眠っているあなたの教育係と、ドクンと鳴った胸
眠っているあなたの教育係と、ドクンと鳴った胸
――指輪の勘違い騒動と、本音メールの送信事故。その翌日。
今日の僕は、昨日の出来事を思い出さないようにしながら、いつも通り仕事をしていた。
……いや、正確には、いつも通りを装っていた。
(昨日、さくらさんに送ったメール……)
『今日の僕はスランプです』
その下に、思い切り大きく書いてしまった言葉。
『あなたのことが好き。大好き』
しかも、二度目の本音メールまで送ってしまったのだ。
(忘れよう。うん。忘れよう。さくらさんも、きっと仕事のことだと思って……いや、思うわけないよなぁ……)
僕はデスクに額をくっつけそうになりながら、深いため息をついた。
そんなときだった。
「……あれ?」
ふと、さくらさんのデスクに目を向ける。
いつもなら、書類をきちんと整理し、後輩たちの仕事を確認している彼女が、今日は静かだった。
よく見ると、椅子に座ったまま、机に伏せて眠っている。
「さくらさん……?」
返事はない。
近づいてみると、手元には確認途中の書類が置かれていた。どうやら、仕事の途中で眠ってしまったらしい。
いつも僕を気にかけてくれて、困っている社員がいれば真っ先に駆けつけてくれる人。
そんな彼女が、少しだけ心配になった。
「……昨日も、遅くまで仕事してたのかな」
僕は小さくつぶやいた。
そのとき。
「……う……ん……」
さくらさんが、苦しそうに小さく唸った。
「えっ……さくらさん?」
眉を寄せ、何かに困っているような表情をしている。
僕は慌てて周囲を見た。
幸い、近くにほかの社員はいない。
「さくらさん、大丈夫ですか?」
そっと、彼女の顔が見える位置までしゃがむ。
「……大丈夫ですよ。ここは会社ですから。怖いことなんてありませんよ」
自分でも驚くくらい、優しい声が出た。
いつも彼女に助けてもらっているから。
今度は僕が、少しでも安心させてあげたかった。
「ゆっくり休んでくださいね。仕事なら、起きてからでも大丈夫ですから」
そう言って、近くにあった清潔なひざ掛けを、肩が冷えないようにそっと掛けた。
すると。
「……ん……」
さくらさんの眉間のしわが、少しずつ緩んでいった。
僕はほっとして、思わず微笑んだ。
「……よかった」
そのまま、しばらく彼女の様子を見守る。
いつもはしっかりしていて、少し隙がなくて。
僕が失敗すれば、敬語で丁寧に指導してくれる。
そんなさくらさんが、今はとても無防備に眠っていた。
(……たまには、僕が守る側になれたかな)
胸の奥が、じんわり温かくなった。
僕は起こさないように、静かに自分のデスクへ戻ろうとした。
――その瞬間。
「……ん……」
さくらさんのまぶたが、ゆっくりと開いた。
「……あれ……?」
まだ寝ぼけた様子で、彼女は周囲を見回した。
そして、すぐそばに立っていた僕を見つける。
「……あなた?」
「あっ、さくらさん! おはようございます。あの、眠っていらしたので、ひざ掛けを……勝手にすみません!」
僕は慌てて頭を下げた。
「いえ……ありがとうございます」
さくらさんは、肩に掛けられたひざ掛けに触れた。
それから、僕の顔を見上げた。
僕は、いつものように笑っていた。
「よかったです。少し、苦しそうに唸っていらしたので……。もう大丈夫そうですね」
「……っ」
その瞬間だった。
さくらさんの胸が、ドクンと鳴った。
(……え?)
自分でも驚くほど、はっきりとした音だった。
目の前の僕は、何も知らない顔で微笑んでいる。
「まだ疲れているなら、もう少し休んでいてくださいね。書類の確認なら、僕にできるところは手伝いますから」
「……あなたが?」
「はい!」
迷いのない返事。
「いつも、さくらさんに助けてもらっていますから。僕も、少しくらいお返ししたいんです」
そう言って、僕は照れくさそうに頬をかいた。
「……なんて。僕、まだまだですけどね」
さくらさんは、言葉を失っていた。
(……何ですか、その笑顔は)
(そんなふうに、何でもないことみたいに優しくしないでください……)
昨日のメールが、頭をよぎる。
『あなたのことが好き。大好き』
あの言葉を打ち込んだのは、本当に目の前の彼なのだろうか。
そして今の笑顔も、あのメールに込められた気持ちとつながっているのだろうか。
確かめたい。
けれど、今は聞けなかった。
なぜなら――。
「……さくらさん?」
僕が不思議そうに首を傾げたからだ。
「お顔、赤いですよ? 熱でもありますか?」
「っ! い、いえ! 大丈夫です!」
さくらさんは、思わず背筋を伸ばした。
「本当にですか? 無理は駄目ですよ?」
「……あなたこそ、そんなに優しくして……」
「え?」
「……いえ。何でもありません」
彼女は顔をそらした。
指輪の勘違い騒動のとき、あなたは少し距離を置いていた。
本音メールを送ってしまったあとも、どこか落ち着かない様子だった。
だから、さくらさんは少しだけ気になっていたのだ。
あなたが、何を考えているのか。
けれど今、目の前のあなたは、ただ純粋に自分を心配してくれている。
その優しさが、どうしようもなく胸に響いた。
「……ありがとうございます」
「いえいえ! では、僕は仕事に戻りますね。さくらさんも、ゆっくりしてください!」
僕は笑顔で一礼すると、自分のデスクへ戻っていった。
そして、すぐにパソコンへ向かう。
「よし……午後の仕事も頑張ろう」
――本人は、まったく気づいていなかった。
背後で、さくらさんがずっとこちらを見ていることに。
***
数分後。
さくらさんは、ひざ掛けを胸元に引き寄せた。
そして、小さな声でつぶやいた。
「……困りましたね」
頬が、まだ少し熱い。
「仕事中なのに……」
彼女は、そっと自分の胸元に手を当てた。
ドクン。
もう一度、鼓動が鳴る。
(……あのメールのことを、聞こうと思っていたのに)
(どうして、今は……あなたの笑顔ばかり思い出してしまうんでしょう)
さくらさんは、困ったように微笑んだ。
それから、あなたのデスクをちらりと見る。
あなたは画面に集中していて、こちらには気づいていない。
「……本当に、ずるい人ですね」
小さく、誰にも聞こえない声でそう言った。
そのとき、あなたが何かに気づいたように顔を上げた。
「あっ、さくらさん!」
「は、はいっ!?」
思わず声が裏返る。
「そのひざ掛け、寒かったらそのまま使っていてくださいね!」
「……っ、ありがとうございます!」
あなたは満足そうに笑って、再び仕事へ戻った。
さくらさんは、しばらく固まっていた。
そして、誰にも見られていないことを確認してから、両手でそっと顔を覆った。
「……もう……」
その声は、いつもの教育係の声より、ほんの少しだけ甘かった。
恋心を隠しているのは、あなた一人だけではないのかもしれない。
けれど、あなたはまだ知らない。
自分が優しく微笑んだ、ほんの数秒。
その瞬間に、さくらさんの胸が、昨日の本音メールを読んだとき以上に大きく鳴ってしまったことを。
そして――。
さくらさんは、次にあなたと二人きりになったら、あのメールのことをもう一度、きちんと聞いてみようと決めたのだった。