「スランプの僕と、送ってはいけない本音メール」
「スランプの僕と、送ってはいけない本音メール」
朝。
あなたはデスクに座り、パソコンの画面をじっと見つめていた。
「…………」
今日のあなたは、どうにも調子が悪かった。
いつもなら思いつく企画のアイディアが、ひとつも浮かんでこない。普段なら簡単に終わる書類の作成にも時間がかかり、何度見直しても納得できなかった。
昨日までなら、他の社員の仕事を手伝いながら、自分の業務も順調に進められていたはずなのに。
今日は、何もかもうまくいかない。
「……今日の僕、スランプだなぁ」
小さく呟き、椅子の背もたれに体を預けた。
ふと、視線が隣の列に向かう。
そこには、教育係のさくらさんがいた。
昨日のことが頭をよぎる。
さくらさんの指に指輪がはめられているのを見て、勝手に既婚者だと思い込んでしまったこと。
そのせいで、今日もどこかぎこちなくなってしまっていること。
実際には、あの指輪はただのアクセサリーだった。
それを知ったときは、ほっとした。
けれど、一度意識してしまった気持ちは、そう簡単には落ち着いてくれない。
「……はぁ」
あなたはため息をつき、再びパソコンに向き直った。
今日こそは、余計なことを考えずに仕事をしよう。
そう決めたのだった。
しかし。
今日のあなたには、もうひとつの問題が待ち受けていた。
午前10時30分。スランプ、深刻化。
「……違う。これじゃない」
企画書を作っては消し、作っては消し。
気づけば、画面には何も残っていなかった。
あなたは頭を抱えた。
「昨日まで、どうやって仕事してたんだっけ……」
そのとき、パソコンの画面にメールの通知が表示された。
送り先の名前を確認することもなく、あなたは何気なくメールソフトを開いた。
そこには、昨日の業務連絡で使ったメールの画面が残っていた。
そして、宛先には――。
さくらさん。
しかし、あなたは気づかなかった。
頭の中が仕事のことでいっぱいだったからだ。
あなたは、メールの本文にカーソルを合わせた。
そして、小さく呟きながら文字を打ち込んだ。
「……今日の僕は、スランプです」
画面の中に、小さな文字が並ぶ。
今日の自分の状態を、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
さくらさんに相談できたら、少しは楽になるのだろうか。
そんなことを考えながら、あなたは続けて文字を打ち始めた。
最初は、仕事の悩みを書くつもりだった。
けれど、ふと昨日の指輪のことを思い出した。
さくらさんの笑顔。
困ったときに助けてくれるところ。
仕事で失敗しても、頭ごなしに怒らず、きちんと理由を聞いてくれるところ。
あなたが誰にも言えなかった悩みに、真剣に耳を傾けてくれたこと。
思い出せば思い出すほど、胸の奥にしまい込んでいた気持ちが溢れてきた。
「……さくらさん」
あなたは、無意識のうちに文字を打ち続けた。
そして――。
小さく書かれた一文の下に、画面いっぱいの大きな文字で。
『あなたのことが好きです。大好きです。』
さらに、その下にも。
『仕事を教えてくれるところも、優しいところも、笑ってくれるところも、全部大好きです。』
『本当はもっとお話ししたいです。もっと一緒に仕事がしたいです。』
『でも、教育係のさくらさんには、こんな気持ちを知られたくありません。』
書き終えたあなたは、ようやく少しだけ気持ちが落ち着いた。
「……はぁ。ちょっとすっきりした」
画面に表示された文章を眺める。
けれど、あなたはまだ気づいていなかった。
これは自分だけが見るメモではない。
さくらさんに宛てたメールそのものだった。
そして、あなたの指は何のためらいもなく、送信ボタンを押してしまった。
ポンッ。
送信完了。
「……よし。仕事に戻ろう」
あなたは何事もなかったかのように企画書を開いた。
その直後。
あなたのパソコンには、新しい通知が届いた。
さくらさんからの返信だった。
午前10時35分。教育係、固まる。
一方、その頃。
さくらさんは、自分のデスクで業務メールを確認していた。
「ええと……次の会議資料は……」
いつものように、落ち着いた様子でメールを開いていく。
そして、あなたからのメールを見つけた。
「あら。○○さんからですね」
昨日の業務報告の続きだろうか。
そう思いながら、何気なく開いた。
最初に目に入ったのは、小さな文字だった。
『今日の僕は、スランプです』
「……あら?」
さくらさんは、少し心配そうに画面を見つめた。
「今日は朝から元気がないと思っていましたが……」
教育係として、何か声をかけたほうがいいかもしれない。
そう思って読み進めようとした。
ところが。
その下に、目を疑うほど大きな文字が並んでいた。
『あなたのことが好きです。大好きです。』
「…………」
さくらさんの手が止まった。
もう一度、画面を見た。
瞬きをした。
そして、もう一度読んだ。
「……えっ?」
思わず声が漏れた。
隣の席の社員が顔を上げる。
「さくらさん、どうしました?」
「い、いえ! 何でもありません。少し驚いただけです」
さくらさんは、慌てて画面を閉じようとした。
しかし、その前に目に入ってしまった。
『本当はもっとお話ししたいです』
『でも、教育係のさくらさんには、こんな気持ちを知られたくありません』
「…………っ」
さくらさんの頬が、じわじわと赤くなっていった。
(こ、これは……)
(本音、なのでしょうか……?)
(それとも、何かの間違い……?)
昨日、あなたが自分の指輪を見て、少し落ち込んでいるようだったことを思い出す。
今日も、どこか距離を取られている気がしていた。
だからこそ、このメールの意味が気になって仕方がなかった。
「……○○さん」
さくらさんは、あなたのいる方向をそっと見た。
あなたは、真剣な顔で企画書に向かっていた。
まさか自分が送ったメールを、教育係が読んでいるとは思いもしない様子だった。
(……気づいていないのですね)
さくらさんは、そっと息を吐いた。
そして、もう一度メールを開いた。
今度は、最初からゆっくりと読んだ。
読み終えた頃には、頬の赤みはなかなか引かなくなっていた。
「……大好き、ですか」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
そして、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
「……困りましたね」
そう言いながらも、さくらさんはメールを削除しなかった。
午前11時。届いた返信。
あなたは、相変わらず企画書と格闘していた。
「うーん……どうすればいいんだ……」
そのとき、メールの通知が表示された。
差出人は、さくらさん。
「……ん?」
あなたは何気なくメールを開いた。
そこには、いつもと変わらない丁寧な文章が書かれていた。
『○○さん、お疲れさまです。
本日の業務で何かお困りのことがあるようでしたら、遠慮なく相談してくださいね。
それから、先ほどのメールについて、少し確認したいことがあります。
お昼休みに、庭でお話しできますか?
さくら』
「…………」
あなたは、数秒間、画面を見つめた。
「……先ほどのメール?」
その瞬間。
あなたの頭の中で、何かが繋がった。
宛先。
メールの本文。
送信ボタン。
そして、さっき自分が打ち込んだ文字。
あなたは、ゆっくりと送信済みメールを開いた。
そこには――。
『今日の僕は、スランプです』
その下に。
『あなたのことが好きです。大好きです。』
「…………」
顔から血の気が引いた。
「……え?」
もう一度、確認する。
宛先。
さくらさん。
送信済み。
本文。
大好きです。
「………………えええええっ!?」
思わず声が出た。
周囲の社員たちが一斉に振り返る。
「どうした!?」
「大丈夫か?」
「何かあったのか?」
あなたは慌てて両手を振った。
「い、いえ! 何でもありません! 何でもないです!」
(終わった……)
(僕の会社生活、終わった……!)
(なんで!? なんでさくらさんのメールを開いたまま書いてたんだ!?)
(しかも、なんであんなに大きな文字で!?)
あなたは机に突っ伏した。
(……もう無理だ)
(お昼休み、どうしよう……)
しかし、返信を無視するわけにもいかない。
あなたは震える指で、短い返事を打った。
『承知いたしました。お昼休みに伺います。』
送信。
そして、心の中で叫んだ。
(誰か、時間を戻してください……!)
午後0時。庭での事情聴取。
昼休み。
あなたは、いつもの庭へ向かった。
足取りは重い。
普段なら好きな景色を眺めて気持ちを落ち着ける場所なのに、今日はまるで裁判所へ向かうような気分だった。
庭のベンチのそばには、さくらさんが立っていた。
「○○さん」
「……は、はい」
「お疲れさまです。こちらへどうぞ」
いつもどおりの敬語。
いつもどおりの穏やかな声。
それが逆に怖かった。
あなたは、さくらさんの前に立った。
「……あの、さくらさん」
「はい」
「先ほどのメールなのですが……」
「ええ」
さくらさんは、少しだけ視線を落とした。
「読ませていただきました」
「…………はい」
「最初の一文には、スランプだと書かれていましたね」
「……はい」
「お仕事で悩んでいらっしゃるのでしょうか?」
「……え?」
思いがけない質問だった。
あなたは、恐る恐る顔を上げた。
さくらさんは、真剣な表情でこちらを見ていた。
「最近、少し無理をしているように見えました。ですから、まずはそちらが心配です」
「さ、さくらさん……」
「もちろん、その下に書かれていた内容についても、お聞きしたいことはありますけれど」
「…………っ!」
再び顔が熱くなる。
さくらさんは、そんなあなたの様子を見て、少し困ったように微笑んだ。
「○○さん。ひとつ、確認してもよろしいですか?」
「……は、はい」
「先ほどのメールは……本心だったのでしょうか?」
庭に、静かな風が吹いた。
あなたは、答えられなかった。
本当は、すぐにでも否定したかった。
間違いです。
冗談です。
仕事で疲れていて、変な文章を書いてしまっただけです。
そう言えば、少なくとも今すぐ気まずくなることは避けられるかもしれない。
けれど。
さくらさんの目を見た瞬間、嘘をつくことができなくなった。
「…………」
あなたは、俯いた。
「……すみません」
「謝らなくても大丈夫ですよ」
「でも……」
「はい」
「……本当、です」
声は小さかった。
けれど、はっきりと聞こえる声だった。
「……さくらさんのこと、好きです」
言ってしまった。
ついに、言ってしまった。
あなたは、もう顔を上げられなかった。
「教育係として、尊敬しているのも本当です。でも……それだけじゃなくて」
言葉が途切れる。
「……いつも優しくしてくれて。困ったときに助けてくれて。話を聞いてくれて……気づいたら、好きになっていました」
沈黙。
あなたは、ぎゅっと手を握った。
「……すみません。困らせるつもりはなかったんです」
すると。
「○○さん」
さくらさんが、静かにあなたの名前を呼んだ。
「顔を上げていただけますか?」
あなたは、ゆっくりと顔を上げた。
さくらさんは、少しだけ頬を赤くしていた。
けれど、目は真剣だった。
「お気持ちを話してくださって、ありがとうございます」
「……え?」
「ただ、私は教育係ですから。お仕事のことも含めて、これからもお互いに落ち着いてお話しできる関係でいたいと思っています」
「……はい」
「ですから、今日のメールのことで、私を避けたりしないでくださいね」
あなたは、目を見開いた。
「……避けても、いいんですか?」
「えっ?」
「い、いえ! 違います! 避けないほうがいいですよね! もちろんです!」
慌てて言い直すあなた。
さくらさんは、とうとう小さく笑ってしまった。
「ふふっ……○○さん、今日はずいぶん慌てていますね」
「……人生最大の失敗をした気分です」
「最大、ですか?」
「はい……」
「では、ひとつ訂正させてください」
「……何を、ですか?」
さくらさんは、ほんの少しだけ身を乗り出した。
「私は、あのメールを読んで、○○さんが真剣に誰かを大切に思っていることは伝わりました」
「…………」
「それを、失敗だったと決めつけなくてもいいのではありませんか?」
あなたは、言葉を失った。
さくらさんは、いつもの穏やかな笑顔に戻った。
「ただし、メールを送る前には、宛先を確認しましょうね」
「…………はい」
「大きな文字で送ると、なかなか迫力がありましたよ」
「……っ!?」
「特に、『大好きです』のところは」
「さくらさんっ! そこは忘れてください!!」
「ふふっ。善処します」
「善処じゃなくて、忘れてください……!」
庭に、さくらさんの笑い声が響いた。
あなたは両手で顔を覆った。
恥ずかしい。
とにかく、恥ずかしい。
けれど、不思議なことに。
朝から胸の中を占めていた、あの重たい気持ちは少しだけ軽くなっていた。
午後1時。新たな問題。
昼休みが終わり、あなたはデスクへ戻った。
さくらさんも、何事もなかったかのように自分の席へ戻っていく。
……はずだった。
あなたがパソコンを開くと、さくらさんから新しいメールが届いていた。
件名。
『本日の業務について』
あなたは、恐る恐る開いた。
本文には、いつもどおりの業務連絡が書かれていた。
その最後に、一文だけ。
『○○さん。スランプのときこそ、焦らず一つずつ進めていきましょう。困ったときは、いつでも相談してくださいね。
追伸:メールの宛先は、次回からお気をつけください。』
「…………」
あなたは、そっとパソコンを閉じた。
(……優しい)
(優しいけど……!)
(最後の一文が、致命傷なんです……!)
そのとき、少し離れたデスクから声がした。
「○○さん」
「は、はいっ!?」
さくらさんだった。
「午後の企画書、行き詰まったら一緒に考えましょうか?」
あなたは、一瞬だけ迷った。
昨日までなら、嬉しくてすぐに返事をしていただろう。
けれど今日は、彼女の顔を見るだけで、あのメールの文章が頭に浮かんでしまう。
それでも。
あなたは、小さく頷いた。
「……お願いします」
「はい。では、あとで確認しましょう」
さくらさんは、微笑んで自分の仕事に戻った。
あなたも、ようやく企画書を開いた。
スランプは、まだ完全には抜け出せそうにない。
恋心も、きっと簡単には消えない。
それでも、もう少しだけ頑張ってみようと思った。
――ただし。
今後、さくらさん宛てのメールを送信する前には、三回確認する。
あなたは心の中で、固く誓った。
その頃。
さくらさんは自分のデスクで、先ほどのメールを思い出していた。
「……大好き、ですか」
小さく呟き、頬に手を当てる。
そして、誰にも見られていないことを確認してから、そっと微笑んだ。
「……本当に、困った方ですね」
そう言いながらも。
午後になってから、さくらさんは何度もあなたのデスクを気にしてしまうのだった。