僕の思考が止まった。

男性は豪快に笑った。

「そうだぞ。俺はさくらの兄だ。年がかなり離れているから、初対面だとよく勘違いされるんだよ」

「……え?」

「婚約者? 俺が? ははは! そんなわけないだろう!」

男性はお腹を抱えて笑い始めた。

「さくらにいい人がいるのか聞いたのは、妹の恋愛事情が気になっただけだ!」

「もう! お兄ちゃん、笑わないでください!」

さくらさんは顔を真っ赤にして、兄の腕を軽く叩いた。

僕は、ただ立ち尽くしていた。

兄。

婚約者じゃない。

つまり。

僕が勝手に失恋したと思い込んで。

勝手に涙を流して。

勝手に「お幸せに」なんて言って。

全部、勘違いだった。

「…………」

「……あの?」

さくらさんが、そっと僕の顔を覗き込んだ。

「大丈夫ですか?」

僕は両手で顔を覆った。

「……うわあああ……」

「えっ!? ど、どうされたんですか!?」

「恥ずかしい……! ものすごく恥ずかしいです……!」

「……ふふっ」

さくらさんが、小さく笑った。

「……笑わないでください……」

「す、すみません。でも……」

さくらさんは口元を押さえながら、目を細めた。

「あなたが、あんなに真剣なお顔で『お幸せに』とおっしゃるものですから……」

「忘れてください……!」

「ふふっ。難しいかもしれません」

「さくらさあああん……!」

兄は、ついに大声で笑い出した。

「はははは! いやあ、いい青年だな! 妹の幸せを願ってくれるとは!」

「お兄ちゃん!」

「おっと、悪かった悪かった!」

そう言いながらも、兄の笑顔は止まらなかった。

5.さくらさんの、少しだけ特別な質問

兄が帰ったあと。

僕とさくらさんは、会社の庭にいた。

僕はベンチに座り、両手で顔を覆っていた。

「……今日のことは、忘れたいです」

「そうですね。私も、兄にからかわれたことは忘れたいです」

「……さくらさんも大変ですね」

「ええ、本当に」

二人で小さく笑った。

しばらくして、さくらさんが僕の隣に座った。

「……でも」

「はい?」

「あなたが、あんなに悲しそうにしていた理由が……少しだけ、気になっています」

心臓が跳ねた。

ドクン。

「そ、それは……」

「私の兄を、婚約者だと思われたからですか?」

「……はい」

「そして、私がその方と幸せになると思って……」

さくらさんはそこで言葉を止めた。

僕は、黙ってうなずいた。

さくらさんの頬が、ほんのりと赤くなった。

「……そう、ですか」

声が小さくなった。

「……あの、さくらさん?」

「い、いえ! なんでもありません!」

さくらさんは慌てて首を振った。

それから、少しだけ俯いた。

「……もし、本当に私に婚約者がいたら……あなたは、どうなさるつもりだったんですか?」

その質問に、僕は息をのんだ。

正直に答えるべきだろうか。

それとも、いつものように冗談でごまかすべきだろうか。

しばらく悩んだ末、僕は静かに答えた。

「……応援します」

「……え?」

「悲しいと思います。でも……さくらさんが幸せなら、それでいいんです」

さくらさんは、何も言わなかった。

僕は続けた。

「僕は、さくらさんにたくさん助けてもらいました。だから……さくらさんには、笑っていてほしいんです」

「……」

「もちろん、できれば……これからも一緒に仕事ができたら嬉しいですけど」

最後の言葉だけ、少し小さくなった。

すると。

さくらさんが、そっと微笑んだ。

「……ありがとうございます」

その声は、いつもより優しかった。

「でも……」

「はい?」

さくらさんは僕を見つめた。

「私が誰と幸せになるかは……私自身が決めることですよ?」

「……そうですね」

「ですから、勝手にお別れを決めないでくださいね」

「……え?」

「あなたが急に離れてしまったら……私、困りますから」

ドクンッ。

心臓が大きく鳴った。

さくらさんは、少し照れたように微笑んでいた。

「あなたは、大切な部下ですから」

……部下。

そうだ。

僕は、さくらさんの部下だ。

それ以上の意味があるのかどうかなんて、まだわからない。

それでも。

「……はい。これからも、よろしくお願いします」

僕が答えると、さくらさんは嬉しそうに笑った。

「こちらこそ、よろしくお願いしますね」

そして立ち上がる直前。

さくらさんは、僕の顔をもう一度覗き込んだ。

「……それと」

「はい?」

「今日は、泣かないでくださいね?」

「……っ!」

「せっかく、いつも頑張っていらっしゃるんですから。悲しいときは、無理に笑わなくてもいいんですよ?」

優しい言葉だった。

あまりにも優しくて。

僕はまた、泣きそうになった。

「……さくらさんって、ずるいですね」

「えっ? 私、何かしましたか?」

「……いえ。なんでもありません」

本当は、言いたかった。

あなたが好きです、と。

でも、今日もその言葉は胸の中にしまっておいた。

さくらさんは不思議そうに首を傾げたあと、いつもの笑顔を見せてくれた。

「では、戻りましょう。まだお仕事がありますから」

「はい!」

僕は立ち上がった。

さくらさんの隣を歩く。

さっきまで、もう隣を歩けないと思っていた人と。

……よかった。

本当に、よかった。

僕は心の中で、そっと呟いた。

さくらさんには、まだ僕の恋心を知られてはいけない。

だけど。

いつか、この気持ちを伝えられる日が来たら。

そのときは、今日みたいに勘違いして逃げたりせず。

ちゃんと、自分の言葉で伝えよう。

そう思いながら、僕は隣を歩くさくらさんを見た。

すると、さくらさんがこちらを振り向いた。

「……? どうしました?」

「い、いえ! なんでもありません!」

「ふふっ。変なあなたですね」

さくらさんは、いたずらっぽく笑った。

その笑顔を見た瞬間。

僕の心臓は、また大きく鳴った。

ドクン。

……やっぱり。

僕は、この人が大好きだ。

そして、その日の夕方。

さくらさんのお兄さんから、さくらさんに一通のメッセージが届いた。

『さっきの青年、さくらのことが好きなんじゃないか?』

「~~~~っ!!」

スマートフォンを見たさくらさんは、耳まで真っ赤になった。

「お、お兄ちゃんっ!!」

その声は、オフィスの廊下にまで響いた。

一方、僕は自分のデスクで、何も知らずに仕事をしていた。

今日も、さくらさんはかわいい。

そして僕は――。

自分の恋心が、少しずつさくらさんに近づいていることに、まだ気づいていなかった。