スランプの僕と、街角に近づく足音
スランプの僕と、街角に近づく足音
1.頭の中が、いっぱいだった。
「……駄目だ。全然、思いつかない」
午前中から、僕はずっとデスクに向かっていた。
企画書を開いては閉じ、ノートに案を書いては消す。
普段なら、ひとつのアイディアから次々と新しい発想が生まれてくる。仕事の効率化も、他の社員のサポートも、いつの間にか終わらせてしまうことが多い。
けれど、今日だけは違った。
何を考えても、途中で行き詰まってしまう。
「……スランプだなぁ」
小さく呟き、椅子の背もたれに体を預けた。
そして、ふと昨日の出来事を思い出す。
さくらさんに送ってしまった、あのメール。
仕事の報告をするつもりだったのに、気づかないまま本音を書いて送ってしまった。
『今日の僕はスランプです』
その下には、大きく書かれた言葉。
『あなたのことが好き。大好き』
……思い出すだけで、顔が熱くなる。
「いやいやいや……! なんであんなことに……!」
僕は慌てて顔を覆った。
さくらさんは、あのメールをどう思ったのだろう。
冗談だと思ってくれただろうか。
それとも、本気だと気づいてしまったのだろうか。
考えれば考えるほど、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
「……駄目だ。仕事にならない」
僕は立ち上がった。
「ちょっと外に出よう。歩けば、何か変わるかもしれない」
そうして、上司に短く外出の許可を取り、財布とスマートフォンを持って会社を出た。
もちろん、さくらさんには会わないつもりだった。
……このときの僕は、まだ知らなかった。
そのさくらさんが、すぐ後ろから近づいてきていることを。
2.街を歩く僕と、後ろを歩くさくらさん。
会社を出ると、秋の風が頬を撫でた。
「……気持ちいいな」
僕はゆっくり歩き始めた。
いつもなら目的地を決めて、最短距離で移動する。
けれど今日は違う。
大通りを歩き、商店街を抜け、小さな公園の前で立ち止まる。
花屋の店先に並ぶ色とりどりの花。
喫茶店から漂うコーヒーの香り。
横断歩道を渡る人たちの楽しそうな会話。
普段なら見過ごしてしまうものが、今日は妙に目に入った。
「……そうか」
僕はノートを取り出した。
「仕事のことばかり考えすぎて、視野が狭くなってたのかもしれない」
街の人の流れを眺めながら、ふと思いついた企画の断片を書き留める。
ひとつ。
ふたつ。
そして、みっつ。
「おっ……! これ、いいかもしれない!」
久しぶりに、頭の中で何かが繋がった。
思わず笑顔になる。
そのときだった。
「……ふふっ」
少し後ろから、小さな笑い声が聞こえた。
けれど僕は気づかなかった。
なぜなら、ちょうど新しいアイディアに夢中になっていたからだ。
一方、その後ろでは――。
「……あら?」
さくらさんが、少し驚いた顔で僕の背中を見つめていた。
今日は外回りの用事があり、会社を出ていたさくらさん。
帰り道、見覚えのある後ろ姿を見つけたのだ。
「……あれ、もしかして……」
見間違えるはずがなかった。
歩きながらノートを開き、時々立ち止まっては何かを書き込んでいる。
そして、何か思いつくたびに、子どものように嬉しそうな顔をしている。
「……一生懸命ですね」
さくらさんは、そっと微笑んだ。
けれど、その笑顔はすぐに少しだけ曇った。
昨日のメールを思い出したからだ。
『あなたのことが好き。大好き』
あの言葉を見た瞬間、どれほど驚いたことか。
最初は送信ミスだと思った。
けれど、今日の朝、僕と話したときの様子を思い返しても、どうにも気になってしまう。
僕は普段どおりに挨拶をしてくれた。
けれど、メールのことには一切触れなかった。
もしかしたら、恥ずかしくて言い出せないのかもしれない。
あるいは、本当に仕事のことで頭がいっぱいなのかもしれない。
「……どちらなのでしょうね」
さくらさんは小さく呟き、僕の後ろを歩き続けた。
もちろん、尾行するつもりではなかった。
ただ、スランプだと言っていた僕が、少しでも元気になっているのなら、それを見届けたいと思ったのだ。
教育係として。
……それだけのはずだった。
3.まさか、さくらさんが後ろにいるなんて。
僕は商店街の小さなベンチに腰を下ろした。
ノートを開き、今まで思いついたアイディアを整理していく。
「この案と、この案を組み合わせれば……」
ペンを走らせていた、そのとき。
ふと、頭の中にさくらさんの顔が浮かんだ。
「……さくらさん」
無意識に名前を呟いてしまう。
昨日のメール。
指輪を見て勘違いしたこと。
それから、最近、僕が困っていると必ず気づいてくれること。
別部署の社員に詰め寄られたときも、さくらさんは本気で怒って助けてくれた。
体調を崩したときには、お見舞いにも来てくれた。
仕事で失敗したときも、頭ごなしに叱るのではなく、どうすれば次に進めるかを一緒に考えてくれた。
「……僕、さくらさんに頼りすぎてるのかな」
そう呟き、少しだけ俯いた。
「でも……」
本当は、もっと話したい。
もっと一緒に仕事がしたい。
さくらさんが笑ってくれると嬉しいし、名前を呼んでもらえるだけで、その日一日が少し明るくなる。
けれど、それを知られてしまったら。
今までの関係が変わってしまうかもしれない。
「……駄目だ。考えるのはやめよう」
僕は頭を振った。
「今は仕事。仕事のことを考えよう」
そして、再びノートに目を落とした。
その瞬間。
「……仕事のこと、ですか?」
「うん。この案をもう少し整理すれば……」
「なるほど。ずいぶん集中しているんですね」
「そうなんだよ。さっきからずっと考えてて……」
……ん?
僕のペンが止まった。
今、誰と話していた?
聞き覚えのある声。
丁寧で、落ち着いていて。
でも、僕がよく知っている声。
ゆっくりと顔を上げる。
そこには――。
「……さ、さくらさん!?」
にこりと微笑む、教育係のさくらさんが立っていた。
「こんにちは。こんなところでお会いするなんて、偶然ですね」
「えっ!? あっ、はい! 偶然ですね!?」
僕は慌てて立ち上がった。
ノートを閉じようとした拍子に、ペンがベンチの下へ転がっていく。
「あっ!」
「あら、大丈夫ですか?」
さくらさんが屈んで、ペンを拾ってくれた。
「は、はい! ありがとうございます!」
受け取るとき、僕の手が少し震えてしまう。
さくらさんは、それを見逃さなかった。
「……もしかして、まだスランプが続いているんですか?」
「えっ?」
「朝から少し元気がないように見えましたので。気になっていたんです」
「い、いえ! その、今は大丈夫です! ちょっと歩いたら、いくつかアイディアが浮かんできて!」
「そうですか。それなら、よかったです」
さくらさんは安心したように微笑んだ。
その表情を見て、僕の胸が温かくなる。
……いや、待て。
どうして、さくらさんがここにいるんだ?
まさか、僕を追いかけてきた?
いやいや、そんなはずはない。
きっと本当に偶然だ。
そう自分に言い聞かせていると、さくらさんが隣のベンチを指さした。
「少し、お話ししてもいいですか?」
「……えっ?」
「せっかくお会いしたのですから」
「は、はい! もちろんです!」
僕は背筋を伸ばした。
さくらさんが隣に座る。
近い。
いや、普通の距離だ。
ただ隣に座っただけだ。
そう、ただそれだけなのに。
僕の心臓は、さっきまで仕事のアイディアを考えていたときよりも忙しく動いていた。
4.さくらさんの質問。
「ところで」
さくらさんが、こちらを向いた。
「昨日のメールのことなのですが」
「…………え?」
時間が止まった。
僕はゆっくりと顔を向ける。
さくらさんは、いつもの穏やかな表情だった。
けれど、その目はまっすぐ僕を見ていた。
「昨日、送ってくださったメール。覚えていますか?」
「……メール?」
とぼけようとした。
けれど、無理だった。
あのメールを忘れられるはずがない。
「……あ、ああ! あれですね! 業務の報告の……!」
「はい。そのメールです」
さくらさんは小さく頷いた。
そして、ほんの少しだけ首を傾げた。
「最後のほうに、ずいぶん大きな文字で書かれていた言葉がありましたよね?」
「…………」
終わった。
僕の人生が終わった。
いや、終わってはいない。
でも、僕の秘密は、もう目の前まで迫っていた。
「……あれは、その……」
必死に言い訳を探す。
しかし、何も思い浮かばない。
仕事の企画なら、いくらでも考えられるのに。
自分の気持ちの説明だけは、どうしてこんなにも難しいのだろう。
「……送信先を間違えた、とか?」
さくらさんが尋ねた。
僕は勢いよく頷きかけた。
「そ、そうです! きっと、何かの間違いで……!」
「……そうですか」
さくらさんは、一瞬だけ目を伏せた。
その表情を見た途端、胸が痛くなった。
どうしてだろう。
本当のことを隠せたはずなのに。
なぜか、嬉しくなかった。
むしろ、さくらさんを少しだけ悲しませてしまったような気がした。
僕は膝の上で拳を握った。
「……あの、さくらさん」
「はい?」
「その……昨日のことは、本当にすみませんでした。変なメールを送ってしまって……」
「謝らなくても大丈夫ですよ」
さくらさんは優しく答えた。
「ただ、ひとつだけ聞いてもいいですか?」
「……はい」
「今日、スランプだとおっしゃっていましたよね」
「はい」
「今も、何か悩んでいることがあるんですか?」
僕は言葉に詰まった。
仕事のことなら話せる。
新しい企画のことなら、いくらでも相談できる。
でも、今の悩みは。
目の前にいる、この人のことだった。
「……あります」
気づけば、そう答えていた。
さくらさんが少し驚いた顔をする。
「そうですか。よかったら、話してみませんか?」
「……でも」
「無理にとは言いません。ただ、ひとりで抱え込む必要はありませんから」
その言葉に、僕は顔を上げた。
ああ。
やっぱり、この人は優しい。
だから、好きになってしまったのだ。
だからこそ、知られてはいけないと思っていたのに。
「……ありがとうございます」
僕は、なんとか笑顔を作った。
「もう少し、自分で考えてみます」
「……わかりました」
さくらさんは、それ以上は聞かなかった。
ただ、立ち上がる前に、そっと言った。
「でも、ひとつだけ覚えておいてくださいね」
「はい?」
「あなたがスランプになったからといって、あなたの努力までなくなるわけではありません。今まで頑張ってきたことを、忘れないでください」
僕は目を見開いた。
「……さくらさん」
「焦らずにいきましょう。あなたなら、きっと大丈夫です」
その笑顔を見た瞬間。
僕の頭の中に、ひとつのアイディアが浮かんだ。
仕事のアイディアではない。
もっと、ずっと個人的なものだった。
――いつか。
いつか、この人に自分の気持ちを伝えられる日が来るのだろうか。
もちろん、今はまだ言えない。
教育係のさくらさんには、恋心を知られてはいけない。
……そう思っているのに。
「……さくらさん」
「はい?」
「僕、明日からも頑張ります」
僕がそう言うと、さくらさんは嬉しそうに微笑んだ。
「はい。期待していますよ」
そして、さくらさんは歩き出した。
僕はその背中を見送る。
しばらくして、ふと気づいた。
「……あれ?」
僕は首を傾げた。
「そういえば、さくらさん……どうして、僕がここにいるってわかったんだろう?」
考えてみる。
会社を出たとき、さくらさんには何も言っていない。
行き先も伝えていない。
それなのに、商店街を歩いていた僕の後ろから現れた。
「…………」
まさか。
僕は、さくらさんが歩いていった方向を見た。
けれど、もう姿は見えなかった。
「……偶然、だよな?」
そう呟いて、僕は再びノートを開いた。
そして、仕事のアイディアを書き足していく。
スランプは、少しだけ解消された。
けれど、新たな問題がひとつ増えてしまった。
さくらさんは、昨日のメールを本当はどう思っているのだろう。
その答えを、僕はまだ知らない。
一方、その頃。
少し離れた街角で、さくらさんはスマートフォンを取り出していた。
昨日のメール画面を開く。
そして、あの大きな文字を見つめた。
「……本当に、送信ミスだったのでしょうか」
小さく呟く。
それから、今日の僕の顔を思い出した。
あの慌てぶり。
言い訳を探していた表情。
そして、最後に見せてくれた、少し照れたような笑顔。
「……もう少しだけ、待ってみましょうか」
さくらさんはスマートフォンをしまい、静かに歩き出した。
その頬が、ほんの少しだけ赤くなっていたことを。
もちろん、僕は知る由もなかった。